小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

特別支援学級における1人1台端末を活用した指導・支援のまとめ

 紹介してきた特別支援学級における1人1台端末を活用した指導・支援について、実践を通して思ったことをまとめてみる。

(1)一人一人の教育的ニーズに合った指導・支援ができる

 特別支援教育の大切な考え方の一つとして、「一人一人の教育的ニーズを把握し、持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善または克服するため、適切な指導や支援を行う」というものがある。

 この考え方は、1人1台端末を活用した指導・支援でも大切にしないといけない、と考える。

 そうは言っても、これまでの紙ベースでの教材作成では、手間がかかり数を増やすのもバリエーションを増やすのも困難であった。また、ICT機器の不足のため指導・支援に一貫性がなくなることもあった。

 しかし、1人1台端末を使うことで、それらの課題が解消され、より一人一人の教育的ニーズに合った指導・支援が可能となった。つまり、1人1台端末は、一人一人の教育的ニーズに合った指導・支援を実現するための、重要かつ基礎的な環境整備になるということだ。

(2)   児童の主体性が引き出される

 1人1台端末を活用し、一人一人の教育的ニーズに合った指導・支援を行うことで、紹介したように子どもの主体的なな姿が見られるようになった。

 どうして、子どもの主体的な姿が見られるようになったのだろうか、と考えてみる。そこには、二つの要因が考えられる。

 一つ目は、子ども自身が学び方を選択する余地があるということ。

 例えばひらがなや漢字の書き取りだと、これまではドリルを使用するしか方法はなかった。しかし、1人1台端末を活用することで、デジタル教材を容易に利用することが可能となった。つまり、子どもが学び方を選択する幅が広がったため、子どもの主体性が引き出されたということだ。

 二つ目は、子どもが「できる」「わかった」と思えることが増えたということ。

 特別支援学級に在籍する児童は、低次の部分で大きくエネルギーを使い、高次の部分にたどり着くのが困難なことが多い。例えば時間をかければ文字を読むことができるがそのことに多くの時間を使ってしまい、肝心の文章読解を行うときには時間が足らなくなってしまう。よって、1人1台端末を活用し低次の部分を支援することで、高次の部分に取り組むことができるようになる。そのことで、子どもの「できる」「わかった」という経験を積み重ねることができたのだろう。

 学習の本質はどこかを考え、それ以外の部分が障壁になっている場合は、1人1台端末による代替を積極的に考えていくべきであろう。そのことが子どもの学習意欲を高め、子どもの主体性を引き出すことにつながるのではないだろうか。

(3)子どもの自立や社会参加につなげる

 主に学習場面で1人1台端末を活用したものを紹介した。もちろん、学習場面での活用は重要なものである。しかし、学習内容を理解させるために使うだけでは弱いように思う。

 1人1台端末はあくまでもツールの一つである。そのツールは、確かに学習場面で大きく役に立つ。しかし、ツールを使う目的は、学習内容を理解するためだけではないはずだ。ツールを使う本来の目的は、子どもがその子どもらしい学ぶ力を身につけ、自己実現を図っていくことではないだろうか。

 したがって、1人1台端末を学習場面で活用することを通し、子どもの自立や社会参加につながるようなより良い1人1台端末の使い方を考えていく必要があるのではないか、と考えている。だからこそ、学習場面以外での1人1台端末の活用を積極的に考えていく必要があるだろう、と考えている。

 

 これからを生きる子どもたちにとって、1人1台端末のようなICT機器を使用することは当たり前になっていくだろう。それに加え、将来においては現在よりもよりハイテクなICT機器を使用することになるだろう。

 したがって、そのようなICT機器を使えないよりは、使えた方がもちろんいいだろうし、子どもが自分に合った使い方ができればもっといいはずだろう、と考えている。

 このように考えると、学校教育において1人1台端末をさまざまな場面で活用することには大きな意義があるだろう。

 

参考・引用文献

ケチってしまう

今週のお題「お花見」

 

