小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ

今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ(by三沢光晴)

 

 現場は一瞬一瞬が勝負である。それは学校現場でも同じ。

 指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思った時はたぶんその教師が考えた中での一番よいタイミングだろう。それは、子どもにとってよいタイミングかわからないし、客観的に見ると悪いタイミングなのかもしれない。

 しかし、指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思ったものの後回しにするとだいたいよくないことが起こる。子どもたちが同じことを繰り返す、そこで指導・支援しようとすると「さっきもあったけど…」みたいな態度を取り子どもたちとのギャップが生まれる等。このことについて教師は敏感でありたい。

 もちろん、教師が指導・支援したい、指導・支援しないといけない、と思った時すべてがよいタイミングではないこともある。それについても自覚的でありたい。あたかも自分がルールのように、自分の言動を絶対視することはあってはならない。

 つまり、「今は今しかない、次に同じような状況になってもそれは今じゃないんだ」ということを自覚しつつ、「本当に今のタイミングがベターなのか」ということに敏感でありたい、ということ。そのためには「メタ認知」が必要になる。自分自身を自分自身でチェックするという姿勢が。

高学年と向き合う

 高学年の子どもたちへの対応の難しさは今に始まった話ではありません。高学年の子どもたちへの対応を難しく感じている教師は多くいる。それは僕も含まれている。

 しかし、そこで二の足を踏んでいる場合でもない。何かしらの糸口を見出したくいくつかの本を読んでみたので、紹介することとする。

 

①宇野弘恵『タイプ別でよくわかる! 高学年女子 困った時の指導法60』

 高学年女子の指導について学びたい、と思い手を伸ばした一冊。高学年女子の指導には苦い思い出が多い。いまだに上手くいった、と感じられることは多くない。

 そんな高学年女子を四つのタイプに分ける等、わかりやすく示してくれている。僕にはこんなこと思いつかない、気づかない、と思うことがたくさん。

 そして、一番目にとまったことが「信頼」ということ。高学年女子を指導するには根底に信頼がないと上手くいかない。これは高学年女子だけではないだろう。

 

②赤坂真二『小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋』

 宇野先生の「高学年女子」本を読んでみたので、関連づけて再読してみた。

 宇野先生の考えと重なるところが多くあるように感じた。また、高学年女子の周辺にありそうな問題のあれやこれやについて具体的に述べてくれているので、高学年女子の指導について悩んでいる方はすぐに何かしらのヒントを得られるだろう。

 根底には、「受容的な態度」「信じると腹を括る」「信頼感を醸成する」というのがないといけない、と理解した。

 

③松尾英明『お年頃の高学年に効く! こんな時とっさ!のうまい対応』

 高学年への指導として適切なOK指導としてはいけないNG指導が対比されながら提示されている。だから、よりOK指導について理解しやすい構成となっている。

 読んでいて高学年の指導のキーワードが自分の中に浮かび上がってきた。それが「最小限に」「預ける」「信頼する」ということ。

 指導はなるべく最小限にとどめる。そして、なるべく子どもたちにいろいろなものを預ける。そこには子どもたちへの信頼がある。このような指導と言えるのではないだろうか、と考えた。

 高学年の指導に悩んでいる者にとってはとても助けになる一冊である。

 

 この三冊から導き出されたものは、高学年の子どもたちへの対応には「受容的な態度で、指導は最小限に、子どもたちに預け、信頼する」ということが大切だということ。かなり長ったらしいけども…。また、ここで導き出したものは何も高学年だけに大切なものではない。どの子に対応する時にも大切にしたいものであろう。

 自分なりに新たな意味づけを確認することができて満足している。高学年と向き合いたい、と考えている方には今回紹介した三冊はかなりおすすめです!

