ポスト・コロナの学校現場にいる時間も慣れてきつつある。所謂「新しい生活様式」というものに慣れ始めている。でも、違和感というかモヤモヤするというか、言語化しにくいものを抱えながらいた。それが何となく自分の中で理解できてきつつあるように感じている。そんなことを今回は記事にしたい。
僕が学校現場にいながら抱いている違和感というかモヤモヤの正体は「学校に子どもたちを集めているのに分断するようにしているのではないか」ということ。もう少し、簡潔にまとめるなら「子どもたちのふれ合いを保障していない」ということ。
先程も述べたように「新しい生活様式」が定着してきた。だから、ソーシャルディスタンスに代表されるような人と人との接触をなるべく減らすことが提案されている。新型コロナウイルスのことを考えると致し方ない、と思う。
それを受け、学校での子どもたちの接触をなるべく減らすようにしている。でも、それはなかなか難しい(苦笑)。子どもにソーシャルディスタンスは厳しい。休憩時間は特に難しい。まあ、こちらが制御しようとも全てはできず、自然と子どもたち同士の関りが生まれていることとなる。これは自然発生的なものなので止めるのも難しいし、あってよいものだろう。もちろん、ソーシャルディスタンスや手洗い・うがいの奨励はするのだけど。
僕が特に気にしているのが授業でのふれ合い。授業となると教師にとっては制御しやすい場となる。だから、そこではふれ合いをなるべく排除することもできる。そのような様子を多く見ている。だけど、授業こそふれ合いを保障すべきではないか、と僕は考えている。
休憩時間のふれ合いは、往々にして気の合う同士の間で行われているものである。それはそれでいいのだが、その枠組を越えるようなふれ合いは授業でこそ生み出しやすい。だからこそ、授業でのふれ合いを保障したいのである。
繰り返しになるが、そのふれ合いをつくるというのがこのポスト・コロナの状況では難しい。それは重々承知している。だけど、学校現場にいる者として「難しいですね」で考えを止めたくない。止めているようでは学校現場にいなくてもよいだろう。
授業で(授業だけでなく学校という場で)、ふれ合いを生み出すために何ができるのか、ということについて真剣に考えないといけないのではないか。そんな僕の考えを拙いものであるが、アウトプットしてみた。僕の中で生まれた「学校現場でふれ合いを保障するにはどうしたらよいのか」という問い。大切に持ちながら学校現場にいよう。
【過去記事】
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