 今年は新型コロナウイルスが落ち着いてきたのもあり、久しぶりに花見らしい花見をした。同じように考える人が多いようで、花見らしく賑わっていた。
 そんな花見には屋台が並んでいることが多い。定番だと焼きそばやりんご飴といったところだろうか。なかなか魅力的なものが多く目移りする。
 しかし、ここでどうしてもケチってしまう。値段が高く感じるし、果たして野外で食べておいしいかと思ってしまう。そんなことを考え悩みだすと、まあ買わなくてもいいやとなってしまう。
 お財布にはやさしいのだろうが、何となく楽しめていないようにも思ってしまう。まあ、とにかくケチなことが原因であろう…。
 みなさんは花見だけではないが、屋台のものをけっこう買われるのでしょうか?

価値づけることの方略

 価値づけるということを考えて記事にしている。今回でいちおう終わりになりますので、よければ最後までお付き合いください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 前回、僕は「『価値づける』と『褒めること』は似ている行為ではあると思うが、全く同じ行為だとは思わない」と述べました。少し補足をします。

 「褒める」は、悪いことではない。僕も全く褒めないということではない。しかし、「褒める」ということは、子どもたちを「褒める」方向に導こうとする、という教師の思いが強くなり過ぎることがある。つまり、子どもたちを「洗脳」することにつながることになりがち、ということである。

 そのように考え、「アドラー心理学」では「褒めること」について少し批判的である。アドラー心理学では、「褒めること」よりも「勇気づけ」というアプローチを提唱している。

 岸見は「勇気づけ」について以下のように説明している。

ほめるのとは違って、すなわち、評価するのではなく、喜びを共有すること、自分の気持ちを伝えることは勇気づけになります。当たり前だと思って見逃しがちな行為に対して「ありがとう」とか、「助かった」といってみます。

(『アドラー心理学入門』岸見一郎、KKベストセラーズ、1999、p70)

 細かい違いではありますが、僕は「勇気づけ」を意識し、取り組んでいるつもりである。

 さて、ここで僕が行っている価値づけることの方略についてまとめてみる。「価値づける」ために、僕が行っていることは「勇気づけ」「語る」「示す」の三つである。

 「勇気づけ」は、先ほど述べた通りである。

 「語る」ということは、言葉の通り、子どもたちに話すことである。学級担任をしていると子どもたちに「語る」という場面は多くある。朝の会、授業、行事等々。そこで、価値ある行為や大切にしたい価値を語る。もちろん、「語る」ということは先ほど述べた「勇気づけ」に比べると、教師の思いが強くなる。だからと言って、「語る」ことを放棄してしまうのもよくない、と思っている。

 そこで、僕は「語る」時は、なるべく「洗脳」にならないように、多角的に語るように気をつけている。

 例えば、学び方について語るという場面。「学校に来て同じ学習をしている人が近くにいるのだから、何人かで集まり学習を進めるのは良いと思う。だけど、集まって学んでいると自分の考えを深められていないのかもしれないよね、反対に、一人でじっくり学ぶということも良いと思う。だけど、一人だけで学習をしていると、その考えだけで凝り固まらないかな。せっかく同じように学んでいる人が近くにいるのだから、もったいないな。つまり、どちらの学び方でも良いってこと。要はバランスが大切だよね」というように語るようにしている。

 「示す」ということは、子どもたちの価値ある姿や言葉を取り上げることである。例えば、学級通信で文章や写真で取り上げ、価値ある姿や言葉を紹介する。また、言葉で「示す」ということもある。それは、上記で述べた「勇気づけ」「語る」を通して行っている。

 以上が、価値づける方略の三つである。この三つは一つひとつが重なる部分もある行いである、と考えている。

 自分の中で「価値づける」ということについて、かなり考えをまとめることができた、と満足している。

 最後までお付き合いしていただいた方がいましたら、ありがとうございました。

インクルーシブ(教育)を考える

 先日、記事にした野口・喜多『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』を読んでからインクルーシブ(教育)について、うんうんとうなりながら? 考えている。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 とりあえず、インクルーシブに関する書籍を読んでいる。また、野口・喜多で紹介されている書籍を読んでみている。