タイプ別でよくわかる!  高学年女子 困った時の指導法60
 
小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋

小学校高学年女子の指導―困ったときの処方箋

  • 作者:赤坂 真二
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: 単行本
 

 

ポスト・コロナの学校現場⑯「歪みが見えてきた」

 何回も述べてきましたが、新型コロナウイルスの影響で学校が休校となった期間がありました。だから、標準と言われる学習進度よりも遅くなっているのが学校再開時点での状況でした。

 それに対応するべく、各自自体で夏休みの短縮や土曜授業の実施、七時間授業の実施等を導入しました。また、多くの行事の中止や縮小もなされている(これは新型コロナウイルスの蔓延を防ぐためという側面もある)。

 ということで、幸か不幸か授業に専念できる環境となっているように感じている。だからか、例年より確かに学習進度が遅くなったスタートであったが、始まるとハイスパートな学習進度である。結局、一学期の範囲を一学期で終わらせている学級がほとんどであった。

 そして、今や学習進度は標準よりもかなり早くなっている。これは悪いことではない。また、いつウイルスの流行が起こり、休校を余儀なくされるかはわからない。最悪の事態を想定した上での学習進度なのであろう、と思う。

 理解はしつつも、少し過剰ではないか、と感じていた。何だか息が詰まりそうではないかな、と感じていた。

 そうこうしているうちに、先週の記事で書いたように不登校傾向を示す子どもたちが複数出てきた。また、子どもたちに活気がないような様子も見られるようになってきている。

 活気がない、と言っても活動できない、活動に参加しないということではない。簡単に言うと「指示待ち」のような状態である。

 ハイスパートに学習を進めるということは、かなり隙間の時間は減らされる、また矢継ぎ早に教師から指示が出されることとなる。教師が話すことは多く、子どもたちが話すことは少なくなる。

 だから、子どもたちは「指示待ち」になる。このような状況は今に始まったものではない。だからこそ、新学習指導要領でも「主体的・対話的で深い学び」がキーワードとして打ち出されているのではないだろうか。

 新型コロナウイルスの影響があるからしょうがないでは済まされない話ではないだろうか。「歪み」が生じていることに教師は気づかないといけないのではないだろうか。そして、現在の在り方ややり方を再考する必要があるのではないだろうか。

 

【過去記事】

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お供のあれこれ

今週のお題「ごはんのお供」

 

 ご飯の記事って前にも書いたような気がする。ちょっと探してみる…。

 やっぱりあった。せっかくなので、その記事を貼っておくので、よければご覧ください。

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  さて、今回はご飯のお供の話。ご飯のお供はいろいろある。というか、ご飯を食べる時、必ずと言ってもいいほど何かしらをお供にしてご飯を食べている。それは、おかずをお供にしている時もある。おかずの話をしだすと、もう終わらなさそうなので(笑)、純粋なご飯のお供について書いていこう。

 よくご飯のお供にしているのではないか、と思っているものをいくつか挙げてみる。

梅干し、海苔、漬物、ふりかけだろうか。ここら辺が、レギュラーメンバーかな。

 梅干しはできるだけすっぱいのを選ぶ。はちみつで少し甘めにしているものもあるが、やはりすっぱい方がご飯が進む。想像しただけで唾液が溢れてくるのがやっぱりいい。

 のりは味付け海苔。あれがあればどれだけでもご飯が食べられる。最近のコンビニのおにぎりでもよく味付け海苔が使われている。でも、具なしで味付け海苔の味だけでご飯を食べるのが一番なのではないか、と思っている。

 漬物は小さい頃からけっこう好きだ。特にきゅうりの浅漬け、しば漬けが好きだ。ご飯のお供と言いながら、漬物を単独で食べている割合もかなり高いのだけど(笑)。

 ふりかけはマストアイテムであろう。ふりかけを考えた人は本当に素晴らしい。いろんな楽しみ方ができるから。でも、何だかんだと言いながら、いつも丸美屋ののりたまをかけている気がするけど。

 いかがだったでしょうか。よければ今晩のご飯のお供にどうぞ!

