小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。

お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。(by小川直也)

 

 小川直也と言えば「ハッスル」という印象が今では強いだろうか。プロレスのリングに立ち始めた時は、かなりブーイングも浴びた。だけど、さすがオリンピアンである。そんな逆風も追い風にしつつプロレスのリングでも活躍した。

 そんな小川直也の言葉を、今回は紹介したい。

 プロレスは「台本があるんでしょ」「リアルじゃないでしょ、ショーでしょ」なんていう言葉を浴びせられることがままある。「じゃあ、台本があるドラマで感動しないか」「プロレスラーは生身の人間であり間違いなくリアルだ」なんて反論したくなる。

 でも、小川直也の「お客さんには夢を見てもらいたいし、プロレスならそれができるんです。」という力強い言葉を聞くと、反論なんてしなくてもいいかな、と感じた。

 では、教育に当てはめてみるとどうだろうか。

 「子どもたちには希望を持ってもらいたいし、教育だとそれができるんです」。僕はこのように言いたい。

 教育の場というのは、子どもたちにとって身近なものになる。そこにいる教師は身近な家族以外の大人となる。そんな教育に携わっている教師(大人)が希望を語れなくなったら終わりだ。子どもたちは希望を語れない教師(大人)を見て、希望を持つだろうか。いや、持たないだろう。中には、反面教師とする子もいるかもしれないが、多くはないだろう。

 希望が未来を生きる活力になる。希望がよりよい未来を創る。だからこそ、子どもたちには希望を持ってもらいたい。そして、教育だとそれができるし、そうしないといけないだろう。それぐらい力強く言いたい。

ポスト・コロナの学校は?

 新型コロナウイルスがあることに慣れつつある。慣れるという表現は間違っているのかもしれないが、僕にはこのような感覚がある。だからか、世間でも「withコロナ」「ポスト・コロナ」等と言うようにもなってきている。

 さて、ポスト・コロナの学校はどのようになっていくのだろうか、どのようになっていけばよいのだろうか。このような問いが浮かび上がってくる。そのことに応えてくれる一冊がある。それが『ポスト・コロナの学校を描く』である。

 全体を通して主張されていることは、「変わるきっかけを逃しちゃうよ!」「このまま元に戻るでいいの?」ということ。また、「これを機に学校の在り方を再考しましょう」ということ。現場にいる者だからこそ、考えないといけないのではないか、と感じている。それを自分なりに描いているのが「ポスト・コロナの学校現場」という連載記事である。よければご覧ください。

 本書の中で、授業づくりネットワーク理事長の石川晋先生は、以下のような提案をされている。

許容範囲の広すぎる人も、狭すぎる人もいますが、ぼくは話し合って対応を揃えたらいいと思っているのではありません。互いの状況を持ち寄って対話し、相互了解・可動域の調整を図っていく。「ああ、自分はすこしゆるすぎるかも」「ああ、自分は少しキツすぎるかも」、そういう気づきは、集まって教室の子どもたちの様子を語り合うことでこそ生まれてくるものでしょう。

 同じ学校の他の教室や隣の教室でどのように教育がなされているか知っているだろうか。新型コロナウイルスの感染予防をどのように行っているかを知っているだろうか。もしかすると、自分のしていることは自己検閲が厳し過ぎるのかもしれない。もしかすると、自分がしていることは周りから見るとだらしな過ぎるのかもしれない。

 つまり、井の中の蛙状態に陥ってしまっているかもしれない、ということ。そうならないためにも、学校全体で対話を必要なのではないだろうか。対話を通して、同僚性を育むことにもつながるだろう。困難な局面を乗り越えるには、他者との対話・協働が大切になる。それは新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」というキーワードに通じる。子どもたちに求めるなら、教師からではないだろうか。

 ポスト・コロナの学校をどのように描いていくか、ということを現場にいる者は考えないといけないのではないだろうか。現場にいる者にとっては必読の一冊に間違いないだろう。