 書籍でも繰り返し強調されていたが、インクルーシブ(教育)はプロセスということ。そのプロセスを大切にし、一人ひとりが生きやすい環境をつくっていくということである。

 インクルーシブ(教育)を考えるということが、そのプロセスの一歩になるだろうと信じている。

 書籍を読んで考えたことを記事にしながら、インクルーシブ(教育)について考えるプロセスについてオープンにしていきたい。

引き受けつつ投げる

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」

 

 WBCは思った以上に盛り上がった。毎試合きちんと観戦していたわけではないが、一球速報等で一喜一憂していた。そして、連日なされるWBC関連のニュースは自分から追っていた。大きな声では言えないが普段はニュースを自分から見ることはないので、かなり影響を受けていた。
 そんな盛り上がったWBCを受けて今回のお題。打つ投げるどちらをテーマにしてもよいようだ。
 では、投げるをテーマに仕事について書いてみる。
 仕事で「投げる」という言葉を使うものはいくつかある。「丸投げする」「投げやりな態度で行う」が思い浮かぶ。どちらかと言うとネガティブな意味で使うことの方が多いように思う。
 教師の仕事だけでなく多くの仕事は、一人だけで完結するものはない。もちろん、一人の者が行い管理職が確認するだけということもある。さまざまではあるが、多かれ少なかれ一人だけで完結するものはない。

 さて、そのように考えると一人でうんうんとうなっているのではなく、ある程度で他者に投げる必要があるだろう。一人で完璧を求めて行っても、他者の目が入ることでそれが簡単に訂正や追加が行われるから。つまり、一人で完璧を求めることは悪いことではないが、他者の目が入ることを前提とするということ。

 この態度は、「丸投げする」「投げやりな態度で行う」のような諦めではなく、責任を引き受けつつも他者に投げるという前向きなもののように思う。

 とにかく他者に投げるということを前提になると、仕事の速度が速まるだろう。なぜなら、自分だけで完結しないのだからさっさと他者の目を入れることでより良いものができることに気づくことができるから。

 引き受けつつ投げるという態度で仕事に取りかかってみるのは、どうでしょうか?

野口・喜多『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』

 出版されたときから気になっていた一冊。手に取ろうか迷っていたときに、出版記念セミナーに参加した。そこで執筆者の方々の話を聞いた。それを聞いて読んでみよう、と思い手に取った。

 読んでみて思ったことは、迷っていたけど手に取ってよかったということ。僕にとってはさまざまなことを考えるきっかけを与えてくれる一冊であった。

 そんな読みながら考えたことを本の内容を紹介しながら書いていくことにする。

 編著者である野口晃菜さんは、インクルーシブ教育について以下のように考えることの必要性を述べています。

確かに、障害のある人だけが差別をされるか、というと、そうではありません。外国にルーツのある人、性的マイノリティ、貧困状態にある人など・・・・・・差別を受けているマイノリティ属性は日本にもたくさんいます。障害以外のマイノリティ属性の子どもの教育を受ける権利を保障するためには、特別支援教育や障害児教育の枠組みのみではなく、通常の教育の枠組み自体をインクルーシブにしていくための議論が欠かせません。

 確かに、インクルーシブ教育と言うと、障害のある人への教育(特別支援教育)の文脈で考えがちである。しかし、それだけでなく貧困やジェンダー、いじめ等の多くの人権課題、マイノリティを含めた文脈で考える必要がある。そのことに気づくことができた。

 もちろん、これまでの特別支援教育の実践は大切にしたい。しかし、そこだけで考えていては狭いものになってしまう。だからこそ、他の人権課題にもアプローチしていく必要があるだろう。

