小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

なってみてわかることがある

 僕の勤務校は新年度の早いうちに「不審者対応避難訓練」を行う。不審者対応では、教職員しかわからないように合図を出す等、けっこう細かな打ち合わせみたいなものがある。だから、新年度の早いうちに実施している。

 そこでは、もちろん不審者役の教員が必要となる。だいたいは担任外の教員が抜擢? されることとなる。

 それが僕のところにやってきた…。担任をしていないのでまわってくるかな、とびくびくしていたのだが、現実となってしまった…。いや~、向いていないのだけどな、と思いながら断れなかった。

 そこは覚悟を決めて臨むこととする。勤務校であるので教室配置や廊下がどこにつながっているかは熟知している。だから、不審者としてはかなり有利な条件となる。自分なりにシミレーションを行った。

 そして、不審者対応訓練を不審者役として終える。

 やってみて思ったことは、頭が真っ白になってしまうことってあるのだな、ということ。僕は予定した中でかなりシミレーションを行い、当日を迎えた。それでも、緊張からか思っていた通りにはできなかったし、やっている最中は無我夢中といった状態であった。

 「事件当時のことを覚えていない」「頭が真っ白になり何をしたのかわからない」というような供述を犯人がしているという報道をたまに見聞きする。それを身をもって実感した。そういうことだってあるのだな、と。

 なってみてわかることがあるのだ、ということを改めて考えた。よいきっかけというのは違うようにも思うが、考えることの多い体験であった。

日本酒事始め

 お酒を呑むことができるようになった時、割りと早い時期に日本酒を口にしたように記憶している。それ以来、日本酒は好きなアルコールの一つである。そんな日本酒のことを、ちゃんと知っておきたい、と今さら思い手に取ってみた。

 日本酒の基本のキから丁寧に教えてくれる良書である。また、日本酒の素晴らしさを改めて感じられる一冊である。

 読みながら、今まで適当に日本酒を呑んできてしまっていたのだな、と少し反省した。これからは、もう少ししっかりと考えて日本酒を呑むことができるかな、と思う。まあ、日本酒を呑むのにちゃんともしっかりもないような気がするが(笑)。

 まあ、これからは自分なりに知識を持ってこれから呑むことができそうである。でも、だからと言っていちいちその知識を引き出しながら呑むというのは無粋なことであろう。

 ということで、とりあえず呑んでみて自分が「おいしい」と思える日本酒を探していきたい。それが見つかった時には、この本から得た知識を活用することになるだろう。

 日本酒好きは押さえておきたい一冊に間違いない。是非とも手に取ってもらいたい。

白熱日本酒教室 (星海社 e-SHINSHO)

白熱日本酒教室 (星海社 e-SHINSHO)

 

いっちょやってやるか!

 別にやる気がないわけではない。言われなくともそれなりにいろいろと自分なりにやっているつもりだ。もちろん、これは自己評価であるので、他者から見ると物足りないものかもしれない。

 繰り返しになるが、やる気がないわけではない。でも、さらにやる気を持つきっかけを与えてもらえるなら、なおやる気を持つことができる。
 だから、やる気を持つことができるような働きかけをしてもらいたい。いや、やる気がなくやらないわけではないのです。ただそれでは、「よし、いっちょやってやるか!」とは思えないのです。
 やる気を持つことができるきっかけを作るというのは、重要な役割ではないだろうか。これは自戒を込めての言葉ではあるのだけど。
 「よし、いっちょやってやるか!」と思えないのに、それをやることはないよ。
 と、こんなことを思いながら一日を過ごした。
 まあ、その程度のことだからこれでいいのかな、と。自分で「よし、いっちょやってやるか!」と思えるものを見つけることの方を大切にしようか。

晴れの日のもの

今週のお題「お弁当」

 