ポスト・コロナの学校現場㉒「愚痴や本音が言える場を」

  新型コロナウイルスの影響で、いろいろなことに制限がかかるようになっている。今までできたことができないというのは、どうしてもストレスが溜まる。まあ、これは仕方のないことではあるのだけど。

 でも、やっぱりストレスが溜まる(笑)。それは教師だってそう。それをどう解消するのか、というのは大きな課題の一つであろう。

 できるなら、誰かに「話す」ということができるといいな、と思う。相手は誰でもいい。同僚でなくていい。同業種でなくてもいい。むしろ、そういう相手だからこそ話しやすいことだってあるだろう。

 そう思いつつも、同僚と職員室で話すことができるといいな、とも思う。同じ場所で、同じようにいる者と話すことができるというのは大切なことだろう。愚痴だって本音だっていえるといいな、と思う。

 だけど、そうなると「職員室で愚痴や本音なんて言っていていいのか?」とお叱りの声が聞こえてきそうだ。もちろん、僕だってこのような状態は決してよいとは思わない。でも、悪くはないとも思う。職員室だけでも、一息つき、愚痴や本音を漏らすことができるのは健全だ、と思う。

 繰り返しになるが、別に職員室にこだわるわけではない。そうではなく、どうにかしてストレスを溜め込まず、何とかやり過ごしていける方法を考えておきたいということ。

 

【過去記事】

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「いも」から思い浮かぶのは?

今週のお題「いも」

 

 「いも」と聞けば、まず「さつまいも」が思い出される。どうしてか、と聞かれるとはっきりしないのだが。でも、僕としては、いもと言えば、じゃがいもでもなく、さといもでもなく、さつまいもなのである。

 では、せっかくなので、どうしまずてさつまいもが思い出されるのかということを考えてみよう。
 考えてみて一つの結論というか仮説にたどり着いた。それは幼少の時にさつまいもに触れる機会があったから、というもの。
 さつまいもは、幼稚園や小学校で育てる野菜の上位にある、と思う。これは調べたことがないから、あくまでも推測であるけど。僕は幼稚園、小学校でもさつまいもを育てたように記憶している。
 また、さつまいも掘りに家族や友人の家族と共にしに行った記憶もある。もちろん、そこで収穫したものは持ち帰った。だから、食卓にはさつまいも料理が並ぶこととなる。
 このように、さつまいもに触れる機会が多くあったから、いもと言えばさつまいもを思い浮かべるのではないだろうか。
 まあ、こんな結論のようなものは誰も興味ないだろうけど(笑)。

信頼関係をベースに

 先月、「高学年と向き合う」と題し、書評を書きました。

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 今回は、その続きになります。

 高学年と向き合うことを考えていく中で、キーワードなるものが浮かび上がってきた。それが「受容的な態度で、指導は最小限に、子どもたちに預け、信頼する」ということが大切だということ。つまり、信頼関係をベースにするということ。

 ということで、信頼関係ということをもう少し踏み込んで考えるために二冊の本を手に取ってみた。

 一つは『信頼感で子どもとつながる学級づくり』。その中で、上越教育大学の赤坂真二先生は以下のように論じている。

機能する学級をつくる出発点は、教師と子どもたちとの信頼関係です。そこからすべてが始まります。しかし、ここで勘違いしてはいけないのは、教師と「子どもたちとの信頼関係」というものは、「幻想」に近いものです。

そこにあるのは、教師と子どもたち1人1人との個人的信頼関係です。信頼される教師というのは、個人的信頼関係を結ぶことに成功した教師のことを言います。

  赤坂先生は、学級づくりの出発点は教師と子どもとの信頼関係である、と述べています。また、この信頼関係は、教師と子ども一人ひとりとの間にできるものである、とも述べられている。つまり、信頼関係をベースに学級経営をする必要があることがわかる。