 また、NPO法人インフォメーションギャップバスター理事長の伊藤芳浩さんは「特権性」ということに言及されている。

特権のある人の観点は、すべての人に等しく機会を与えるといった「平等さ」であるのに対し、特権のない人の観点は、すべての人が等しく機会を与えられるだけでなく、価値を受け取ることができるといった「公平さ」にあります。両者の観点がずれていることが、配慮は特別扱いであるといった意識のずれが生じる原因となっています。

特権のある人が自分の特権に気づくこと、そして特権のない人への配慮が優遇ではなく、是正措置だと正しく理解することから、真のインクルージョンの実現は始まると考えます。

 誤解を恐れずに言えば、教師は学校内における特権がある人であろう。もちろん、教師だって一人ひとり異なるので括ってはいけないように思うが、ここは言い切ってもいいのではないか、と思う。

 そう考えるなら、教師である僕は僕が意識せずとも持ってしまっている特権性や特権意識を自覚することから始めないといけないだろう。つまり、教師である僕は意図せずとも差別を生みだしてしまったり、助長していることが起こっているかもしれないということ。

 これに直面するというか正視するのはしんどいことではある。しかし、ここからがやっと始まりに立つ準備なのだから、しんどいからと言って避けていてはいけないだろう。

 他にも行くつかるがこの辺にしておこう。

 章ごとに設けられているリフレクションワークがあり、それ一つひとつに答えを記入してみた。さらに、章ごとに参考文献が示されており、ここから学びを深めていくことができるようになっている。

 僕にとってはインクルーシブについて考えるきっかけになる一冊であり、これからも大切にしていきたい一冊となった。

アプリで指導・支援

 1人1台端末を利活用するとさまざまなアプリを使用することができる。そのアプリを使って指導・支援することができるだろう、と思った。

 どのOSでもあるであろう「タイマー」のアプリを使用した例。

 特別支援学級では、クールダウンの時間や切り替えるための時間が通常学級よりも多いように思う。そして、それらの時間は一人ひとり違うタイミングで設定されることにもなる。通常学級では基本が一斉であるので、設定する時間は一つで済む場合がほとんどである。しかし、特別支援学級では一つでは済まないということである。

 そうであるならば、一人ひとりのタイマーを持てるようにすればいいのだ、と素直に考えた。100均でキッチンタイマーのようなものを揃えるのも一つの手であるが、これからの生活を見据えるとキッチンタイマーのようなものを持ち歩くことはないだろう。それよりも1人1台端末にあるタイマーを使うことの方が現実的であろう。

 子どもと対話しつつ、時間を設定しタイマーを使って時間を確認できるようにしている。子ども自身でできるように指導し、時間設定をできる場合は子ども自身に行ってもらうようにしている。

 アプリにはタイムタイマーのようにより視覚に訴えるようなものもあるので、アプリをインストールして使うことも可能である。無料のものも多いので重宝する。

 学習用に開発されたアプリを使用した例。

 学習用に開発されているアプリはたくさんある。「遊んで学べるシリーズ」や「美文字判定」のようなものを試してみた。子どもたちにとっては目新しいものとなるので楽しそうに取り組んでいた。

 しかし、どうしてもどこかで飽きがくるようにも思った。なので、学びのとっかかりとしては最適であるが、それを続けていくのはアプリ任せにするのは難しいように思った。

 アプリはこれから膨大な数が開発されることになるだろう。そこから子どもに最適なものを選択していくことは悪いことではないだろう。だが、アプリありきというのはアプリに使われているようにも感じる。ここは考えがまだまとまっていないが慎重になっている。

 とは言え1人1台端末を利活用することで指導・支援のバリエーションは増やせることは確かだろう。

最近食べている甘いもの

今週のお題「あまい」

 

 バレンタインデーとホワイトデーがあったので、普段より甘いものを食べることが多い。そんなに自分から甘いものを摂取することはないが、食べてみるとやはり美味しい。

ということで、最近食べた甘いもので個人的に美味しかったものを紹介する。

①カントリーマアム チョコまみれ

 初めて目にしたのはコンビニだったように思う。食べたときはカントリーマアムの概念が覆ったような思いだった(笑)。久しぶりにシンプルなカントリーマアムにも手を伸ばしたぐらい衝撃であった。

ホームパイ チョコだらけ

 チョコまみれよりも個人的にはこちらの方が好きです。チョコまみれに目を奪われていてチョコだらけの存在に気づいていなかった。先日、食べてみると驚いた。まさにチョコだらけだと(笑)。

 結局、不二家商品の紹介になってしまったようだ。でも、これらが現在の僕の近くにある甘いものである。

 みなさんの近くにはどんな甘いものがあるでしょうか?