ゆとり世代教育論「はじめに」

 新型コロナウイルスの影響が大きく、何だか忘れ去られていないか心配になるが、小学校では今年度より新学習指導要領が全面実施されている。「主体的・対話的で深い学び」が大きなキーワードとなっている。

 新たな教育の方向性が示されるようになると過去のことはすっかり忘れ去られていく。その一つが「ゆとり教育」。「ゆとり教育」とは、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針を持って、ゆとりある学校をめざした教育のことである。

 「ゆとり教育」の始まりに諸説あるが、僕はどんな区切り方をしても「ゆとり教育」の枠の中に入ることになる。そして、ゆとり教育を受けた僕たちは、「ゆとり世代」と揶揄されるようになっていく。自分が教育を受けている時には、よくわからなかったが、社会人となる頃には自分の耳によく「ゆとり教育バッシング」が届くようになっていた。

 そのおかげで、世間から見ると、何だか僕たちは出来損ない、失敗作のようであるらしい、と認識した。また、テレビや新聞で「ゆとり世代」に対してのバッシングも日に日に増えていった。

 その時、僕は反発した。「いや、そうじゃない!」「上の連中はわかっていない!」等。今、思うとこの考えも悪くないけど、正しくはない、と思う。まあ、若気の至りかな(笑)。それに、年長者の「最近の若い者は…」のような話は、今に始まったことではないし。

 そんな年長者の言葉に諦観したのか、僕たちは「ゆとりなんで…(笑)」と応えるようになる。もちろん「ネタ」で言っているつもりだった。でも、いつしか「ネタ」が「ベタ」になりつつあるようにも感じていた。つまり、年長者たちからの言葉を飲み込むふりをし、「ゆとり」という言葉を半ば逃げ口上としていたのだ。結局、年長者の言説と同じように、僕たちも思考停止に陥っていたように思う。

 今は、年長者たちから投げかけられた言葉を、「いや、そうじゃない」「言われてみると、そうだよな~」の間で揺れながら受け止めている。まさにグレーゾーンに位置している。だけど、この位置にいることは決して嫌ではない。むしろ、この位置にいられるからこそ考え続けられるとも思っている。

 さて、時はすでに「令和」。そして、新しい学習指導要領の全面実施。今さら何昔の話をしているのだ、と思われそうである。だけど、前に進むためには、過去を総括することは必要でないだろうか。

 そうしようとするならば、僕たちが生きてきた時代を俯瞰的に読み解く必要がある。そうすることで、「ゆとり世代」が生きてきた時代、見てきたこと、考えていることなどの一端を示すことができる、と思う。もちろん、僕が「ゆとり世代」の代表でもないし、僕の考えだけで「ゆとり世代」の考えが一般化できるわけがない。だが、実際にその世代である僕が語ることに意義はあるだろう。

 社会がどう変化してきたか、社会がどう変化しようとしているかに興味を持ち、そして十年後、二十年後と未来に眼差しを向ける。もちろん、未来ばかりではない。過去も同様である。過去から現在までの変容からしか、未来への想像力は生まれない。

 そろそろ僕たちは僕たちなりにでも、誰でもない僕たちについて総括し、未来へつなげる作業を行わないといけないのではないだろうか。かなり機を逸している気はしているのだが、このような思いを強くしている。

 

 このような思いをエネルギーにして、「ゆとり世代」が考える教育論なるものを少しずつ書き連ねていくことにする。よければご笑覧ください。

課題先進国で生きる

 2016年、電通の女性新入社員の自殺が、長時間のが原因だったとして労災が認められる、という報道があった。それに呼応してか、翌年1月29日に厚生労働省から、働き方改革(長時間労働の抑制・年次有給休暇の取得促進)を支援する「働き方・休み方改善ポータルサイト」の開設が発表されることとなる。長時間の過重労働が本格的に見直されようとしてきている。