 二つは『思春期の子どもとつながる学級集団づくり』。この中で、赤坂先生は以下のように論じている。

子どもたちは、社会的にも発達的にも「弱い」存在です。「守られながら生きる」ことから人生を始めています。だから、ルールに従って生きるというよりも、人に従って生きる傾向を保ちます。自分を守ってくれるのは、決まりではなく、父や母、家族であることを学びながら大きくなるからです。つまり、「何を言うか」より「誰が言うか」を重視するのです。

そして、思春期は、認知能力の飛躍的向上から、自分自身に対する見方同様に、他者に対する見方も制度が増します。その「誰が言うか」の「誰」を見極める制度も高くなるわけです。つまり、「誰」になるかのストライクゾーンが狭くなると言えます。

一人一人との確かな信頼関係の構築が、思春期指導の成功の鉄則です。「この先生が言うんだから、仕方ないなあ」と思わるくらいにつながることがポイントになります。

  ここでも信頼関係の構築の必要性が述べられている。

 やはり、信頼関係をベースに学級経営をするという方向性は間違っていなさそうだ。となると、ここからの課題は、子どもたち一人ひとりとどのようにして信頼関係を結んでいくか、ということ。これはなかなか一般化できる部分ではないかもしれない。だからこそ、自分なりの答えらしきものを創っていかないといけないのではないだろうか、と思っている。

ポスト・コロナの学校現場㉑「ゼロリスク信奉を捨てる」

  ポスト・コロナの学校現場の記事の中でも書いたように、新型コロナウイルスの影響でリスクを回避することが難しくなっている。もちろん、少しでもリスクを小さくしようと、学校現場だけでなく多くの場で苦心されている。

 学校はこのリスクについて大いに考えている場所である。考えているというか、考えざるを得ないというのが正直なところではあるが。それだけ、保護者等からの要望が絶えないということ。

 例えば、「いじめ0」を掲げる学校がある。きっと多くの学校ではこれに近いようなものを掲げていることだろう。このことは決して悪いことではない。「いじめがあった方がいい」なんてことを言う人はいない。だけど、これはなかなか難しいことでもある。でも、目指していくことについては異論はない。

 このような「ゼロリスク信奉」とでも呼ぶべき態度は学校ではよく見られる。学校だけでなく公務員と呼ばれる職業ではよく見られるようにも思う。「ゼロリスク」を目指すということは悪いことではないが、それに躍起になると現場でいる者は息が詰まる。「ゼロリスク」を維持し続けることは容易いことではないから。どこかで無理が生じる。

 だから、「ゼロリスク」を捨てて、「いじめがあってもいい」とするわけではない。「ゼロリスク」を目指すが、何が何でも「ゼロリスク」を達成するのだ、ということは改めませんか、と提案したい。つまり、「リスクは存在する(し得る)」ということを共通理解しておきませんか、ということ。これが、タイトルにも書いたように「ゼロリスク信奉を捨てる」ということ。

 リスクは存在すると認識するからこそ、それを少しでも小さくするように工夫する。リスクは存在するが、もう一方のリスクと天秤にかけ決断する。このような態度の方が有益ではないだろうか。

 コロナ禍でリスクは存在する。ゼロにすることは到底不可能である。であるならば、「ゼロリスク信奉を捨て」、より学校現場に必要なことを選択することの方が大切ではないだろうか。そこにリスクは存在するのだけど。まず、「ゼロリスク信奉を捨てる」ことから始めてみてはどうだろうか。

 

【過去記事】

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大流行の一冊

 大流行しているマンガを紹介しようと思うので、何となく気が引ける。
 今回、おすすめのマンガとして紹介するのが『鬼滅の刃』です。もう、詳しく紹介しなくても多くの人が知っていることでしょう。一昨日、映画の上映が始まった。当分の間は『鬼滅の刃』が世間を席巻することだろう。
 僕は流行しているものにはあまり手を出さない。天の邪鬼なので(笑)。『鬼滅の刃』が流行っているのは知っていた。だからこそ、読むことはないな、と思っていた。しかし、新型コロナウイルスの流行で、家に籠る時間が多くなった。その時に、せっかくだったら読んでみてもいいか、と思い立ち大人買いをして読んでみることとなった。
 素直に面白いな、と思った。けっこうグロテスクな描写も多くあるのだけど。
 僕がおすすめのシーンは、対する鬼が倒れる場面。鬼一体一体に、その鬼なりの事情があることがわかる。もちろん、それは人間の方から見ると身勝手であったりして許容できないのだけど。主人公である竈門炭治郎が言っていたように「鬼だってかつては人間だった」のだから。

