小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ゆとり世代教育論「僕たちは無様な大人たちを見てきた」

 僕たちは、小さい頃から多くの場面で、無様な大人たちを見てきた。

 例えば、食品偽装問題。ミートホープ船場吉兆等、例は枚挙にいとまがない。そこでは、大人たちが自分たちのしでかしたことを何とかごまかし、はぐらかそうと狼狽える姿が報道されることとなった。大人たちがテレビの前で頭を下げ、うなだれる姿をたくさん目にした。

 また、メディアや世間が出る杭を許さないという姿勢が鮮明に出たものが「ライブドア事件」だ。近鉄バファローズ買収、ニッポン放送買収等を画策し、大きな注目を得たホリエモン(堀江貴文)。2005年には、あの郵政解散に伴う総選挙において立候補する。まさに「時代の寵児」の存在となった。そんな派手な言動が目立つようになったからなのか、彼は証券取引法違反容疑により逮捕される。そして、手のひらを返したかのようなバッシングが始まる。

 今、振り返れば、その時のメディアや世間も、失敗した人を叩きすぎではないかと思う。そして、この姿勢が現在の社会でも蔓延している。このことについては、この節以降でまた詳しく論じたいと思う。

 以上のような無様な大人たち、そしてそれを取り巻く大人たちの姿を、僕たちはじっと見つめてきた。

 そんな僕たちゆとり世代は、「言われたことだけしかしない」「失敗も成長の内、もっと恥をかけ」等と世間から批判されてきた。だけど、そうなったのも「無様な大人たち」を見てきたからに他ならないと考えている。

 哲学者の鷲田清一は、大人の背中が、子どもたちに多くのことを伝えているのだ、と述べた。

親は子どもに何を教えるかなど、ことこまかに考えなくていい。それより親が、子どもとは関係なしに、何かに感じ入るということが重要なのだとおもう。何かをしないと、と思いつめることが重要なのだとおもう。その姿を、子どもは横から、まじまじと、あるいは視線の端っこで、見つめている。ひとは顔つきで、あるいは背中で、子どもに何かを伝えるということなく伝えてきた。考えてみれば怖いことである。

 鷲田の言葉に倣うと、大人たちが「もっと自分で考えろ」「まずは行動!」等と言っていることからではなく、僕たちは大人たちの姿や立ち振る舞いから学んできたということになる。

 つまり、上記した無様な大人たちの姿から学んできたということである。ちなみに、このような背中の指導のことを教育界では「ヒドゥンカリキュラム」と呼んでいる。「ヒドゥンカリキュラム」の厄介なところは、自分で知らず知らずのうちに教えてしいまっているということである。つまり、上記した大人たちも、知らず知らずのうちに自分たちが僕たちに何某かを教えている、ということには気づいていないのだ。

 大人たちは、ゆとり世代である僕たちが、どうしてこうなってしまったのか不思議に思っている。そして、僕たちの方に向け、いろいろな言葉を投げかけ、冷ややかな視線を向けている。だけど、厳しい言葉を投げかけ、冷ややかな視線を向けるべきなのは、僕たちではなく大人たちなのではないだろうか。ここで必要とされているのは、大人たちが自分たち自身の姿を振り返る眼差しなのである。無様な大人たちの姿、それを取り巻く大人たちの姿を、僕たちにじっと見られてきたのだから。

 もちろん、僕たちは、そんな無様な大人たちだけに責任を押しつけられるような子どもでもない。もう僕たちだって成人した大人だ。自分たちのことなのだから、自分たちの中にそうなった要因もあったのだろう、と自覚している。そこに目を背けるということはしたくないとも思っている。僕たちだって、僕たち自身の姿を振り返る眼差しは持っておきたい。

 

引用・参考文献

人生はいつもちぐはぐ (角川ソフィア文庫)

人生はいつもちぐはぐ (角川ソフィア文庫)

  • 作者:鷲田 清一
  • 発売日: 2016/10/25
  • メディア: 文庫