「両者リングアウト」と「反則裁定」にこそ、プロレスというジャンルがこの世に存在している本来の意義が秘められている(byTAJIRI)
このTAJIRIの言葉に、僕はプロレスファンとして全面的に賛成する。多くのプロレスファンにとっても納得できるものである。しかし、プロレスをあまり知らない者からすると、こういうところがプロレスを好きになれない大きな理由になっている気もしている。
最近の試合ではあまり見られなくなった「両者リングアウト」。昔では(今でも)決着をぼやかすための手の一つとしてよく採用されていた。
チャンピオンシップで「両者リングアウト」となる。そうすると、王座の移動はないことが多い。王座は移動しないし、どちらも負けたわけではないから格を下げるわけでもない。つまり、誰も傷つかないのである。
誰も傷つかないわけではない。もしかすると、傷ついていたのはプロレスファンなのかもしれない。それを乗り越え? プロレスファンはファンであり続けるのである。
でも、だからと言ってプロレスファンも不透明な決着を望んでいるわけではない。スッキリとした思いを持つ試合を見たい。だけど、そうならない時がある。プロレスファンはそれぞれなりにその状況を飲み込み、また会場に足を運ぶのである。
つまり、自分ではどうしようもない理不尽なことへ対応するということ。だから、プロレスファンはプロレスファンであり続けることで、理不尽なことへの対応する力を蓄えているのである。そして、このような理不尽なことへ対応するという経験を得られる意義が、プロレスに秘められているのではないだろうか。
世の中全体的には、黒か白かというようにハッキリとした立場表明が好まれる。それは、教育界も同じ。黒か白かを求められることがある。それは教師自身が望んでそうしているところもある。だけど、黒か白かで表せない灰色だってよくある。それを受容できないと、正直に言って教育なんていう営みはできないのだろう、と感じている。
「両者リングアウト」と「反則裁定」というものがあるプロレスは、今日のせかいを世界を渡り歩くヒントを与えてくれる。そんなことをTAJIRIの言葉から考えた。
今回は「反則裁定」については触れられなかった。「反則裁定」についてもまたどこかで。