定期購読している「授業づくりネットワーク」の新刊を読んだ。四月号ということで、どの雑誌でも特集されるように、新教材の授業についてがテーマ。
それはもちろん興味深いのだが、それよりも目を惹いたのは、巻頭鼎談の「指導案は書かなくてもいいのか」というもの。多賀一郎先生、南惠介先生、土居正博先生の三名で鼎談された。
この鼎談の中で、南先生が以下のように述べられている。
指導案が書けないと、授業になんてならないと思いますよ。設計図も書けないのに、家を建てるのかって話で、教材観も児童観もないまま授業をしていたら、上手くならないと思います。僕らは職人の世界なんだから、腕を磨いていかないと授業なんて一向に上手くならないと思います。
働き方改革が叫ばれている昨今。それは教師も例外ではない。その一環として、指導案を簡略化する動きもある。僕も働き方改革を進めていくことは必要だ、と思っている。だけど、指導案を簡略化するのはいかがなものか、と思っている。一律に簡略化する必要はない。それに、やはり年に一回でも指導案を書き込むという作業が教師としての成長につながる、と考えている。
書き込みたいのは、南先生も言及されている、教材観や児童観、それと指導観。そこを書き込んでいく。「書くことは考えること」という使い古された言葉がある。つまり、指導案を書き込んでいくことで、自分の観について考えるのである。指導案を書くことで、考えることを大切にしたいのである。
だから、授業を参観する時は、授業者の観を感じたいのである。もちろん、本時の展開を観ることになるのだが、そこで観を感じたいのである。指導者の観があるからこそ、その本時での学びが成立しているのか、もっと効果的な指導があったのではないか、という議論ができる。やはり、大切なのは観なのである。
そんなことを思いながら、多くの論者の授業プランを読んでいく。限られたページ数で書かないといけないので、やはり少なくなってしまうのが観の部分であった。単元や本時の流れというものを詳しくは知りたい。でも、もっと知りたいというか読みたいのは観の部分である。そこは少し不満であった。
その中でも、大谷和明先生、松村英治先生は観の部分を多いに示してくれている。やっぱり、この観を読みたいのだよね。
また、個人的には奈良女子大学附属小学校の服部真也先生の論考を読むことができて嬉しかった。奈良女の研究会にも参加したことがある身としては、「みなさん必見です!」と言いたい。もし、よければ奈良女の参観記もご覧ください。
kyousituchallenge.hatenablog.jp
新教科書教材のいくつもの授業プランを一望できるという点で、やはり今回も買いの一冊である。まだ手に取っておられない方は、是非とも手に取って読んでみてください。