今年度より小学校では新学習指導要領が全面実施されている。そのキーワードの一つが「主体的・対話的で深い学び」である。ここにある「深い学び」というのがいまいちわからない、ということをよく聞く。それは僕もそう思っている。
でも、この「深める」という言葉は便利な言葉でもある。「深める」や「深く」と、指導案等に書いてあると何となく考えているように思える。だけど、少し考えてみるとこの「深める」や「深く」とはどういうことなのか、という具体像は浮かび上がってこない。
ということで、「深い学び」って何だろうか、と考えている。そこで、一冊の本を手に取ってみた。それが『国語授業における「深い学び」を考える』である。
小学校の国語授業をリードする存在である、筑波大学附属小学校国語部の先生方と奈須正裕先生の座談会が収録されている。これがとてもよかった。特に奈須正裕先生の言葉には納得させられることが多かった。
その箇所を少しになるが引用する。
「深い」は逆に言うと一番シンプルで、要するに意味的な処理になれば深いと。意味が発生すれば、それは深いのだと。
意味が発生するというのはどういうことかというと、どういう形でもいいから子どもがもっている知識や経験と、今日学んでいることの間に関連が見えるという話です。意味的に関係づいてくるということ。それを、意味処理が深いと考えるのです。つまり、子どもからすれば見聞きしたり、経験したりして、すでにそこそこ知っていることと、今日のことがつながってくると、「あっ、それね」と当たりがつく。「わかった」というのはそれなんです。わかったというのは、子どもがすでにもっている知識と今日学んでいることが何らかの形で合致するとか、符合するという話で、意味が発生するというのは素朴にそういうことだと考えます。したがって、深い学びというのはいろいろな意味で知識が関連づいてネットワーク化するとか、構造化するとかいうことだと素朴に考えればいいと思います。
「深い学び」について端的に説明されていて、わかりやすかった。
日常生活という言葉は諸刃の剣で、私自身は教科というのは非日常だから意味があると思っていて、これはずっと以前から主張していることです。教科というのは日常の中にある事物現象を非日常的な見方で見るからおもしろい。
(略)
国語でもそうで、説明文を区切って読むということは日常生活ではしないわけです。だいたいの意味が取れればいいですから。それを文体とか、語り手とか、構造に注目しながら読むというのは、少し見方を変えれば、日常触れているものの奥に、そんな深みがあることを知ることです。
そして、同じ命題的意味や情報を伝えるにも、文体とか、構造とか、語り口とか、レトリックとかを工夫することによって、趣が変わるとか、筆者ならではのものが醸し出せるという世界を知ることによって、そういう世界に子どもが惹きつけられていくというか、そういう世界に憧れをもって、そういうことができるようになりたい、あるいはそれを発揮したいときに、できるようになるだけの力を、今勉強してつけたいと子どもは思うようになる。子どもとは本来そういう存在であると信じたい。
国語科における「深い学び」についても具体例を挙げながら説明されていた。
この一冊を読めば、「深い学び」について理解することができる。また、国語科における「深い学び」についても理解することができる。つまり、一度で二度おいしい一冊となっている。
さらに、国語授業を真剣に考えている全国の実践家の考えや実践も読むことができる。こちらも明日の授業づくりの助けになること間違いなしである。
国語授業を少しでも変えたい、と思っている者にとって必読の一冊に間違いないであろう。