 これは教師の世界も同じである。一月に週に60時間以上働く小中学校の先生の割合が70~80%に上ることが、全国の公立小中学校の教諭約4500人を対象にした連合のシンクタンク連合総研」の調査でわかった。これに伴い、当時の松野文部科学相は、業務改善のモデル地域の指定、有識者ら業務改善アドバイザーの教育委員会への派遣、部活動の休養日などに関するガイドラインづくりという三つの対策を掲げた。

 教育の現場にも「働き方改革」が導入されてきている。しかし、「公立学校教育職員の給与等に関する特別措置法」(給特法)が大きな壁にもなるかもしれないと思う。教師の仕事は複雑で管理が難しいとして、残業代を払わず、代わりに基本給の4%を全員に支給する仕組みになっている。前提として、教師は残業があってもしょうがないよね、と宣言しているようなものだ(苦笑)。もちろん、これにより地方公務員よりも高い給与になっているのだけども。

 とにもかくにも、官も民も「働き方改革」に着手し始めているのだ。それを進める上で外せないキーパーソンの一人が駒崎弘樹氏である。

 駒崎氏は2004年にNPO法人フローレンスを設立し、日本初の「共済型・訪問型」の病児保育サービスを首都圏で開始した。また、2014年には、これまで保育園に入れなかった医療的ケアのある子ども達を中心とした障害児を専門的に預かる「障害児保育園ヘレン」を東京都杉並区に開園する等、先駆的な活動を精力的に行っている。

 今や「働き方改革」は、先述したように政府も精力的に行うようになった。さらに、多くの書籍の出版等で「ライフワークバランス」という言葉も聞かれるようになっている。そこで紹介されるような事例を、この本でも紹介されている。それが駒崎氏自身の失敗や思いと共に記してくれているので、とても読みやすくなっている。

 もちろん、これらの部分は素晴らしい内容なのだけど、僕が心惹かれたところはここではない。それが

「先進国は先進国でも『課題先進国』さ。我々は何の因果か、1人で早めにテストを受けなくっちゃいけなくて、過去問もなく、カンニングもできない状況なんだよ。」

 と、氏が参加していた政府の専門委員で出会った大学教授からの言葉である。

 僕たちが暮らすこの国や社会は、確かに課題が山積している。それは教育も同じように。だけど、そこに答えはない。そして、誰も答えを教えてくれない。そんな状況である。

 そこに少しでも前向きにコミットできるような姿勢でいたい、と思っている。そんな思いを強く抱くきっかけを与えてくれたのが本書だ。「働き方改革」という視点だけでなく、多くの刺激を与えてくれる一冊である。

ポスト・コロナの学校現場⑮「疲れが出てきている?」

 新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐということを目的に、いろいろと対策が取られるようになり久しい。 そこで出てきたものが「コロナ疲れ」という言葉。長引くコロナウイルスによる影響により、不安やストレスを感じ、それが原因で心身の状態が悪くなってしまうことである。  

 それは子どもたちだって同じである。問題行動が多くみられるようになった、とは感じていない。ただ、不登校傾向を示す子どもたちの割合が増えてきているように感じている。  

 荒れるのではなく、引きこもってしまう。このような現象は、最近の学校でよく見られるものではある。また、「コロナ疲れ」と呼ばれる状態とも似通っているように感じる。  

 この不登校傾向を示す子どもたちの割合が増えてきていることとコロナウイルスによる「コロナ疲れ」に関連性があるのかはわからない。それに、どのようにすると関連性があることを証明できるかもわからない。それは、違う誰かに譲ろう(笑)。  

 現場にいる者として、肌感覚的に上記したようなことを感じているのは間違いない。だから、ここにどのように対応していくのか、ということを考えることをしないといけないのだろうな。というか、これしか今のところできることはないだろう。  

 結局、「不登校支援」や「心理的アプローチ」のような生徒指導のことについて学び、考えたらよいということなのだろうか。うーん、そうなのかな…。悩みながら、考えは続けることにしよう。

