小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

大ウソつきだとしても

 僕が最近、最も注視している教育ライターの一人が堀裕嗣氏である。著者は、札幌市の中学校教員(国語)である。氏は、授業・学級経営・生徒指導等を現場の教員として精力的に発信を行っている。それだけでは、他の教員とあまり変わらない。しかし、氏はそれに留まらず、授業・学級経営・生徒指導等を語りながらも、教育に蔓延っている悪しき構造を暴いている。その姿というか、論述にとても共感している。

 そして、この本の中には「学校リアリズム」という言葉が出てくる。

 以前に紹介した『教育という病』でも述べられているように、学校は閉ざされた空間であり、学校で行われていることは社会との乖離が多くある。確かに「綺麗事」だと思われるような論述はある。「誰でも努力すれば伸びる」「どんな人でもわかり合える」「一人はみんなのために、みんなは一人のために」挙げれば切りがない程。実は、このような論述は教師自身も綺麗事だと思っている。

 僕達だってもう子どもではない。それなりに社会の荒波に揉まれ、多くのことを経験している。「社会は綺麗事だけではやっていけない」ことは理解できているつもりだ。だけど、心の片隅にでも「誰でも努力すれば伸びる」「どんな人でもわかり合える」「一人はみんなのために、みんなは一人のために」というような綺麗事を信じたいという気持ちがある。このような心持ちの在り方はいつ形成されたのだろうか。これこそが、幼少期から青春期にかけての学校教育の賜なのだと思う。

 誰だって前を向きたい。でも、前を向くためには前を向くための基礎体力のようなものが必要だ。その有無を決める大きな要素の一つに学校でどう過ごしたかがあるのではないか。前の向くための基礎体力づくりを培う、そのためにこそ「学校的リアリズム」は必要なのである。

 リスクや悪癖は戒めながらも、僕たち教師は「学校的リアリズム」を体現していく。たとえ、「大ウソつき」だと思われても、だ。

よくわかる学校現場の教育原理 教師生活を生き抜く10講