 また、戦いが終わった後の休息場面もいい。ほんわかしているし、ギャグ要素も増える。こういう場面があるからこそ、多くの人に受け入れられる作品になったのではないか、と感じている。

 僕がこんな所で紹介しなくとも人気なことには変わりないですが、もし興味を持たれた方がいれば是非手に取ってみてください。

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

鬼滅の刃 1 (ジャンプコミックス)

  • 作者:吾峠 呼世晴
  • 発売日: 2016/06/03
  • メディア: ペーパーバック
 

主たる者の心得

 運動会が終わった。いつも思うことではあるが、体育主任は大変そうである。かなり他人事のようであるが(笑)。

 でも、そんな体育主任の姿を何年も見てきて思うことがあったので、忘れない内にまとめておこう。

 主任の仕事は仕組み(システム)を作るのが仕事。そうでもしないと、自分が丸抱えになってしまう。

 丸抱えせず、他者を巻き込んだり、任せたりして仕事を振っていく。これが、未来の主任をつくることにもなる。

 そうはしつつも、率先垂範し、自分自身も汗をかく。そんな姿を見せることも大切。

 書いていると思ったのだが、かなりアクロバットなことが求められる。だから、主任というのは大変な苦労が付きまとうのだろうな。

 ということを、言語化することができて僕としては嬉しく思っている。

学習者の学びから考える

 遅ればせながら「まんがで知る」シリーズの続編、そして「未来への学び」編の完結まで読み進めた。

 いちおう、過去記事を貼っておきます。

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  「まんがで知る」シリーズは、当然まんがなので、スラスラと読める。活字を読む習慣がない者にとっては読みやすいつくりなので、是非一読することをおすすめする。だから、内容は読んで確認してもらうとする(笑)。

 読んで考えたことというか感じたことをまとめておく。

 「未来の学び」は、学習者の学びから考えるということ。つまり、「教えやすさ」ではなく「学びやすさ」を考えるということ。「教えがい」ではなく「学びがい」を考えるということ。とにかく、学習者を中心にして学びを構想していくということ。

 書くのは簡単であるが、決して簡単なことではない。まあ、僕なんかが言わなくとも、学校現場にいる者の多くは感じていることであるが。だけど、その簡単ではないところに挑んでいく必要があるし、チャレンジしていく姿勢が問われているように思う。

 新型コロナウイルスの影響で、一気に揺り戻し、「教えやすさ」を重視している状況が散見されているように思う。そんな学校現場に一石を投じるものにもなっている。

 読んで損なしの一冊であることは間違いないだろう。

まんがで知る未来への学び2 (教師も変革を起こす時代)

まんがで知る未来への学び2 (教師も変革を起こす時代)

  • 作者:前田康裕
  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
まんがで知る未来への学び3: 新たな挑戦

まんがで知る未来への学び3: 新たな挑戦

 

ポスト・コロナの学校現場⑳「引きこもりがち?」

  多くの学校現場は、運動会が終わり、一段落といった所である。ご多聞に漏れず、自分が在籍している学校もそうである。そんな時期ではあるが、生活チェックアンケートを実施した。簡単に言うと、日々の生活習慣や生活リズムを把握するためのアンケートである。

 まだきちんと集計したわけではないが、アンケート結果をパラパラとめくっていて感じたことがあった。

 それは、全体的に見て「就寝時間が遅くなり」「朝の目覚めが悪い」ということ。就寝時間が遅くなると、朝スッキリと目覚められなくなるのはわかる。ここには因果関係があるだろう。

