小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

本当に善いものだろうか?

 運動会で定番の競技の一つに「組体操」がある。多くの人が、組体操を体験したことがあるでしょう。この組体操に多くの批判というか懸念が表明されていることを知っているだろうか? けっこう世間にも浸透してきている、と感じている。今や至る所で、組体操を継続するのか中止するのか大きな議論が巻き起こっている。その火付け役となったのが、著者の内田良氏である。

 著者は、年間8000件以上の負傷事故が発生し、重傷事故も相次ぐ組体操のリスクに正面から向き合うべきである、と述べている。また、「組体操をやることが前提」となっていることが、学校における組体操実践の最大の問題点である、と喝破する。

 確かに、僕のように現場人は、このような組体操の問題が指摘されるまで、「組体操が善きものではないかもしれない」ということに気づかない(気づけない)。こんな様だから、「開かれた学校」なんていうことがしきりに言われるのだろうな、と思う。

 でも、残念ながら、学校が「開かれていく」にはたくさんの時間がかかるだろう。だって、これだけ学校がバッシングされるのだもの。殻に閉じ籠りたくなってしまうよ。閉じ籠り、自分たちで傷を舐め合わないと誰も傷を癒してくれないのだから。随分と言い訳じみた論述であるが。

 話を、組体操に戻そう。仮に、学校が開かれ、組体操等のリスクに正面から向き合う態勢ができたとする。しかし、まだそこに乗り越えないといけない課題が残る。それが、「保護者や地域」の存在である。

 言うまでもなく、保護者や学校がある地域で暮らす方々は、全員がその学校ではなくとも、どこかしらで学校教育を受けている。だから、みんな、教育について語ることができる。まさに「一億総教育評論家」のように。そして、この評論家たちは往々にして、自らの体験や経験を唯一絶対の根拠として、しかも、それを一般化してしまうという「落とし穴」にはまりがちだ。つまり、「保護者や地域」が学校化してしまっているということだ。

 「保護者や地域」が学校化してしまった時に、何が起きるだろうか? 今度は、学校が自らを変革しようとしても、市民の側がそれを許さないということが起こりうる。そうなっている状態になっても学校バッシングを続けるのだろうか?

 とにもかくにも、僕たち現場人は学校という閉ざされがちな場で行われている―行おうとしている―ことのリスクに正面から向き合う態度を求められているのだ。この時期だからこそ正面から考えていかないといけないことだ。

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)

教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」 (光文社新書)