小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

責任倫理を持つ!

 「ネトウヨ」「ヘイトスピーチ」等、ナショナリズムの興隆について報道されることが近年増えてきている。それに対して、リベラル側に立つ者から懸念や批判がある(リベラル側も「国家」のために考えているのだから「ナショナリズム」には変わらないと思うのだが)。もちろん、最近の「ナショナリズム」は、排外的な思想が見えている。それについて懸念や批判があってもしかるべきだと思う。だが、一緒くたにし、「ナショナリズム」について懸念や批判を表明するのは違う。

 そこで、著者は最近の排外的なナショナリズムの興隆の要因の一つに「パイの縮小」を指摘する。

 ここ20年は「失われた20年」と評されるように、「バブル崩壊」「低成長」「デフレ」が起こった。安定成長期が終焉を迎え、右肩上がりの社会が崩壊することになる。この20年をまさに生きてきた僕たちには「何を今さら」と思えることなのではあるが。そう悠長なことを言ってはいられない大人たちの方が多かったとは思うが。つまり、人々に余裕がなくなってきたのだ、特に経済的に。だから、「生活保護を受給しているのに贅沢している」「在日がどうして日本の社会保障を受けているのだ! それをこちらに回せ」等の排外的な主張が巻き起こるのだ。

 そこでは、「日本は右翼化した」「いずれこのナショナリズムが戦争へ繋がる」等の対案とも言えない程のナイーヴな主張が起こる。「排外主義を道徳的にしか批判しない人に限って、のんきに――つまりどこからその財源をもってくるのかということを明示せずに――社会保障の拡充などを主張する」と著者は批判をしている。

 だからと言って、著者は排外的なナショナリズムを肯定もしていない。また、愛国心から起こる言動についても手放しで肯定していない。橋下徹大阪市長に代表とされる「従軍慰安婦問題」についての言動は、「愛国心」からによりものが大半であろう。しかし、「日本だけが非難されるのはおかしい」と主張すればするほど「日本だけが非難される」という状況を生み出してしまうこともある。結局、「国益を損ねる」ことになってしまう(もちろん、心情的には「どうして日本だけが…」というのはわかる)。愛国心からの言動にも関わらず、真逆の結果になってしまう。

 そして、著者は「低成長・高齢化の時代に合った税制や社会保障制度をつくるには、政治家が「人気取りのために目先の善を追求する」という「心情理論」ではなく、「最終的に将来にわたって維持可能なシステムをつくる」という、厳しい「責任倫理」をもつことが求められる。国民も目先の善をこえた責任倫理への覚悟をもたなくてはならない。もう大盤振る舞いできるほど経済のパイは拡大しないのだ。」と結論づける。

 これに倣い、現在を生きる僕たちにも、低成長・高齢化の時代に合った教育をつくるために、「人気取りのために目先の善を追求する」という「心情理論」ではなく、「最終的に将来にわたって維持可能なシステムをつくる」という、厳しい「責任倫理」を持つことが求められているのではないだろうか。