 では、ここで「どうして就寝時間が遅くなっているのだろう?」という疑問が浮かび上がってくる。

 これは推測であるが、テレビやスマホやゲームの使用時間が長くなっているから、というのが答えだと思う。実際にこれらの使用時間は決して短くはない。

 現在は、なかなか外出を楽しむことができないので、家に引きこもりがちになる。そこで、できるということは限られてくる。また、現代はテレビやスマホやゲームでできることはかなり増えている。YouTubeを視聴する、オンラインで友達とつながり楽しむということができる。だから、余計に使用時間が長くなるのだろう。いや、現在の状況が後押ししているかのような状態になっているのかもしれない。

 このことが子どもたちにどう影響しているのかは断定することはできない。そうではあるが、健康上良くない状況である、ということは間違いないように思う。今に始まった問題ではないが、現在の状況が子どもたちの健康上の問題に拍車をかけているかもしれない、という意識は持っておく必要があるだろう。

 

【過去記事】

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僕にとって大切なお店

 お題が「わたしの大事なお店」。ということで、僕にとって大切なお店について書くことにする。大切なお店なので、というわけではないが、具体的な店名は挙げませんので、悪しからず。

 僕にとって大切なお店は、焼き鳥をメインに打ち出した居酒屋。取り立てて、特徴的な部分がないお店。看板メニューがあるわけでもなく、個性的な店員がいるわけでもなく。何の変哲もない居酒屋である。

 そして、そこまで繁盛していない。ガラガラというわかではないけど、客でいっぱいになっていることはほぼない。だから、自然と静かで落ち着いた雰囲気が醸し出されることになる。

 こんなお店が僕にとっては大切なのである。とにかく、落ち着くのである。ストレスがほとんどなく、その空間にいられる。また、僕はこのお店の「オムそば」を好きでもある。きっと、すごくおいしいというわけではないのだろうが、僕にとってはクリーンヒットするのである。

 新型コロナウイルスの影響で、足は遠のいてしまっている。次に行くことができるのは、いつになるか今の所はわからない。でも、僕にとって大切なお店であることは変わらないだろう。

ゆとり世代教育論「僕たちは無様な大人たちを見てきた」

 僕たちは、小さい頃から多くの場面で、無様な大人たちを見てきた。

 例えば、食品偽装問題。ミートホープ船場吉兆等、例は枚挙にいとまがない。そこでは、大人たちが自分たちのしでかしたことを何とかごまかし、はぐらかそうと狼狽える姿が報道されることとなった。大人たちがテレビの前で頭を下げ、うなだれる姿をたくさん目にした。

 また、メディアや世間が出る杭を許さないという姿勢が鮮明に出たものが「ライブドア事件」だ。近鉄バファローズ買収、ニッポン放送買収等を画策し、大きな注目を得たホリエモン(堀江貴文)。2005年には、あの郵政解散に伴う総選挙において立候補する。まさに「時代の寵児」の存在となった。そんな派手な言動が目立つようになったからなのか、彼は証券取引法違反容疑により逮捕される。そして、手のひらを返したかのようなバッシングが始まる。

 今、振り返れば、その時のメディアや世間も、失敗した人を叩きすぎではないかと思う。そして、この姿勢が現在の社会でも蔓延している。このことについては、この節以降でまた詳しく論じたいと思う。

 以上のような無様な大人たち、そしてそれを取り巻く大人たちの姿を、僕たちはじっと見つめてきた。

 そんな僕たちゆとり世代は、「言われたことだけしかしない」「失敗も成長の内、もっと恥をかけ」等と世間から批判されてきた。だけど、そうなったのも「無様な大人たち」を見てきたからに他ならないと考えている。

 哲学者の鷲田清一は、大人の背中が、子どもたちに多くのことを伝えているのだ、と述べた。

親は子どもに何を教えるかなど、ことこまかに考えなくていい。それより親が、子どもとは関係なしに、何かに感じ入るということが重要なのだとおもう。何かをしないと、と思いつめることが重要なのだとおもう。その姿を、子どもは横から、まじまじと、あるいは視線の端っこで、見つめている。ひとは顔つきで、あるいは背中で、子どもに何かを伝えるということなく伝えてきた。考えてみれば怖いことである。