 

【過去記事】

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面倒くさくて、無駄なもの

今週のお題「もしもの備え」

 

 台風10号が猛威を奮う、と先日から多くの報道がされている。みなさん気をつけましょう。何だか意図せずタイムリーなお題となった。

 でも、期待しないでください(こんなこと言わなくとも誰も期待していないか?)。いつものようにゆるい内容です。防災の情報を得たい、と思われて記事を見てくださった方には申し訳ないです。特に得られる内容ではありません。ご了承ください(笑)。

 「天災に備える」ということはどこでも耳にすることである。天災だけでなく、どのような不測の事態でも「備えておく」ということが基本の姿勢なのであろう。

 僕もかれこれ何年がかりになったかわからないが、少し前にそれなりの備えを用意することができた。何年がかりになってしまったのは、単に腰が重かっただけである…。何とも情けない話である。だけど、このような人も世の中にはけっこういるのではないだろうか、と思っている。

 さて、どうしてもしもの備えを用意するには時間がかかってしまうのだろうか。それは、「もしも」だからこそ時間がかかり、腰が重くなってしまうのではないか、と考えている。

 「もしも」ということは、仮定の話である。だから、必ずしも起こるわけでもないし、必要があるわけでもない、と考えてしまう。もちろん、ここには個人差がある。でも、このような思考の流れになってしまうのは容易に考えられる。さらに言うと、「もしも」だから、面倒くさい、無駄になるだろう、という思いもあるのではないだろうか。

 このように考えると、「もしも」という仮定の話では、なかなか動くことができないということが理解できるだろう。だけど、このような楽観的な考えではいけないのは間違いない。

 「もしもの備え」は、面倒くさいものだし、無駄になっていいものなのだ、ということ。備えを用意するというのは、日常生活とは別に用意することになるのだから、当然面倒くさいものなのだ。用意したものの中には、賞味期限等の期限付きのものもある。だから、交換を必要とする時もある。つまり、面倒くさいものなのだ。そして、用意しておいて矛盾するようなのだが、使わずに無駄になった方がいいのである。使わず無駄になるということは、何も起こらず平和だということなのだから。

 まとめると、「もしもの備え」というものは、面倒くさくて、無駄なものなのである。というか、そうあってほしいものでもある。これが楽なもので、ガンガン使うものであっては困る。

 ということで、「もしもの備え」を用意するなんて、面倒くさくて、無駄なものだよな、と感じているあなた。それは確かにそうです。でも、その「もしもの備え」が身を助けてくれることがあるかもしれません。今日でなくていいですが、なるべく早く備えましょう。これは自戒を込めながら、声を大にして言っておきます。

未来を創るということ

 僕が注視している教育ライターの一人が堀裕嗣先生。堀先生の著作の多くを読んでいる。そして、堀先生の論述から大いに刺激をもらっている。このブログでもいくつか書評を書いているので、よければ参照してください。

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  さて、今回は堀先生の『若手育成10の鉄則・100の言葉がけ』を読んだ。堀先生の本だから、という思いで手に取ったが、いやいや自分には若手育成なんて早い、と思い積読状態が長らく続いていた。

 しかし、自分では若いと思っているが、いつの間にか自分より下の年齢の者が増えてきた。その若手たちを育成してやろう、なんて上から考えているわけではない。でも、若手育成ということも考えていかないといけないのかな、と感じるようになり、今回読んでみた。

 堀先生と若手のやり取りを具体的なエピソードとして読むことができる。ここで書かれているやり取りは、堀先生とその若手たちとの関係があってこその言葉である、ということは忘れてはいけない。だから、そのまま真似しようとするのは違うかな、と思う。もちろん、伝え方を変えれば、伝えることはできるだろう。だから、自分と相手との関係を意識しながら、参考にできそうなところは取り入れられる。

 僕としては、若手育成の参考になるというよりも、堀先生が若手たちにかけている言葉がけを自分にされている、と思いながら読んでいた。若手でなくとも、何かしら感じ入るものがある。

 少しになるが、僕が気になった言葉がけを引用してみる。

仲良く楽しそうに過ごしている大人たちが近くにいる。これ以上に教育効果の高い教育方法はないんだぜ!