動画視聴を通して学習

 以前、記事にもしたように特別支援学級複数学年が在籍することが多い。また、同じ学年であっても一人ひとりの実態によっては取組むことは変わる。

 よって、どうしても個別の指導が多くなる。しかし、教師の体はもちろん一つである。時間割によっては付きっ切りで指導できる時もあるが、全員がそろっている時や複数名いると付きっ切りで指導することはできない。付きっ切りで指導することができない時間の方が多いのが現実である。

 自ずと子どもが自分自身で学びを進めていく時間が発生する。そのときに、子ども自身で学びを進めていけるといいのだが、そんなすぐにはできない。そこで、1人1台端末を活用し、動画視聴をすることで学習を進められるようにした。

 具体的に言うと、「NHK for School」の動画を活用している。「NHK for School」については説明は不要だと思います。どの教科・領域でも活用できるぐらいのコンテンツがそろっている。これを活用しない手はない。

 動画視聴を通して学習することを指導し、それを続けていく。そうすることで、子ども自身で学びを進めていくことができる。ただ独力でというわけではなく、動画の力を借りることになるので、子ども自身で学びを進めやすい。

 そして、動画視聴を指導することで自分の体が空くようになるので、個別の指導が必要な子どもに直接指導を行うことができる。ここは、動画視聴と直接指導を上手く組み合わせるというかプログラムを組むという具合である。

 このような発想は複式授業を参考にしたものである。複式授業のキーワードとして「直接指導と間接指導」というのがある。直接指導を行うときに、学習の見通しを持てるようにし確認し間接指導に入る。そして、学び方を身につけられるよう指導していく。このように指導していくために学習過程を各学年でずらす(ずらし)ということも考える必要がある。

 動画視聴が間接指導になり、動画視聴を取り入れることでずらしが容易になるというわけである。つまり、1人1台端末を活用することで、子どもの学びを促進しつつ、教師の動ける範囲を確保するということにつながる。

偏愛的な感情

特別お題「今だから話せること

 

 右も左もわからないままに始まった1年目。七転八倒しながら何とか一年を終えたことを、今でも鮮明に覚えている。

 そして、2年目を迎え、1年目に担任した子どもたちと離れることになる。新たな子どもたちとの出会いを大切にしていなかったわけではないが、どこか集中できていない自分がいた。ふとした瞬間に、1年目に担任した子どもたちのことを考え、またふとした瞬間に、1年目に担任した子どもたちのことを目で追っていた。

 もちろん、2年目以降に担任した子どもたちを、僕は愛しなかったわけではない。しかし、1年目に担任した子どもたちとは違う。1年目に担任した子どもたちに抱いた愛は、偏愛的なものでした。それは、子どもたちが卒業するまで抱くことになった。いや、偏愛的な感情は、今でも心の奥底に眠っているように思う。1年目に担任した子どもたちは、僕にとってそのような存在である。

 このような思いは、多くの教師が抱いている感情ではないか、と思っている。誰にも聞いたことはないのだけれども。

 以上のような経験をした僕は「教師が素の人間として子どもと接するのは善か悪か」という問いを抱くこととなる。

 現在の僕はこの問いにこう答える。『教師が素の人間として子どもと接するのは悪ではない。しかし善でもなく、時に「過剰」を生み出してしまう』と。過剰な期待、過剰な関わり、過剰な甘え・・・。「過剰」が悪いわけではないが、「過剰」は上手くいかなくなったときに大きく傷つけることになってしまいがちである。よって、善ではない。

 こんな考えもあり、担任した子どもたちとは次年度以降、僕は意図的に離れようとしている。全然関わらないわけではないが、かなり関わりを避けようとする。ビジネスライクというか、一年間担任した教師として接しているという趣である。何だか冷たいような気もするが、これでいいのかな、と今は思っている。

 というか、そうでもしないと偏愛的な感情がまたむくむくと湧き上がってくる。それは、やはりプロとしては善ではないのではないか、と思う。

価値づける≒褒めること?