 子どもの頃、お弁当というものは特別なものであった。

 子どもの頃は、たいていお昼に給食を食べていた(教師なので大人になっても食べているのだけど)。だから、お弁当は「遠足」と「運動会」の時だけであった。
 つまり、お弁当は「晴れの日」のものであった。だからこそ、お弁当を食べられるということは大きな楽しみであった。自分の好物が入ってる、普段の食卓には並ばないお弁当ならではのメニューが入ってる等。
 給食はあまり食べない人でも、お弁当だったらモリモリ食べているという光景も見たことがある。それほどお弁当というのは魅力的なものである。
 ということで、僕としてはお弁当というのは晴れの日のものであるので、普段はあまり食べないようにしている。コンビニでご飯を調達することはあるのですが、なるべくお弁当は買わないようにしている。
 コロナ禍ということで、なかなかお弁当を食べる機会となる晴れの日がありませんが、その時をまた楽しみにしておこう。

 自分が知らないところというか意図せずつながっているものがあるのだな、としみじみ思う。

 どこかでつながっていくものがある。悪いようにではなくつながっていくということは、そこそこいいことをしてきたのだろうし、いいようにしてきてもらったのだろう。

 このつながりを進んで太くしていこうとは思わないけど、切らないようにはしていきたい。また、このつながりがどこかでつながっていくかもしれないから。

 こういうことを世間的には「縁」と呼ぶのだろうか。きっとそうだろうな、と思えた。

教育格差を見つめる

 膨大なデータを基にし、教育格差があるということを暴いた一冊。

 現場にいる者としては、同じ学年・学級であったとしても、決して一律ではなくまだら模様になっていることは肌感覚として理解していた。そこにデータが提示され、その感覚を確かにした。

 そして、この格差を縮めるには並大抵の努力では達成されないということもわかった。しかし、現場にいる者としてはそこで「はい、そうですか」と簡単に受け入れるわけにはいかない。だからこそ、考えないといけない。

 著者の松岡亮二は以下のように語っている。 

SESによる教育格差は、学問的とは言えない表現をするのならば「愛」――高SESの親が「子に最善の機会を与えたい」という気持ち――に立脚するのだろう。子の社会的成功を自分の達成と捉える自己「愛」も入り混じった感情だ。自分の子供のために良かれと思って多くの機会を与えようとし、自らの教育経験に基づき意識的・無意識的に資本を駆使して教育達成に繫がるような子育てを行う。それは当然の行為ともいえ、これからも高SESの親が続けるのは間違いない。教育制度による介入をしないのであれば、格差は不可避である。

それで何がいけないのか? と思う人もいるかもしれない。自分は比較的高SESだから、現状のままでいい、と。それはとても正直な感想である。ただ、低SESの子供たちの可能性に投資しないことで、わたしたちは潜在的な損失を受けているかもしれない。想像してみよう。一人ひとりに教育機会がもっと与えられていれば、あなたが癌になったとき、担当医は現在の平均的な医者よりも優秀かもしれないし、新しい抗癌剤創薬する研究者も増えるかもしれない。ありとあらゆるモノ・サービスの質はもっと上がるだろう。環境保全に対する行動も全体として改善し、短期的な利己心を押し通す人が減って社会そのものがより生きやすくなるかもしれない。

 だから、格差を縮めようとすることが、社会全体の底上げにつながる、という望みを忘れないでいたい。格差を縮めるというのは、格差で苦しむ当事者だけでなく、社会全体のものなのである。

 つまり、教育格差は私たちの課題なのである。そして、教師こそがその教育格差にアプローチできる現場の最前線にいるのである。

間取りを妄想してみる

今週のお題「間取り」

 

 間取りなんて、ちゃんと考えたことがない。希望がないというわけではないが、「住めば都」という考えが強い。だから、それなりに住めているのなら、そこが一番だろう、と思っている。