学校ではね、教師が真面目すぎるからうまくいかないことって、いっぱいあるんだよ……

  これらなんてのは、若手だけが聞いておかないといけないというものではないだろう。若手じゃなく、中堅でも、この言葉から考えることがあるだろう。

 堀先生は、「あとがき」で以下のように述べている。

僕のいまの仕事で最も大切なのは、僕が若い頃にしてもらったことを僕が出逢った若い世代に本気でしてあげること、そういうスタンスで若者たちに接すること、それだけなのではないか……、そう思うのです。

  このように考えると、若手育成は若手のためというだけでなく、自分がしてもらったことを恩送りしていくという意味合いも持つのだ、と思った。そして、その恩送りが結果として未来を創ることにつながるのではないだろうか、とも思った。だからこそ、若手育成というのはどの教師にとっても必要な視点だろう、と感じた。

 若手育成の参考にするのもよし、自分の教育観を見直すきっかけにするのもよしの一冊である。ということは、どの層が手に取っても、考えを深める触媒となるということだ。だから、是非手に取ってみてください。

若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ

若手育成 10の鉄則 100の言葉がけ

  • 作者:堀 裕嗣
  • 発売日: 2016/02/22
  • メディア: 単行本
 

ポスト・コロナの学校現場⑭「思考停止に陥る」

 新しい生活様式なるものが謳われている。そんな新しい生活様式に初めは窮屈さを感じていたが、次第に慣れてきているように感じている。

 学校現場も、新しい生活様式に則り、新しい教育活動なるものを模索しているところである。授業は教師の領域として捉えられているので、そこは創意工夫しながら行っているつもりである。

 問題は行事。二学期となると大きな行事が多い。運動会、修学旅行、学習発表会、遠足、社会見学等々。これらは、学校だけでなく保護者や地域の意向が大きく影響するものである。授業だってそうなのだけど、あまり影響はしないのが実際のところであろう。

 さて、上記したような行事を例年通り行うのは難しい状況ではあるが、何とか実施したい。このような二つの考えの間で揺れているというのが多くの学校現場で見られているのではないだろうか。

 「実施する」「実施しない」ということを侃々諤々と議論すればよい。ただ、ここで気をつけないといけないのは「思考停止に陥る」ということ。

 「実施する」「実施しない」ということだけに囚われていると大事なことが抜け落ちてしまう。それは、「何のためにその行事があるのか」ということ。それぞれにそれなりの意味を見出せるであろう。それが、現在の社会状況でも実施する価値があるのか、それともそこまでないのかということ。そこを吟味しないといけないのではないだろうか。だから、「実施する」「実施しない」だけを考えているのなら、「思考停止に陥っている」ことになる。

 今回は行事を例に挙げたが、これは授業でも当てはまるし、何なら教育活動全体に当てはまることであろう。現在の社会状況では制約は多く、判断は難しい。だけど、「思考停止に陥る」ことは避けないといけない。自分の言動は「思考停止につながっていないか」ということに敏感でありたい。

 

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書くことは考えること

今週のお題「読書感想文」

 

 読書感想文。昔も今も夏休みの宿題の定番である。自分が読書感想文を書いた経験もあるし、教師として子どもたちが書いているのを見た経験もある。

 さて、ここで今一度考えてみることにする。それは、「なぜ、読書感想文を書くのか?」ということ。「読書感想文を書くといいことがあるの?」ということ。

 「書くことは考えること」という言葉を聞いたことはないでしょうか。書くことは考えるということになる、ということを表した言葉です。

 読書感想文となると、読んだ本についての感想を書くこととなります。しかし、ここでの書くということは、単に「読んだ感想を書く」だけではありません。

 書きながら読んだ本のことを何度も考え、考え直す。このようなプロセスを大切にするのです。そうすることで、読んだ本についての自分の問いや考えを育てることになります。だからこそ、書くことには価値があるのです。でも、だからこそ難しいことでもある。