 価値づけるということに考えている。それを記事にしてみなさんに、僕はこう考えているのですがどうですか、と投げかけている。まあ、勝手に投げているだけなので誰かが受け取ってくれているのなら嬉しい。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 さて、価値づけるということを考えていると、価値づけるということは褒めることということだろうか、と疑問に思った。価値づけるよりは褒めるという言葉の方が一般的には使われることも多いだろう。そこで、価値づけることと褒めることについて考えてみる。

 結論から言うと「『価値づける』と『褒めること』は似ている行為ではあると思うが、全く同じ行為だとは思わない」というのが、僕の考えです。

 例えば、「自分の考えをいつもよりたくさん書くことができた子がいる」という場面。この場面で、「○○くん、たくさん書くことができているね。いいね~」等と声をかけ、褒めます。これは、その子に対して褒めている、ということを伝えたくてしている行為である。もちろん、その褒めている行為を見ている周りの子にも影響がある。しかし、これは副次的な効果であり、あくまでも褒めるはその子に伝えている行為だ、と考える。

 つまり、「褒めること」は褒める子だけで完結する行為だ、と言える。その子の中で「伸びたか、伸びていないか」を見取って褒める。その子だけのことを考え、完結するということとなる。

 次は「価値づける」場面を考えてみる。先程と同じ「自分の考えをいつもよりたくさん書くことができた子がいる」という場面。この場面で、「○○くん、たくさん書くことができているね」等と声をかけます。これは前例と同じとなります。それに加え、「最後まであきらめずに取り組むということはいいね~」等と声をかけ、価値づける。これは、学級全体に価値ある行為について伝えたくてしている行為である。もちろん、その子を褒めるという行為でもある。

 つまり、「価値づける」は褒める子だけで完結する行為ではなく、学級集団をも意識している行為だ、と考える。

 まとめると、「『褒めること』は、褒める子だけで完結する行為。『価値づける』は褒める子だけで完結する行為ではなく、学級集団をも意識している行為」となります。「褒めること」は具体的に伝える行為、「価値づける」は抽象的に伝える行為、だとも言い換えられるのではないでしょうか。

 よって、「『価値づける』と『褒めること』は似ている行為ではあると思うが、全く同じ行為だとは思わない」ということとなる。

 今回の考えはどう思われたでしょうか?

一人でこなさなきゃ

 僕がとらわれていた「しなきゃ」ということは、一人でこなさなきゃということ。もう少し具体的に言うと、一人で学級を運営しないといけないということ。

 教師という仕事は、初任から学級担任をすることが一般的である。もちろん、校種や地域差はあると思うが、おおむねその通りになっている。つまり、いきなり一国一城の主となれるというわけだ。このことに対して賛否両論はあると思うが、今回はそれは置いておく。

 いきなり一国一城の主となれた僕はその大変さに気づかずに、その状況に身を投じていく。例えば、学級で行うことの多くを自分が決めないといけなくなる、授業の進度を調整していかないといけなくなる、等々。学年や学校には複数の学級があるので、誰かに相談することはできる。しかし、担任している学級に対しての一番の責任を感じるのはやはり担任である。よって、相談はしつつも自分が担任している学級でのことは自分が動かないといけない、ということを当たり前のように思っていく。

 また、学級ではさまざまなトラブルというかハプニングが巻き起こる。これは決してネガティブなことだけではなく、多くの子どもが友に生活するから当然のことでもある。そのトラブルやハプニングに対処する最前線にいるのがその学級担任となる。