 このままだと話が終わってしまうので(笑)、もう少し考えてみる。
 家全体のことを考えるときっと考えがまとまらないと思うので、一部屋のことを考えてみる。かねがね書斎なる部屋が欲しい、と思っている。本や資料を一面に並べたい。そうすると、いつでも一覧を眺めることができる。
 そして、部屋の真ん中、本や資料にすぐ手を伸ばせる位置には机を置きたい。そこにパソコンをドシッと構えたい。そこで本や資料を広げるスペースも確保したい。そうしようとするなら、けっこう大きめの机を置かないといけない。必然的に部屋のサイズも大きくなるだろう。
 でも、そうしようとするなら本や資料を整理しないといけない。それはできる自信がない(笑)。また、机の上に本や資料が広がっている様子も想像がつく(笑)。
 うーん、やっぱり妄想の域はでないかな。

大社長かく語りき

 DDTの試合をあまり見たことはない。でも、プロレスファンとしては当然知っているし、興味を持っていた。そして、かなり考えてプロレスをしているな、と思っていた。だから、その一端を大社長の高木三四郎の口から語られていて、とても興味深い内容であった。

 僕は常々、プロレスは教育と通ずることがある、と考えている。だから、教師=プロレスラーなのだ、とも考えている(笑)。これはけっこう真面目に考えていることでもある。真面目にというのは、何だかおかしいような気もするが。

 ということで、再読しながら高木三四郎が語ることを、教育を考える時にも援用できるのではないか、と考えた。僕としては「そうだよな」「これは使えそう」等と思いながら読むことができ満足できた。

 そう思えた箇所をいくつか引用する。

プロレスのなかで一番大事なのは、常に冷静に対応できるかどうか。戦ってヒートアップしても、頭に血が上っていてはダメ。かといって、まったく冷静というか、無表情に戦ってしまうのもダメで、そこのバランスが難しいんです。お客さんの視線を確認しながら。そのバランスをどう取っていくかを考えて行動するということですね。

いいレスラーは、自分の体の見せるべきところを知っているんです。さらに、きめポーズ、決めゼリフ、そして決め入場曲の3本が揃えば間違いないんです。アントニオ猪木さんで言えば、「1、2、3、ダーッ」とか「炎のファイター」、決めゼリフなんか山ほどある。プロレスラーはキャラクタービジネスなんで、この3つが認知されればやっていけるんです。

 これだけを見せられても何もわからないかもしれない(笑)。詳しくは「プレレス教育論」の記事で書きますので、よければチェックしてみてください。

 経営視点から読めば参考になることがあるし、プロレス視点から読めば楽しむことができる、そんな一冊となっている。だから、どなたも楽しめる一冊である。だから、プロレスが好きでない者やプロレスには興味ない者も是非とも一度手に取ってみてほしい。

新年度スタート

 いよいよ新年度のスタートです。

 今年度も学級担任ではありません。取り出し指導というか少人数の指導をすることになります。そこは新たな挑戦ではあります。新しいことをしていると、知らず知らずのうちに疲れが溜まっているようで、どっと疲れが出ます。

 でも、新しい場所だからこその気づきだってある。それを愉しもうとしています。今まで自分がやってきたことが特異なことなのかもしれない、と。

 さて、どんな1年になるのだろうか?

こんな先生になっているか?

 物語に登場する女の子トリシャ。そのトリシャが5歳になった時、ある儀式を行った。おじいちゃんが本の表紙にはちみつをたらし、それをトリシャが舐めるというもの。そして、家族みんなで「そう、ハチミツはあまーい。本もあまーい。よめばよむほどあまくなる!」と歌う。

 この儀式は家族にとって大切なものであり、家族の誰もが通ってきた道なのであろう。こんな儀式を終え、トリシャは自分もたくさんの本を読みたい、という希望を抱く。

 だけど、トリシャはいっこうに本が読めない。本という以前に、字を読めない。小学校に入学しても読めない。全然読めない。トリシャは焦りながらも、得意な絵を描いて、焦りを紛らわしていた。しかし、年を重ねてもいっこうに読めない。そうしていると、クラスメイトからからかわれるようになってきた。トリシャは自分で自分を責めるようになる。そして、休憩時間には人目につかない所でひっそりと過ごすようになる。

