小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

主体性という名の呪縛

 主体的に物事に取り組む必要がある、ということは今に始まった話ではない。だが、新学習指導要領でも謳われているように、子どもたちの「主体性」を育むということは大切なものである。

 では、子どもたちに「主体性を持ち、物事に取り組みましょう!」と話し、子どもたちの主体性が発揮されるかと言うと、そんな簡単な話ではない。だけど、やはり子どもたちに「主体性」を育まないといけない。それは上記した通りだ。そうでないとこれからますます困難になる未来で物事に対峙することができない。

 しかし、ここで気をつけないといけないことがある。子どもたちに「主体性」を育てようとすることで、子どもたちの「主体性」を奪ってしまうことになるかもしれないということだ。

 そのことについて、神戸大学大学院医学研究科教授の岩田健太郎は、著書の中で以下のように述べている。

ぼくは件の研修医に「もっと主体的に、自分の頭を使って考えよ」と要請した。研修医は必死に忠実にぼくの教えを守ろうと努力した。しかし、「ぼくの教えに忠実に」なればなるほどその行為は定型的になっていった。ぼくの行為や言動をコピーすることに拘泥し、そこから逃れられなくなったからである。ぼくはそれを難じ、もっと自分自身の頭で判断行動するよう求めた。すると、ぼくに批判されないために、ますますぼくの言葉にがんじがらめになっていく。そもそも、「ぼくに批判されない」ことが目的化しているので、この時点ですでに目的そのものがずれてしまっている。

 これに倣い、考えてみる。子どもたちに「もっと主体的に行動するよう」と求める。そうすると、子どもたちは必死に僕の言葉を守ろうと努力する。しかし、「僕の教えに忠実に」なればなるほどその行為は定型的になっていく。僕の教えを守ることに拘泥し、そこから逃れられなくなったからである。そこで、僕はそれを指摘し、もっと自分自身の頭で考え、主体的に行動するよう求める。すると、僕に批判されないために、ますますぼくの言葉にがんじがらめになっていく。つまり、「主体的であれ」という言葉が、主体性を阻む「呪いの言葉」になっているのだ。

 このような光景は多くの教室で見られるものであろう。子どもたちの「主体性」を、自分自身の言葉で縛っているかもしれない、という自覚は持っておきたい。

 

 子どもたちの主体性を育んでいこう、と思えば必読の一冊である。

主体性は教えられるか (筑摩選書)

主体性は教えられるか (筑摩選書)