小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

臨時休校の学校現場③「同じ時間を共有する効用」

 臨時休校がやはり決定した。しかも、今の状況では卒業式や終業式を行えるかの見通しは立っていない。本当に終わりの日になってしまった。どの学年の子どもたちにとっても、学年の終わりというのは節目である。でも、幸いにも次の学年の日がある。

 だけど、六年生の子どもたちにとっては小学校最後の日となる。次がないのである。だからこそ、こんな終わり方になってしまって残念である。こればかりは仕方のないことだ。ということは理解しているが、感情が追いつかない。いや、本当にやるせない気持ちでいっぱいになった。学級担任をしていない僕がそう思うぐらいだから、六年生担任や六年生の子どもたちはなおさらであっただろう。

 こんなドタバタの中だから、急に卒業ムードというかお別れするというムードはできないだろうな、と思っていた。すんなりと終わり、とは思えないのではないか。そんなことを思いながら一日を過ごしていた。

 そして、いよいよ下校の時間となった。担任はもちろん、専科等の関わりの深い教師たちが教室へと向かっていていた。僕も思い入れがないわけではないが、自重しておいた。ゆっくり時間を過ごしてほしい、という思いはありながらも、そんなに長居するわけにはいかない。そこそこで終わらないといけない。

 六年生担任と六年生が卒業式の日さながらに一列に並び、教室から玄関へと歩いて来た。その姿を見て、僕は驚いた。けっこうな数の子どもたちが目に涙を浮かべていたのであった。子どもたちなりに区切りをつけてきたのである。もしかすると、こんな形で終わってしまったという悲しみなのかもしれないが。

 でも、それもそうだよな、と思った。この一年間、もっと言うなら六年間。共に同じ学校に通い同じ時間を共有した仲間なのだから。このような感情を抱くのは自然であろう。きっと、それぞれがバラバラの場所で過ごし、この日だけ集まったとしたら、このような感情を抱くのは難しいだろう。だから、学校という場で同じ時間を共有するということに意義はあるだろう。

 もちろん、学校という場で同じ時間を共有するということはよいことばかりではない。閉鎖的で流動性のない空間でもある。そこで、いじめ・不登校等の問題も生じる。それに苦しんでいる子どもたちも多くいる。これは課題として考えていかないといけないことではある。これは忘れてはいけない。

 子どもたちの涙する姿からこんなことを考えた。

 まあ、子どもたちの涙する姿を見て、その時はこんなこと考えられなかったけれども。子どもたちが涙する姿を見て、僕も涙をこらえきれていなかった。年のせいか、年々涙もろくなっている気がする。悪いことではないけどな。

 

【過去記事】

kyousituchallenge.hatenablog.jp

kyousituchallenge.hatenablog.jp