 だから、子どもたちが読んだ本の感想を書くだけに留まらないように気をつけないといけない。読んでいて感想を持つということは、それなりに読むと自ずと持つことができます。しかし、自分の問いや考えを持つことは容易ではありません。自分の問いや考えを持つには、読みながら気になった記述等をメモしておく必要がある。なぜなら、すぐに問いや考えは忘れ去ってしまうから。

 現在の僕の読書感想文についての考えをまとめてみた。これは、子どもたちだけでなく自分にも言い聞かせないといけないものだ、と思っている。

 「書くことは考えること」という言葉を信じ、これからも書くことを続けていくこととしよう。

「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められている

「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められている(byTAJIRI)

 

 このTAJIRIの言葉に、僕はプロレスファンとして全面的に賛成する。多くのプロレスファンにとっても納得できるものである。しかし、プロレスをあまり知らない者からすると、こういうところがプロレスを好きになれない大きな理由になっている気もしている。

 最近の試合ではあまり見られなくなった「両者リングアウト」。昔では(今でも)決着をぼやかすための手の一つとしてよく採用されていた。

 チャンピオンシップで「両者リングアウト」となる。そうすると、王座の移動はないことが多い。王座は移動しないし、どちらも負けたわけではないから格を下げるわけでもない。つまり、誰も傷つかないのである。

 誰も傷つかないわけではない。もしかすると、傷ついていたのはプロレスファンなのかもしれない。それを乗り越え? プロレスファンはファンであり続けるのである。

 でも、だからと言ってプロレスファンも不透明な決着を望んでいるわけではない。スッキリとした思いを持つ試合を見たい。だけど、そうならない時がある。プロレスファンはそれぞれなりにその状況を飲み込み、また会場に足を運ぶのである。

 つまり、自分ではどうしようもない理不尽なことへ対応するということ。だから、プロレスファンはプロレスファンであり続けることで、理不尽なことへの対応する力を蓄えているのである。そして、このような理不尽なことへ対応するという経験を得られる意義が、プロレスに秘められているのではないだろうか。

 世の中全体的には、黒か白かというようにハッキリとした立場表明が好まれる。それは、教育界も同じ。黒か白かを求められることがある。それは教師自身が望んでそうしているところもある。だけど、黒か白かで表せない灰色だってよくある。それを受容できないと、正直に言って教育なんていう営みはできないのだろう、と感じている。

 「両者リングアウト」と「反則裁定」というものがあるプロレスは、今日のせかいを世界を渡り歩くヒントを与えてくれる。そんなことをTAJIRIの言葉から考えた。

 今回は「反則裁定」については触れられなかった。「反則裁定」についてもまたどこかで。

学習集団を創る

 定期購読している「授業づくりネットワーク」の新刊を読んだ。今回のテーマは「学級崩壊」について。

 学級崩壊という言葉は市民権をすでに得ている。教育界だけで使われている言葉ではない。そして、最近では学級崩壊という言葉を耳にすることが減ってきている。打からと言って、学級崩壊がなくなっているということではない。それだけ、センセーショナルな出来事ではなくなったということだ。

 学級崩壊では、学級経営の課題だけでなく、授業の課題もある。でも、どちらかと言うと、学級経営についての課題とその対応について書かれている論文が多いように感じた。

 その中で目を惹いたのは、QUでおなじみの河村茂雄先生の論考。

 河村先生は、「主体的・対話的で深い学び」を通じて「資質・能力」を育てるには、学級に「安定度」と「活性度」を統合することが必要である、と述べている。

 学級に「安定度」と「活性度」が統合された状態の学級こそが「学級集団」と呼べる。学級内の「活性度」を高めようとするなら、子どもたちの「多様性」を認め、また親和的・建設的な行動をとることができるようにしていかないといけない。これはかなり難しいことでもある。特に子どもたちの「多様性」を前提にして、どのようにして学級の中で親和的・建設的な雰囲気をつくっていくのか、ということが。でも、ここから目を背けてはいけないだろう。