 そんな時に出会ったのがフォルカー先生である。フォルカー先生は、トリシャをクラスメイトから守り、トリシャの美術的センスを賞賛し、字を読めるように丁寧に指導してくれた。そのかいあってか、徐々にトリシャは字を読めるようになる。

 ここまで読んだ方は察しているかもしれないが、このトリシャはLDである。この物語はLDの少女に寄り添う教師の在り方を示唆している作品である。

 「僕は彼ら彼女らにとってのフォルカー先生になっただろうか?」と、この節目の時期に自分自身に問いかけたい。そんな思いを持ちながら、彼ら彼女らにしっとりと読み聞かせたい作品である。

攻めるための必需品

お題「#新生活が捗る逸品」

 

 4月になり、学校現場では新年度を迎えます。この時期は学校現場で一番忙しい時期ではないか、と思う。本当にバタバタする。バタバタしていると、多くのことに圧迫される。そして、抜け落ちてしまうことも多くなる。つまり、後手に回ってしまうことが多くなる。

 そうならないよう仕事を攻めるという意識を持ちたい。そのためには、多くのことに圧迫されないよう一つひとつのことを確実に片づけていくことが必要になる。しかし、バタバタしているうちに忘れてしまうこともある。

 だから、手帳を用い、バタバタしてるうちに忘れ去ってしまうということをなるべくなくせるようにしている。手帳には「To Doリスト」を書いたり、一日の終わりに、その日に思い出せる象徴的なことに対しての気づきや思いを書くことにしている。

 仕事を攻めるという意識を持つために、手帳は必需品となっている。手帳の活用法みたいなものを以前に記事にしていたので、よければ参照してください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

ゆとり世代教育論「連載のまとめ」

 この連載は9月から行っている。実に半年もの連載となっている。こうなってくると、どんなことを書いていたのか覚えていない。まあ、書いている本人も細かいところは覚えていない(笑)。

 だから、連載のおさらいをしてみたい。

 10月、「僕たちは無様な大人たちを見てきた」と題し、食品偽装問題等を取り上げ、そこでの大人たちの姿について論じた。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 11月「情報化社会の光と影」と題し、情報化社会について論じた。そこでは、デジタルネイチャーという新たな言葉で情報化社会をこれから生きるゆとり世代について定義した。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 12月、「ツッコミ体質」と題し、バッシングに興じる現代の病巣について論じた。情報化社会とツッコミ体質の共犯関係を暴き出した。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 1月、「『空気』を読む」と題し、「全員一致」の空気と「一人ひとり」の空気という二つの空気に分け、論じた。また、「優しい関係」も取り上げ、ゆとり世代の対人関係の様相について考えた。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 2月、「孤立する『個』」と題し、個人化していく社会について論じた。一方、ゆとり世代の多くは、ヤンキー化と呼ばれる状態になっていることにも言及した。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 3月、「自尊感情を揺さぶる社会」と題し、自尊感情について論じた。自尊感情を考えるということは、これからの社会だけでなく、教育にとっても必須である、と考えている。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 以上に連載の内容を簡単に書き出してみた。ゆとり世代である僕が見て、感じた社会について論じたつもりである。

 さらにまとめてみると、ゆとり世代である僕たちが生きてきた時代とは、個人化・多様化した時代だと言える。また、そこに閉塞感と情報化が合わさり、合わせ技一本を決められた、といったところだろうか。

 ここまでである程度、ゆとり世代である僕たちが生きてきた時代について描写できた。では、こんな時代にはどのような教育を行っていくとよいだろうか、と問いを進めていきたい。

世界観を構築せよ!

