今週のお題「今月の目標」
今月の目標なんて考えていないかな。
今週のお題「今月の目標」
今月の目標なんて考えていないかな。
今週のお題「眠れないときにすること」
眠れない時は、ただひたすら寝れる時を待つのみです。
今週のお題「肉」
肉っておいしいですよね。牛肉、豚肉、鶏肉、他にもいろいろ。
今週のお題「爆発」
夏休みの終わり頃になると思い出す「爆発」がある。
いや、花火ではないんです。確かに夏の終わりには打ち上げ花火というイメージはありますが。
僕が思い出す「爆発」は、母の怒りである。
夏休みになると必然的に家での時間が増える。もちろん、初めのうちは羽を伸ばす感覚で楽しいものです。ただ、ある程度の日にちが過ぎるとありがたみを忘れてしまう。
そうなると、親(とりわけ母親)の負担感というものが大きくなってくる。親だって人間だもの(笑)。今となっては理解できるのだけども。
我が家では必ずと言っていいほど夏休みの終わり頃に母が爆発していた。きっかけは些細なことのように記憶している。こちらとしては些細でも、母にとっては大事というか切羽詰まっていたのかもしれない。
まあ、今となってはいい思い出とは言わないが、思い出となっている。母にはそんなこと怖くて聞けませんがね(笑)。
今週のお題「サボる」
サボるという言葉には、
今週のお題「やり込んだゲーム」
ゲームはもうやらなくなってしまったな。
今週のお題「好きなスポーツ」
スポーツ観戦はどちらかと言うと好きだ。
先日まで東京オリンピックが開催されていた。 連日、いろいろな競技が放送されていた。そこでは初めて目にする競技もあった。熱心にとはいかないが、それなりに初見である競技も見ていた。
このように、スポーツ観戦は苦にならない。 自分から情報を集め、進んで見るのは、野球、サッカー、マラソン、プロレスだろうか。
マラソンは見ているというか、何となく正月は「箱根駅伝」だろう、と思っているので。それ以外のマラソンレースを見ることはほとんどない。
野球、サッカー、プロレスは本当にちゃんと見ている。見ているというか結果を追いかけているだけではあるが。
そして、この中で結果を知っていても見ることができるのはプロレスだ。野球とサッカーは結果を知った上で最初から最後までは見られない。せいぜいダイジェストぐらい。それも贔屓にしているチームが勝った場合。負けていたらダイジェストでさえ見たくないことが多い。
しかし、プロレスはそうではない。野球とサッカーに比べると一試合ごとの時間が短いのは大きいかもしれない。また、プロレスでは贔屓にする選手というのがいないのも大きいかもしれない。好きな選手はいるが、こんな選手見たくもないというのはいない。
そして、一番の違いは結果とプロセスどちらに力点を置くのか、ということ。 野球とサッカーは、やはり結果を重視する。しかし、プロレスはプロセスを重視する。プロセスと言うよりもストーリーの方が近いかもしれない。もちろん、結果も重要であるが、野球とサッカーに比べると比重は軽くなる。
と、スポーツ観戦について書いている内に、プロレスについて語ることになってしまった。でも、僕としては楽しく書くことができた(笑)。
今週のお題「自由研究」
自由研究は自分が学生の頃にはほとんどした記憶がない。
今週のお題「好きなアイス」
暑いですね…。このフレーズを毎日のように口にしている気がする。
暑くなるとやっぱり食べたくなりますよね、アレが(笑)。そんなことを毎年のようにお題として書いている気がする。
kyousituchallenge.hatenablog.jp
kyousituchallenge.hatenablog.jp
せっかくなので、最近よく食べるアイスたちについて書いてみることにする。
一つ「白くま アイスバー」。白くまという有名なカップアイス? のバー状のものである。味は保証付きである。カップの方が好きではあるが、手軽に食べることができるのでよく冷凍庫に入っている。
二つ「メロンだまシャーベット」。暑い日にはさっぱりとしたものがほしくなる。そんな時にうってつけの一品である。特別おいしいわけではないが(笑)、外すことはない。信頼して口に入れられるものである。
以上のラインナップです。これからもたくさんお世話になるであろう。
ベテランがなんでベテランかというと、お客さんの反応を掴むことができるからだよ。(by百田光雄)