  河村先生は力強く以下のように述べている。

これからの時代は、子ども同士が学び合う機能が喪失した状態の学級集団は、学級崩壊と考えていくべきだ、と思います。「学習集団不成立型」の学級崩壊です。

 このように考えると、「安定度」だけを求めるような学級経営や授業をしていてはいけない。もちろん、「安定度」がないと「活性度」を生み出すことはできない。だから、大切ではないわけではなく、「安定度」の先を見据えないといけないということ。これは多くの論者が述べていることともつながることである。

 「安定度」と「活性度」の統合、学級内の多様性、といったことがこれからの学級経営を考える上でのキーワードになるのではないだろうか。このキーワードを持ちながら、考えを続けたい。

授業づくりネットワークNo.36―学級崩壊を問う! (授業づくりネットワーク No. 36)

授業づくりネットワークNo.36―学級崩壊を問う! (授業づくりネットワーク No. 36)

  • 発売日: 2020/08/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ポスト・コロナの学校現場⑬「夏休みの意味」

 今年度は、夏休みが短縮されている自治体が多いのではないでしょうか。御多聞に漏れず、僕が働いている自治体でもそのようになっています。

 そんなことを愚痴っぽく書いた記事が過去記事にありますので、よければご覧ください。

 休めないというのもあるのだけど、夏休みの意味を再確認している日々である。なぜなら、暑すぎるから。とにかく暑いのである。「こんなに夏って暑かったかしら」と毎年言っている気がする。そして、毎年のように夏に暑さを感じる度合いが増している気もしている。

 こんな暑い中、今はマスクをしている。こんなこと初体験なので、こんなにも暑くなるとは知らなかった。もちろん、予想はしていたのだが、かなり上回ってきている。子どもたちは、そんな状況で登校してくる。しかも重い荷物を持って。

 熱中症が出ていないけど、それも時間の問題のように思う。熱中症とまではいかなくとも気分が優れないということはあるだろう。本当に危険である。

 だから、夏休みがあるのだ。こんな暑い中はダメだよ、と。夏休みがあることで安全が守られているということだ。もちろん、夏休みが長ければ、交通事故や水の事故等、守らないといけないものが他に出てくるのだけど。

 今年の夏を感じて、夏休みの意味を再確認した。愚痴だけでなく、本当に夏休みを大事にしてもらいたい、と思った次第である。

 

【過去記事】

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僕の暑さ対策

今週のお題「暑すぎる」

 

 毎年言っているような気がするのだけど、「夏ってこんなに暑かったっけ」ということ。いやー、何だか年々暑くなってきているのではないか、と感じている。データ的にはどうかわからないけど、肌感覚としては確実に地球温暖化が進んでいる。

 さて、この暑さをどのようにして乗り切っているのかということを書いてみる。主に二つある。

 一つは、使える機器を使うということ。クーラー、扇風機。やせ我慢しても何も得にならない。悪びれもなくというか躊躇なく使えるものは使っている。というか、使わないともうやってなれない…。

 二つは、とにかく外に出ないということ。必要最低限しか外に出ないようにする。日差しは容赦なく襲ってくるから。外に出ない限り、一定の温度の空間で過ごすことができる。今年は、新型コロナウイルスの影響で外出しにくい状況である。それも大きく影響しているが、暑さをしのぐという意味ではプラスの要素となっている。

 以上が、僕の暑さ対策です。まあ、別に何一つおもしろいところはなかっただろう。暑さ対策におもしろさを求めなくてもいいのだけど。