小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ゆとり世代教育論「はじめに」

 新型コロナウイルスの影響が大きく、何だか忘れ去られていないか心配になるが、小学校では今年度より新学習指導要領が全面実施されている。「主体的・対話的で深い学び」が大きなキーワードとなっている。

 新たな教育の方向性が示されるようになると過去のことはすっかり忘れ去られていく。その一つが「ゆとり教育」。「ゆとり教育」とは、知識重視型の教育方針を詰め込み教育であるとして学習時間と内容を減らし、経験重視型の教育方針を持って、ゆとりある学校をめざした教育のことである。

 「ゆとり教育」の始まりに諸説あるが、僕はどんな区切り方をしても「ゆとり教育」の枠の中に入ることになる。そして、ゆとり教育を受けた僕たちは、「ゆとり世代」と揶揄されるようになっていく。自分が教育を受けている時には、よくわからなかったが、社会人となる頃には自分の耳によく「ゆとり教育バッシング」が届くようになっていた。

 そのおかげで、世間から見ると、何だか僕たちは出来損ない、失敗作のようであるらしい、と認識した。また、テレビや新聞で「ゆとり世代」に対してのバッシングも日に日に増えていった。

 その時、僕は反発した。「いや、そうじゃない!」「上の連中はわかっていない!」等。今、思うとこの考えも悪くないけど、正しくはない、と思う。まあ、若気の至りかな(笑)。それに、年長者の「最近の若い者は…」のような話は、今に始まったことではないし。

 そんな年長者の言葉に諦観したのか、僕たちは「ゆとりなんで…(笑)」と応えるようになる。もちろん「ネタ」で言っているつもりだった。でも、いつしか「ネタ」が「ベタ」になりつつあるようにも感じていた。つまり、年長者たちからの言葉を飲み込むふりをし、「ゆとり」という言葉を半ば逃げ口上としていたのだ。結局、年長者の言説と同じように、僕たちも思考停止に陥っていたように思う。

 今は、年長者たちから投げかけられた言葉を、「いや、そうじゃない」「言われてみると、そうだよな~」の間で揺れながら受け止めている。まさにグレーゾーンに位置している。だけど、この位置にいることは決して嫌ではない。むしろ、この位置にいられるからこそ考え続けられるとも思っている。

 さて、時はすでに「令和」。そして、新しい学習指導要領の全面実施。今さら何昔の話をしているのだ、と思われそうである。だけど、前に進むためには、過去を総括することは必要でないだろうか。

 そうしようとするならば、僕たちが生きてきた時代を俯瞰的に読み解く必要がある。そうすることで、「ゆとり世代」が生きてきた時代、見てきたこと、考えていることなどの一端を示すことができる、と思う。もちろん、僕が「ゆとり世代」の代表でもないし、僕の考えだけで「ゆとり世代」の考えが一般化できるわけがない。だが、実際にその世代である僕が語ることに意義はあるだろう。

 社会がどう変化してきたか、社会がどう変化しようとしているかに興味を持ち、そして十年後、二十年後と未来に眼差しを向ける。もちろん、未来ばかりではない。過去も同様である。過去から現在までの変容からしか、未来への想像力は生まれない。

 そろそろ僕たちは僕たちなりにでも、誰でもない僕たちについて総括し、未来へつなげる作業を行わないといけないのではないだろうか。かなり機を逸している気はしているのだが、このような思いを強くしている。

 

 このような思いをエネルギーにして、「ゆとり世代」が考える教育論なるものを少しずつ書き連ねていくことにする。よければご笑覧ください。