百田光雄は、力道山の息子というプロレス界のサラブレッドである。そうではあるが、全日本プロレス時代は第1試合に登場することが多く、「6時30分の男」という異名をとった。
やはり、メインイベントが注目されるし、レスラーとしてはそこを目指すであろう。だから、第1試合なんて…、と思われるかもしれない。
しかし、第1試合というのは、その興行全体を考えると重要な位置づけの試合である。第1試合だと、観客はまだまだプロレスという非日常空間に入り切れていない。だからこそ、まだ冷えている客席を温め、メインイベントに向けて盛り上げていく役割が第1試合には求められるのだ。
このような重要な試合を任せられるというのは力がないと任せられない。だから、第1試合なんて…、と思うのは間違っている。観客が思うのはわからなくもないが、レスラーというプロから見ると決してそのようには思わないだろう。
百田光雄が「6時30分の男」という異名をとることができたのは、この百田の言葉に詰まっているだろう。つまり、お客さんの反応を掴むことができるということ。お客さんの反応を掴み、試合を進めていたのだろう。冷えているのなら大げさな動きをする、温まってきたならお客さんに拍手等のレスポンスを求める等。とりあえず盛り上げればいい、というわけではないはずだ。
では、ここで考えてみる。百田のように教師は子どもたちの反応を掴み、授業を進めているだろうか。教えないといけないことや教科書の内容を前面に押し出し、子どもたちの反応をつかむどころではない、ということになっていないだろうか。そんなことを考えた。
新学習指導要領でも「主体的な学び」がクローズアップされている。子どもたちが主体的に学べるようにするには、子どもたちの反応を大切にするということは必要になるだろう。子どもたちの反応を無視し、ただ授業を進めることをしていては主体的な学びを生み出すことは到底できないだろう。だからこそ、百田の言う通り子どもたちの反応を掴むということを大切にしないといけない。
それこそが、ベテラン・若手問わず、よい授業者の姿ではないだろうか。
以前に「しくじり授業」と題して、僕が(子どもも?)おもしろくない、と感じる授業に共通する型のようなものを書き綴っていた。それの続編を書いてみる。「しくじり授業」については過去記事を参照してください。
kyousituchallenge.hatenablog.jp
四つ目の型は「一問一答型」のしくじり。
一問一答ということは、教師からの発問に対して一人の子が答えて終わり、というもの。もちろん、発問によってはそれでいいこともある。しかし、終始一問一答というのはしくじりであろう。
なぜなら、一人の子どもしか答えないことになるから。そうすると、教室にいる数十人の子どもは「自分は答えなくてよいだろう」と思ってしまいがちになる。そうなると、子どもは授業に参加しようとしなくなる。だから、全体に広げるということを教師が意図的に行う必要があるだろう。
また、一人の子どもの考えだけで終わってしまうと考えが深まらない。だから、子どもの考えを問い返す等の教師の意図的な働きかけが必要になるだろう。
一問一答型のしくじりを二つ書き出してみた。どちらかと言うと先に書いた方が大きなしくじりではないだろうか、と考えている。なるべく授業は全員参加を目指したいし、それは子どもたちに頼るだけではいけない。教師が全員参加を目指し、指導を工夫するということは必須であろう。
はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」
僕はかつて泣き虫であった。今でも自他共に認める程、涙もろい。しかし、泣き虫と涙もろいというのは違う、と思っている。
そんな僕にとっては黒歴史? とでも呼ばないといけない「泣き虫の記憶」を紐解いてみることにする。
僕は何か失敗したり、間違ったり、嫌なことがあると涙を流していた。そして、周囲の人から「大丈夫?」だの「U-Tchallengeは悪くないよ」と慰めてもらっていた。
どうしてあんなに涙を流していたのだろうか、と今では思ってしまう。涙を流すことにより、そこで起こっていることの責任を免れる、と思っていたのではないだろうか。涙を流すことにより、周囲から同情してもらおう、と思っていたのではないだろうか。
涙を流していた理由を、現在の僕としてはこのように考えている。もちろん、感情が抑えきれずに涙を流していたこともあっただろうが。
黒歴史と言いつつも、僕としてはけっこう印象的な記憶である。
規律は必要か?