 鷲田の言葉に倣うと、大人たちが「もっと自分で考えろ」「まずは行動!」等と言っていることからではなく、僕たちは大人たちの姿や立ち振る舞いから学んできたということになる。

 つまり、上記した無様な大人たちの姿から学んできたということである。ちなみに、このような背中の指導のことを教育界では「ヒドゥンカリキュラム」と呼んでいる。「ヒドゥンカリキュラム」の厄介なところは、自分で知らず知らずのうちに教えてしいまっているということである。つまり、上記した大人たちも、知らず知らずのうちに自分たちが僕たちに何某かを教えている、ということには気づいていないのだ。

 大人たちは、ゆとり世代である僕たちが、どうしてこうなってしまったのか不思議に思っている。そして、僕たちの方に向け、いろいろな言葉を投げかけ、冷ややかな視線を向けている。だけど、厳しい言葉を投げかけ、冷ややかな視線を向けるべきなのは、僕たちではなく大人たちなのではないだろうか。ここで必要とされているのは、大人たちが自分たち自身の姿を振り返る眼差しなのである。無様な大人たちの姿、それを取り巻く大人たちの姿を、僕たちにじっと見られてきたのだから。

 もちろん、僕たちは、そんな無様な大人たちだけに責任を押しつけられるような子どもでもない。もう僕たちだって成人した大人だ。自分たちのことなのだから、自分たちの中にそうなった要因もあったのだろう、と自覚している。そこに目を背けるということはしたくないとも思っている。僕たちだって、僕たち自身の姿を振り返る眼差しは持っておきたい。

 

引用・参考文献

人生はいつもちぐはぐ (角川ソフィア文庫)

人生はいつもちぐはぐ (角川ソフィア文庫)

  • 作者:鷲田 清一
  • 発売日: 2016/10/25
  • メディア: 文庫
 

 

ネガティブの効用

 水曜どうでしょうの新作が始まろうとしている。藩士(水曜どうでしょうファンの総称)にとっては楽しみの時間が近づいている。ということで、今回はどうでしょうに関係する本を紹介する。

 「ミスター」と言えば、誰を思い浮かべるだろうか。

 たいていの人は、「長嶋茂雄」を思い浮かべたのではないだろうか。あるいは、「ミスター・サタン」や「Mr.ビーン」等を。

 藩士が思い浮かべるのは「ミスターどうでしょう」こと鈴井貴之である。鈴井貴之が、なぜ「ミスター」と呼ばれるようになったのかは、各々水曜どうでしょうを視聴して確かめてもらいたい(笑)。

 そんな、ミスターは「ダメ人間」とよく人から言われる。よく言われると言っても、言っているのは、共演者の大泉洋や番組ディレクターの藤村忠寿がほとんどではあるが。

 著書でそんな「ダメ人間」っぷりを惜しみなく? 披露してくれている。これだけ、オープンにできるのは、とてもできないな、と思う。潔くというか悩んだけどもオープンにしたのだろう、と思う。だからこそ、ここに書かれていることは心に染みるものがあるのだろう、と感じている。

 さて、そんな文章の中で「ネガティブ」について語られている箇所があった。そこを引用する。

生きるとは簡単なものじゃない。順風満帆なんて夢物語。強風が吹き海は大荒れ、雨霰も日常よ!と思えば、辛いことも優に乗り切れるのではないだろうか。

物事は捉え方、見る角度によって一八〇度変わる。ポジティブ思考も結構だが、ネガティブも正しく捉えれば前向きになれる。

となると、後悔、自己嫌悪こそ前へ進むのに必要不可欠な浄化作用と考えられる。

  ネガティブということは文字通りネガティブに捉えられがちである。しかし、ネガティブは決して無意味でネガティブなものではない。鈴井貴之が指摘している通り、ネガティブがあるからこそ、ポジティブに向かうことができる。つまり、ポジティブのきっかけになるのである。これこそポジティブ思考である(笑)。

