以前、「メインストリームから外れる」という記事を書いた。
kyousituchallenge.hatenablog.jp
題して「支流での気づき」。支流とは、 本流から分かれ出た川のことである。 あくまでも支流は本流から分かれ出たものであり、 全く別物ではない。 そんなちょっと外れた所での気づきを綴っていきます。 何回になるかわかりませんがご愛顧ください。
一回目は、「立ち止まり、逸れる」ということ。 どういうことかと言うと、子どもたちを指導する時に、 立ち止まったり逸れたりしているということ。
担任としていると、 どうしても後のことや全体への指導との齟齬が気になり、 立ち止まったり逸れたりするのがやりにくい。だけど、 どの子どもたちがストレートな指導で響くことはない。 当たり前のことではあるが、子どもたちは多様である。しかし、 担任をしているとそのことを括弧にくくり、 あたかもそうでないかのように考えてしまう。
でも、 メインストリームから外れていると立ち止まったり逸れたりする スペースが生まれやすい。 そのスペースを利用しているというわけだ。
では、立ち止まったり逸れたりしながら指導している具体を述べていく。
例えば、T2として授業に入っている時、 ぼーっとしている子がいる。そんな時、担任をしていると「 早くやりなさい!」と声をかけがちである。でも、 立ち止まるという指導ではそうしない。「何考えてるの?」 と話しかけてみる。そして、 その答えに乗っかるように話をしてみる。そして、「 さてそろそろやろうか」等と声をかけてみる。 逸れる指導では、「 ぼーっとしたくなるような良い天気やね」と声をかけてみる。 授業という本来のことから逸れるのである。 だいたい逸れることを続けていると、 子どもの方から勝手に本来の授業に戻っていく。子どもなりに、 こいつと話していてもよくない ぞ、と思うのだろう(笑)。
いかがだろうか、少しは立ち止まり、 逸れる指導が伝わったであろうか。 僕の中にある意識としては、 教師然としている大人が教室の中に二人もいたくない、 ということである。でも、もちろん教師には変わりはないので、 教師然とした指導をしないというわけではないのだけど。