小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

子どもを大人にする

教育の目的

教育基本法第一条には「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とある。このことが教育の目的となる。

「国家及び社会の形成者」とは、言い換えれば日本国民として社会貢献・政治参画を行う者のことである。もっと本音を言えば、納税ができる者を指しているのであると思う。また、「国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民」とは、日本国民として生きて行く為に必要な資質・能力を身につけており、且つ心も身体も健康であるということである。

 ここから考えられる教育の目的は「自立した国民」を育成するということになるであろう。だから、教育が最低限しないといけないこと―何を守るのか―は、「子どもを自立した大人にする」ということである。このことが、学校教育という制度に対して、教師という職業に対して、社会が与えている唯一のコンセンサスであると考えている。

 

自立の要素

 教育の目的を「自立」に据える。そうすると、「自立」とは、どのようなことを指すのかということが、次に問題になってくる。ここで、「自立」とは、どういうことを指すのかということを明確にしておく。

 「自立」とは、「自分の力で、他者と調和して暮らすことができる」ということである、と考えている。「自立」をする上で、心理面の具体的行為像は、「①自分には能力がある、と思える。②他者は自分の仲間である、と思える」ことである、と考えている(岸見、1999)。

巻頭論文でも述べたように、現代は「相対主義」の時代であり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。だから、なかなか「自分には能力がある」とは思えない。そのため、身近な人々の承認を絶えず気にかけ、身近でない人々の価値を貶めようとする、底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまいがちである(山竹、2011)。

このような状況で「自分には能力がある」と思えるには、どの子にも、心の「安全基地」という存在が必要になる。「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索活動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。

この「安全基地」は、親―とりわけ母親が多い―が担うことが望ましい。しかし、どの子も「安全基地」を持てる―親が担うことができる―のかというと、そうでもない。そこで、教師が子どもたちにとっての、心の「安全基地」となり、どの子も安心できる場をつくる。そうすることで、徐々にでも子どもに「自分には能力がある」という思いを持たせられるようになる。

 もう一つ挙げた、「他者は自分の仲間である」と思えるということは、どういうことであろう。ここでは、「アドラー心理学」の「共同体感覚」を下敷きにし、論じる。

「共同体感覚」とは、「自分のことだけではなく、他者のことも考えられる、他者は自分を支え、自分も他者との繋がりの中で他者に貢献できていると感じられること、自分と他者とは相互依存的であるということ、しかし、同時にそのことは決して自己犠牲的な生き方を善しとする考えでもなく、自分も他者に貢献ができていると思えること」という概念である(岸見、1999)。つまり、他者と協働することで、繋がりを形成し、自分と他者との相互依存を認め合うことを指している。

だが、昨今人間関係の希薄化が進む中で、家庭や地域社会において社会性を身に付ける機会が減少し、望ましい人間関係を築く力等の社会性が身に付けにくくなっていると指摘されている。それは、子どもたちも例外ではない。子どもたちは、同じ学級に在籍していても「全員が仲間」と感じるわけではなく「何となく知っているけど別に仲は良くないよ」と言った感じである。例えるなら「群れ」でいるだけである。

そのため、「群れ」でいる一人ひとりを意図的・計画的に繋げる必要がある。具体的には、協働する(せざるを得ない)機会を保証し、どの子にも協働体験を得られるようにする。そこでは、なるべく子どもたちに任せる。そうすると、子どもたちは、時に揉め、葛藤し、未熟な姿を露わにする。そこを乗り越えさせ、繋がりを形成し、自分と他者との相互依存を認め合えるようにしていくのである。つまり、協働させることで、子どもたちの「共同体感覚を育む」と言うより、「共同体感覚を掘り起こす」のである。

 

「I」と「We」

以上からわかるように、「自立」というのは、決して「独力で生きていく」ということではない。「自分たちの力で生きていく」ということである。つまり、「自立」とは、物語の主語を「Ⅰ」(=私)と「We」(=私たち)にするということである。

大人になるということは、人生の様々な不条理を、どうにかして受け入れる覚悟をし、責任を引き受けることである。そこでは、「忍耐」「徒労」等、自由気まま(子ども)にいては決して感じられないようなものが表れることになる。その時に、「させられている」「あいつのせいで…」と思っていては(思いたくなるのはわかるけど)、物語の主語が「Ⅰ」にはなっていない。例え主語が「I」になっていたとしても、ひどく受動的である。それでは、「自立」しているとは言えない。

 だが、「Ⅰ」だけで物語を描こうとすることも、それはもちろん困難なことである。「I」だけで物語を描こうと固執する者は、確立された「個」ではなく、取り残された「弧」である。自分だけの力で困難な時には、誰かに頼ればよい。物語を「I」で描かず、「We」で描けばよい。予測できない未来に立ち向かうためには、他者との協働―自分と他者との相互依存―が必要不可欠である、と肚の底から実感できてこそ「自立」と言えるだろう。

 

 これまで論じてきたように、教育が最低限しないといけないこと―何を守るのか―は、「子どもを自立した大人にする」ということである。だから、どのような教育論においても「子どもを自立した大人にする」という目的を見据えた上で、論じていく必要があると考えている。

 

参考・引用文献

岸見一郎(1999)『アドラー心理学入門』KKベストセラーズ

山竹伸二(2011)『「認められたい」の正体』講談社現代新書

岡田尊司(2011)『愛着障害光文社新書

赤坂真二(2016)『スペシャリスト直伝! 成功する自治的集団を育てる学級づくりの極意』明治図書

水落芳明、阿部隆幸(2014)『成功する『学び合い』はここが違う!』学事出版