前回の続きとして、今回も「学校からなくなっても平気なもの」
なくなって平気なものは、授業をすること。子どもたちがいないので、もちろん授業をすることはない。でも、 授業をしたくない、というわけでもない。 子どもたちに伝えたいことや教えたいな、 と思うことがないわけではない。だけど、 いても立ってもいられない程でもなければ、 我慢ならないことでもない。
僕が小学校の教師だから、このように思えているのかもしれない。 小学校の教師たちは、子どもたちに授業をしたい、 という強い思いを持ち教師になった人は多くはないだろう( これはあくまでも主観です、ちなみに僕はそうです)。 教師なのだから授業をするということは、 確かに教師がすることの中に当たり前のように入ってはいた。
でも、やっぱり授業が一番上には来ていなかった。それよりも、 子どもたちに関わることがしたい、という思いが強かった。 だから、臨時休校の間、授業をしないということは平気であった。 その代わりと言うわけではないが、 学校に子どもたちの姿や声がないというのは辛いことであった。
ここから考えたことは、授業は上に積み上げるものだということ。 子どもという土台がなければ授業をすることができない。 土台がないのに荷物を乗せられないように。 子どもたちが学校に来てくれるから授業をし、 教師をすることができていたというのとは、 やはり忘れてはいけない。
結局、同じところに考えが戻ってきているように感じている。 やっぱり、学校は子どもありきなのだ。もちろん、 教師自身のことについて(働き方等) 考えることも必要ではあるが。でも、それは贅沢な悩み、 と言えるのだろうな。
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