 さる先生こと坂本良晶先生の新刊が発刊された。題して『これからの教育を面白くする! さる先生の学校ゲームチェンジ』である。

 本書では、今までの「働き方改革」や時短より、もう一歩教育実践に踏み込んだ一冊となっている。坂本先生が教室で行っている実践について知ることができ、とても興味深かった。

 そんなことよりも、坂本先生は世界観をアップデートすることの必要性を訴えている。

僕たちは学校という箱庭で教育をしているのではありません。学校は世界と連続的に接続されたフィールドの上に位置するのです。だからこそ、僕たちは世界観をアップデートし続けなければなりません。そしていま、受け持つ子どもたちが生きる少し先の未来の解像度を上げておく必要があります。

 そして、経済界の変化等を例に挙げながら、世界で巻き起こっているゲームチェンジに言及されていく。全然そちら方面に明るくないので、なるほどなるほど、となりながら読んでいった。

 また、坂本先生は以下のように述べている。

学校でよく語られる授業観、教材観、子ども観といったものは、結局は世界観に内包されているのです。

  確かにそうだ。だからこそ、世界観をアップデートしないといけないのだ。

 さて、最後まで読んで、ふと考える。僕はどのように世界を見つめているだろうか、と。つまり、僕はどのような世界観を抱いているのだろうか、ということ。

 経済界のゲームチェンジだけでなく、もっと他の要素も世界観に絡んでいるだろう。だから、もっと違う視点からも考察し、世界観を構築していく必要があるだろう、と思った。

 学びのきっかけとなる一冊であった。この一冊から始めて、世界観をアップデートし、よりよい教育について考えていきませんか。

 今までの坂本先生の著作の書評を書いているので、よければそちらもご覧ください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

kyousituchallenge.hatenablog.jp

kyousituchallenge.hatenablog.jp

そわそわする季節

 年度末である。もうすぐ新年度である。この時期の学校が、一番落ち着かないのではないか、と感じている。それは新しい年度が見えてきているから。

 教師という職業は、仕事内容自体はあまり変わらないのだが、担当部署が毎年のように変わるというものである。この担当部署(学年・校務分掌)が、教師にとってはなかなか大きいものでもある。

 だから、そわそわするのである。そして、人事について予想するのである。でも、僕としてはジタバタしても始まらないので、「果報は寝て待て」スタイルでゆっくりしている。気忙しい最中に入りたくないというのも大きいのだけど。

 あと数日経てば、嫌でも忙しくなる。だから、今ぐらいゆったりとしたいものだ。とは言いながらも、そわそわして落ち着かないのですが(苦笑)。まあ、今だけの楽しみ? を噛み締めることにしよう。

二つの学び

 僕は二つの学びを意識しながら、日々学ぶ姿勢をつくっている。そんな二つの学びのことを、僕は「右手の学び」「左手の学び」と呼んでいる。

 「右手の学び」とは、自分の興味関心を抱いている学びのことである。「左手の学び」とは、自分があまり興味関心を抱いていない学びである。これは僕の利き手が右手なので、右手に興味関心を据えているだけなので、左手が利き手の方は左手に興味関心を据えていただいても結構です(笑)。

 僕にとっての「右手の学び」は、学級経営、国語科教育、算数科教育、特別支援教育になる。自分が興味関心を抱いている学びというのは、本当に楽しい。それだけ学んでおきたい、とさえ思う程である。自分が興味関心を抱いていることなのだから、それこそとことん学べばよい。

 だけど、どうしても偏りが生まれることになる。小学校教師は、一人で多くの教科を担当する。だから、プロフェッショナルと同時にオールマイティをも求められる。そうであるならば、偏りが生まれることは善いものではない。

 そこで、「左手の学び」が出てくる。自分が興味関心を抱いていない学びなので、正直腰が重くなる。しかし、そのままそこに腰を下ろしていても進まない。ゆっくりでいいので少しずつでも学んでいきたい。

 僕は、年に一つ「左手の学び」を決めるようにしている。ちなみに、今年は「道徳」を持ってこようかな、と思っている。道徳を自信持って指導できないので、それではよくないだろう、と思い立ったから。

 まあ、今さら感はあるのだが(苦笑)。 それでも何もせず立ち止まっているよりはマシだろうか。そう思うようにしておこう。

 ということで、このブログでも道徳について学んだことを記事にすることにしよう。アウトプットの場があることで、少しは学びのエンジンとなるであろう。
 みなさん期待? しておいてください!