 これらのことを繰り返していると、冒頭で述べたように一人でこなさなきゃいけないという思いが強くなっていった。しかし、一人でこなさなきゃいかないという思いとは裏腹に一人では何ともならない日々が続いた。

 ある日、もう無理だ大変だという思いでいっぱいになった時が来ることとなる。それは周囲にも漏れ伝わってしまうぐらいであったようだ。そこで、同僚の教師から声を掛けられた。詳しくはもう覚えていないが、おおむね「あなただけの責任ではないよ、いつかわかってくれる時が来るよ」のような毒にも薬にもならないような言葉ではあった。

 この毒にも薬にもならないような言葉は、僕にとっては毒なのか薬なのかはわからないが刺さる言葉であった。一人でこなさなきゃという思いにとらわれていた僕は、誰かに頼ってもいいんだきっと誰かが助けになってくれるだろうという思いを抱いた。これは僕にとって大きな気づきであった。

 そこからは何か大変なことが起これば、少しずつ他者に頼るようになっていく。頼ったからと言って事態が大きく改善されることはまあないのであるが、それでも救われる実感はあった。現在ではすぐに頼るのでそれはどうだろうか、と自問自答することもあるが(笑)。

 このような機会にとらわれていた思いについて振り返ってみたが、どうしてそんな思いにとらわれていたのか、と理解に苦しむ自分がいる。それだけとらわれて、見え方や考え方が狭まっていたのだ、と現在の自分は思っている。

 今回、自分がとらわれていた思いを振り返ることで、新たな思いに気づくことができたように思う。

価値を見出せる条件

 以前、「価値づける」ことには、自分なりに意図を持って行っているが、「洗脳」という側面があるのではないか、という考えを述べました。今回はその続きです。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 教師が価値づけることは洗脳という側面がある。そうならば、子ども自身が価値を見出せることができれば、洗脳という側面は薄まるのではないか、と思う。

 このように考えるならば、子どもが価値を見出せる条件は一体何だろうか、と考えみた。それには三つの条件があるのではないか、と考えた。

 一つ目の条件は、「子どもが価値を見出すのを待つ」ということ。

 子どもが価値を見出すのには時間がかかる。こちらが意図していることや見出して欲しい価値に気づくことは簡単ではない。もちろん、集団の中にはすぐに気づく子もいるかもしれない。しかし、それはあくまで集団の一部であり、集団全員ではない。その時、僕はついつい話したくなります。例えば、「みんなは気づいていないけど、○○ということが大切なのです」というような感じで。これでは、子どもが価値を見出すにはならない。

 よって、「待つ」ことが大切になる。ただ待つだけ、これだと簡単に思えるかも知れません。だが、これは決して簡単なことではない。何しろ、待ったところで「子どもたちが価値を見出す」という保証はないのだから。子どもが価値には気づかないままになってしまうかもしれない。それでも、「待つ」以上にできることがない、と思う。対象―子ども―をコントロールしないということが、「待つ」ことの本質である。「待つ」とは、対象―子ども―が主体的に在ることを尊重し、こちらが決してそれを操作しようとしないことである。ですから、子どもたちが価値をいつ見出すのかということについて、教師が意図的な方向づけを行ったりせずに、ひたすらに待つことが肝要になるだろう。

 二つ目の条件は、「子どもたちが価値を見出せる場を設定する」こと。

 前項で述べましたが、子どもが価値を見出すのを待つ。しかし、ただ闇雲に待っていても、子どもたちが価値を見出すことができるようにはならない。やはり、子どもたちが価値を見出す場を設定する必要がある、と考える。つまり、子どもたち自らが自分で考える場と時間をいかに確保するかということとなる。

 考える場と時間とは、振り返りの場と時間である。とりわけ、「書く場と時間」が大切だと考える。学習の課題に対して、一人で書く場面を設定する。さらに、学習の途中や最後で、一人で書く場面を設定する。その時、自分の考えと友達の考えと比べて書き直すことになるだろう。そこで、子どもたちが価値を見出すことができていたら、それを取り上げ「価値づける(フィードバック)」。これこそが、目指したい「価値づける(フィードバック)」ということになる。