 だから、鈴井貴之は本当はネガティブなのではないのかもしれない。いや、ネガティブなことにポジティブなのだろう、と思う。単純にポジティブとは違うだろう。ネガティブに新たな意味づけを見出すことができる。

 これ以外にも水曜どうでしょうや他の番組について言及されている箇所もある。藩士はもちろんのこと、藩士以外の方でも楽しむことができるものとなっている。是非手に取ってみてほしい。

ダメ人間 ~溜め息ばかりの青春記 (ダ・ヴィンチブックス)

ダメ人間 ~溜め息ばかりの青春記 (ダ・ヴィンチブックス)

  • 作者:鈴井貴之
  • 発売日: 2009/09/05
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
ダメダメ人間 それでも走りつづけた半世紀 (ダ・ヴィンチブックス)

ダメダメ人間 それでも走りつづけた半世紀 (ダ・ヴィンチブックス)

  • 作者:鈴井貴之
  • 発売日: 2010/09/10
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

ポスト・コロナの学校現場⑲「ワークシート押しの違和感」

 

  以前に、この「ポスト・コロナの学校現場」の記事の中で授業のことに触れた。時間数の確保や少ない時間数で学習内容を終わらせようとしている。休校が長く続いたので、このような状況はやむを得ないように思う。でも、そんな中でも「子どもたちが考える時間」を大切にしたい、と考えている。

 しかし、授業の中でワークシートを使用していることをよく見る。もちろん、ワークシートは悪いわけではない。だけど、そこで使われているワークシートは考える余地がなく、穴埋めのようなものが多い。

 そんな光景を目にしていたことで、自分なりのワークシートを使う授業の弊害というか違和感を言語化することができた。

①自分でノートに考えを書き、まとめること機会がなくなる

②ワークシートを全て終えないといけない、という意識が強くなり教えることが優先となる。

③結果、子どもたちの学びやすさを無視する展開になりがち(教科書を使ったとしても、この展開はあるが)。

④ワークシートを使うので、子どもたちの考えの多様さを受け入れにくくなる。

⑤そのことも影響してか、子どもたちが書いている様子を机間巡視することが減り、黒板の前辺りにいがちになる。

 いかがだろうか。共感していただけるものになっているだろうか。この中には、自戒がこもっているものもある。

 ということで、これらのことを克服する、これらのことを考えても価値があるワークシートを使う授業にしていないといけない。このような思いを持つこととなった。

 

【過去記事】

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運動不足の者には辛い時間

今週のお題「運動不足」

 

 はい、運動不足です。最初に正直に白状しておきます。正真正銘の運動不足です(笑)。学生の頃を境に運動らしい運動を習慣的に行った記憶がありません。それぐらいの筋金入りの運動不足です。

 でも、こんな人はけっこう多いだろう、と思っている。だから、運動不足ということについては開き直っている。

 さて、こんな運動不足な僕が一番運動する時間というのが、学校の休憩時間である。そう、子どもたちと遊ぶのである。子どもたちの遊びは、令和になった今でも「鬼ごっこ系」が定番である。

 鬼ごっこ系の遊びをすると、決まって鬼にされます。そして、だいたい鬼は自分一人です。しかも、タッチしたら鬼が代わる鬼ごっこではなく、鬼が全員をタッチしないといけない鬼ごっこで。つまり、休憩時間ずっと鬼なわけです。運動不足にはこれは辛い。

 途中からもう足が動かない。でも、子どもたちは追いかけてくることを期待している。だから、目の前をわざとちょろちょろする。もう、これは追いかけなくてはいけない。だから、ずっと走り回っていなくてはならない。

 こんなことをしていても運動不足が解消される気配がないというのが残念なのだけど。とは言いながらも、また明日も運動不足の体に鞭を打って、走り回ることになるのだろうな。