小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

支流での気づき①「立ち止まり、逸れる」

 以前、「メインストリームから外れる」という記事を書いた。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

  今年度は担任をしていない。だから、メインストリームからは外れているような思いでいる。だけど、それが悪いことだとは思っていない。また、そこでの気づきというか考えが生まれてもいる。そんなことを数回、記事にしてみたい。

 題して「支流での気づき」。支流とは、本流から分かれ出た川のことである。あくまでも支流は本流から分かれ出たものであり、全く別物ではない。そんなちょっと外れた所での気づきを綴っていきます。何回になるかわかりませんがご愛顧ください。
 一回目は、「立ち止まり、逸れる」ということ。どういうことかと言うと、子どもたちを指導する時に、立ち止まったり逸れたりしているということ。
 担任としていると、どうしても後のことや全体への指導との齟齬が気になり、立ち止まったり逸れたりするのがやりにくい。だけど、どの子どもたちがストレートな指導で響くことはない。当たり前のことではあるが、子どもたちは多様である。しかし、担任をしているとそのことを括弧にくくり、あたかもそうでないかのように考えてしまう。
でも、メインストリームから外れていると立ち止まったり逸れたりするスペースが生まれやすい。そのスペースを利用しているというわけだ。
 では、立ち止まったり逸れたりしながら指導している具体を述べていく。
 例えば、T2として授業に入っている時、ぼーっとしている子がいる。そんな時、担任をしていると「早くやりなさい!」と声をかけがちである。でも、立ち止まるという指導ではそうしない。「何考えてるの?」と話しかけてみる。そして、その答えに乗っかるように話をしてみる。そして、「さてそろそろやろうか」等と声をかけてみる。逸れる指導では、「ぼーっとしたくなるような良い天気やね」と声をかけてみる。 授業という本来のことから逸れるのである。だいたい逸れることを続けていると、子どもの方から勝手に本来の授業に戻っていく。子どもなりに、こいつと話していてもよくない ぞ、と思うのだろう(笑)。
 いかがだろうか、少しは立ち止まり、逸れる指導が伝わったであろうか。僕の中にある意識としては、教師然としている大人が教室の中に二人もいたくない、ということである。でも、もちろん教師には変わりはないので、教師然とした指導をしないというわけではないのだけど。