「規律」と書くと少し重たいイメージを持たれるだろう。他の言葉で言い換えるなら、「秩序」であり、もっと簡単にするなら「ルール」となるだろうか。
まず、「規律は必要か、必要ではないか?」という、そもそも論から始めてみる。答えは「規律はある程度必要」である。規律がないと無秩序に陥ってしまうことがある。無秩序になった時、統制がとれなくなる。そうなって割を食うのは子どもたちだ。それは子どもたちも理解しているだろう。じゃないと、遊べない。
例えば、無秩序の中でおにごっこをする。たちまち、「誰が鬼なのか」ということで揉めることとなる。やっと始まったと思った矢先、次は「一人狙いをしていいのか」「挟み撃ちをしてもいいのか」ということ等で揉めることとなる。そんなことをしていては到底楽しむことはできない。だから、子どもたちなりに、そこへ「規律」を持ち込み、遊びを始める。まあ、おにごっこに「規律」とは何だか大層ではあるが。以上からわかるように、「規律はある程度必要」である。
さて、「『ある程度』とは、どの程度なのか?」というのが、続いて気になることである。「ある程度」というのは、少し緩くということだ。いや、決して規律自体を緩くするということではない。規律に情緒を差し挟んでしまうと、どうしてもブレる。規律自体は誰もが理解でき、納得できるものを追い求める。
緩くするのは、規律を守るということである。「規律なんだから、守ってもらわなくては困る、いや守るべきだ」というお叱りを受けそうだ。だけど、必ずしも規律を守ることなんてできない。ためしに自分自身の言動を振り返り、考えてみてもらいたい。思い当たる節はいくつも見つかっただろう。だから、子どもたちにも規律を守るということを緩くする。守らせるというより、「守った方が得だな」と思わせる方に近いだろうか。それぐらい緩く構えたい。
だけど、規律を守れないのを放っておくわけでもない。規律を守れない時は、子ども自身に責任を負ってもらわないといけない。それとは別に、どうやったら規律を守れるか、その規律は本当に必要なのか、ということも考えさせたい。それは、その子―個―に考えさせることもあるが、この子たち―集団―に考えさせることを大切にしたい。ある規律が学級に必要な規律であるかどうか、しっかりと確認(相互承認)できるシステムが用意されていることが、学級に存在する規律の最も重要な本質である、というわけだ。
「ルール(規律)は守るためにある」「ルール(規律)は破るためにある」という言葉がある。これはどちらも正解であり、どちらも間違っている。規律は守らないといけないけど、守れない時もある。規律自体がおかしければ、作り直し、守れるようなものにする時もある。このように規律というものを捉えている。
主体性を掘り起こす
主体的に物事に取り組む必要がある、ということは今に始まった話ではない。だが、新学習指導要領でも謳われているように、子どもたちの「主体性」を育むということは大切なものである。
以下に少々長くなるが「主体性」についての記述の引用を行う。
予測できない未来に対応するためには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが重要である。
これからの子供たちには、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくことが求められる。
「教育課程企画特別部会 論点整理」文部科学省・2015/08/26・p2より一部抜粋
この記述からわかるように、新学習指導要領の改訂は、学校の中で完結する話ではなく、社会の変化から端を発しているのである。他にもAIの発達、グローバル化、高度情報社会の到来等。枚挙に暇がないので、この辺で止めておく。だから、「社会に開かれた教育課程」とも謳われているのである。
では、子どもたちに「主体性を持ち、物事に取り組みましょう!」と話し、子どもたちの主体性が発揮されるかと言うと、そんな簡単な話ではない。なぜなら、「主体性を発揮する」ということはリスクを負うということにもなるからだ。
主体的に物事に取り組むということは、自分で行動を選択し、物事に取り組むことになる。そこでは、成功や失敗は当然ある。その結果を誰が責任を持ち、引き受けるのだろうか? それは、誰でもなく自分だ。だって、自分がその行動を選択したのだから。つまり、「主体性を発揮する=結果のリスクを負う」と、言い換えることもできる。それは、子どもたちも理解しているだろう。だから、なかなか主体的に物事に取り組むことができない。
もちろん、主体的に物事に取り組むことができない理由は他にも考えられる。「適度な自尊感情の欠如」「失敗を学習した」「主体的に物事に取り組む雰囲気がない」等。いろいろな要因が絡み合っている。
しかし、やはり子どもたちに「主体性」を育まないといけない。それは上記した通りだ。そうでないとこれからますます困難になる未来で物事に対峙することができない。
だけど、ここで気をつけないといけないことがある。子どもたちに「主体性」を育てようとすることで、子どもたちの「主体性」を奪ってしまうことになるかもしれないということだ。子どもたちに「もっと主体的に行動するよう」と求める。そうすると、子どもたちは必死に僕の言葉を守ろうと努力する。しかし、「僕の教えに忠実に」なればなるほどその行為は定型的になっていく。僕の教えを守ることに拘泥し、そこから逃れられなくなったからである。そこで、僕はそれを指摘し、もっと自分自身の頭で考え、主体的に行動するよう求める。すると、僕に批判されないために、ますますぼくの言葉にがんじがらめになっていく。つまり、「主体的であれ」という言葉が、主体性を阻む「呪いの言葉」になっているのだ。
このような光景は多くの教室で見られるものであろう。子どもたちの「主体性」を、自分自身の言葉で縛っているかもしれない、という自覚は持っておきたい。
以上のように考えていくと、「主体性を育てる」というのは少し違うのではないか、と思う。子どもたちが元々持っている「主体性を発揮」できるようにすることこそが肝要ではないだろうか。つまり、「主体性を育てる」のではなく、「主体性を掘り起こす」ということ。
だったら、教室で用意できることは、「主体的に物事に取り組むことができる環境」である。子どもたちが、トライ&エラーを認める・できる環境を。そこでは、子どもたちにすべてを預け、放任するわけではない。子どもたちの自己決定を尊重しながら、適切にフィードバックを行いたい。
引用・参考文献