 三つ目の条件は、「一つの価値だけを押しつけないようにする」こと。

僕は、準備すればするほど、そこで意図したものを子どもに届けたい、という思いが強くなってしまう。これは決して悪いことではない。しかし、子どもたちにとっては決して良いということばかりではない。時には害悪にさえなることもある。

 現在の社会は「多様化社会」とも呼ばれています。学級を見渡しても、確かに「多様化」している。そして、教師はそれに頭を悩ませている。僕もその一人である。しかし、これは教師側の論理であり、子ども側では、ただ思った通りに感じ行動しているだけで「別に何も困っていませんけど」といった様子にも見えます。つまり、「この価値を見出して欲しい」というのは教師の論理であり、「自分はこの価値を、自分が思うままに見出した」というのが子どもの論理ということになる。

 もちろん、全員にこの価値を見出せないといけない、ということはあると思う(人を傷つけてはいけない等)。それはそうなのですが、価値を見出すのは子ども、と考える。そうするならば、見出される価値が一つだけになるということはまず無い、と肝に銘じておかないといけない。そして、見出して欲しい価値に誘導ばかりしていると、子どもたちが価値を見出すという場から遠く離れていってしまうだろうな、と思う。

 以上、僕が考える「子どもたちが価値を見出せる条件」を書いてみました。どう感じられましたか?

Classroomでコミュニケーション

 集団に参加することに抵抗感を示し、なかなか登校することができない児童がいる。したがって、教師や学級の友達とコミュニケーションを図る機会を多く取ることができず、そのことにより教師や学級に対して安心感を持つことができないという悪循環な状態であった。

 そこで、Classroomのストリームへのメッセージを通し、コミュニケーションを図る機会を多くし、教師や学級に対して安心感を持つことができるように支援した。

 欠席する時には、フォームで作成した健康観察を提出するように指導した。また、健康観察を提出したことをClassroomのストリームのメッセージを通し、教師に知らせるように指導した。

 そのメッセージに対して、教師から簡単なコメントと共に明日の予定や児童が興味を持っていること等について返信し、コミュニケーションを図った。

 このような支援を繰り返し行っていると、児童とのメッセージのやり取りが活発になっていった。そして、児童から学習内容についての質問が出るようにもなった。さらに、交流学級のClassroomでもD児から自発的にコミュニケーションを図る姿も見られるようになっていった。

 1人1台端末が整備される前は、欠席している児童へのアプローチは家庭訪問か電話連絡のみであった。家庭訪問はその児童によるが児童やその家族に負担が大きくなることもある。また、それは教師にとっても大きな負担になる。

 今回のようにClassroomを用いることで互いの負担を減らしながらもコミュニケーションを図ることができるようになることもあるだろう。

 もちろん、直接関わることは大切にすることは忘れず、継続してコミュニケーションを図る機会をつくっていくことは大切になるだろう。そのことが、児童の安心・安定につながるだろう。

グルメしかない

今週のお題「行きたい国・行った国」

 

 海外旅行は行きたい、と思わない。日本でも行ったことがないのに、それよりも海外へとは思わない。また、パスポートを取得しないといけない、海外で言葉が通じず困らないか等々。まあ、簡単に言うと面倒ということだ(笑)。

 それでも、海外に行くことを考えるならグルメしかない、と思う。グルメを目的にしないと、自分の海外へ行くモチベーションが保てなさそうだ。

 さて、グルメを目的とするならどこへ行くことになるそうだろうか。ぱっと思いつくなら、韓国や台湾だろうか。韓国なら何となくグルメに関してもイメージがわくので安心だ。台湾も近いので何となく親しみがある。

 ここまで書いておいて何なんですが、まあ行かないでしょうね。書いていても全然気持ちが乗ってこないし(笑)。

 みなさんって海外に行きたいものなのでしょうか? 書いていて疑問がわいてしまう始末であった。