小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ゆとり世代教育論「『空気』を読む」

「空気」を読む

 「KY」という言葉が流行した。この言葉の意味は、「空気が読めない」である。僕たちゆとり世代は「空気を読む」という行動を当たり前のようにしている。いや、今や誰にも「空気を読む」という行動は標準装備されている。

 さて、僕たちは、なぜ「空気」を読もうとするのだろうか? それには、社会の変化が大きく影響している。

 現代は「相対主義」の時代。つまり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。決まった答えが見つけにくい時代とも言い換えることができる。よって、いろんなことへの「答え」がより細分化され、一つに定まりにくくなっている。一方で、一人ひとりが自分らしく生きるべきだ、という考え方も広まっている。

 しかし、なかなか「自分はこれでいい」と、自信を持って思えない。そのため、僕たちは身近にいる他者の直接的な承認にすがるようになる。自分が進むべき方向についての迷いを払拭するため、周囲からの反応を絶えず探り、それを自分の羅針盤とせざるを得ない。その結果、他者から与えられる承認の比重が増し、それを得られるかどうかが不安の源泉となる。このような事情により、僕たちは「空気」を読もうとするようになった。

 そんな「空気」を読もうとする僕たちは「とりあえず食事とかする?」「ワタシ的にはこれは決めた、みたいな」といった「ぼかし表現」を駆使し、相手との微妙な距離感を保つことに苦心するようになった。

 こんな対立の回避を最優先にする僕たちの人間関係を、社会学者の土井隆義は「優しい関係」と呼んだ(土井、2008)。

 土井は、上記で論じたような、不安定な現代を生きる術としての「『空気』を読む」ことに理解を示しながら、「『空気』を読み過ぎる」ことへの懸念も表明している。

内部の人間関係に対するその過剰な配慮は、外部の人間関係に積極的にコミットする意欲を失わせ、集団の孤島化をさらに推し進める。集団の孤島化がコミュニケーションへの没入をもたらし、それが集団の孤島化をさらに進め、それがまたコミュニケーションへの没入を深めていく。

 この負のスパイラルとも言える状況に陥ることとなっている。だったら、このスパイラスから一歩踏み出し、外へ出ればいいのではないか? と思われるだろう。でも、このスパイラルから飛び出すことは大きなリスクが伴う。上記したように、「相対主義」が広く行き渡っているから。だから、なかなかこのスパイラルに歯止めがかからない。

 

二つの空気

 さて、ここで問題となっている「空気」とは一体何だろうか? もちろん、約8割が窒素、約2割が酸素で組成されている気体のことではない(笑)。僕は、この空気には二つの種類がある、と考えている。

 一つは「全員一致」の空気。この空気は、「その場を支配している人間(たち)の意図」を理解することを求める。よって、誰もが以心伝心を求められることとなる。だからこそ、「空気」と呼ばれる不確かなものが神聖化され、「空気」を読めなかった者、「空気」を壊した者は「反『空気』罪」とでも呼ぶべき犯罪があるかのごとく叱責され排除されることとなる。

 だけど、やっかいなことに、この空気について誰も説明してくれない。説明を求めたとしても「そんなこと、言わなくても分かれよ」と突き放すか、「言葉で、いちいち説明できないものなんだよ」と不可能を強調する。この何が何だかわからない空気に、僕たちは苦しむことになる。

 もう一つは「一人ひとり」の空気。この空気は、「その場にいる人間たちが一人ひとり違うようにある」ことを求める。よって、誰もが自分のキャラを持つことになる。しかし、このキャラというものは自分が持ちたい、と思うキャラを持てるとは限らない。

 なぜなら、キャラは周囲との関係で決まってくるものだからだ。しかも、もしもまったく同じキャラがどこかで見つかれば、取り換え可能ということになる。つまり、同じキャラの登場は、集団内での自分の居場所が危うくなる。だから、僕たちは、他人とキャラが重なってしまうことを「キャラかぶり」と称し、なるべく回避しようと細やかな神経を使うのだ。

 以上のような、二つの空気を読みながら、僕たちはコミュニケーションを図っている。

 こんなゆとり世代の僕たちを見て、大人たちは「空気なんて読まずに生きろ!」「そんな集団から飛び出し、一人で行動するのだ!」等としたり顔で語る。だけど、僕たちは「空気を読む」ということを知ってしまった。もう手離せない。

 

本当にやさしいのか?

 社会学者の土井隆義が述べる「優しい関係」を取り上げた。「優しい関係」とは、対立の回避を優先にする人間関係のことだ。

 ここで、改めて考えてみたい。この「優しい関係」って、本当にやさしいのだろうか?

 「やさしい」という言葉の意味は、辞書では以下の通りである。

1 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。

3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。

4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。

5 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。

6 控え目に振る舞い、つつましやかである。

7 殊勝である。けなげである。りっぱである。

 「優しい関係」にぴったりの意味は、よく使われるであろう、2の「思いやりがある」ではないような気がする。それよりも、4の「悪い影響を与えない」という方がしっくりくる。そこに、あと6の「控えめに振る舞い、つつましやか」が加わった意味に近いだろうか。

 こう考えると、「やさしい」とは、「人を傷つけないために気を遣い、振る舞う」ということになる。

 人を傷つけないように振る舞うのだから、「やさしい」と思えるような気がする。でも、この「やさしさ」はやっぱり「やさしく」はない。なぜなら、この「やさしさ」には、「やさしくしないと、絶対に許さない!」「もし、傷つけたとしたら、仕返ししてやるぞ!」というような、無言の圧力を感じるからだ。

 ここにある無言の圧力のようなものを、僕たちは「空気」と呼んでいるのではないだろうか? そして、その「空気」を読もうと苦心している。

 だから、やっぱり「優しい関係」は決してやさしいものではない。いや、むしろ名前に反して、厳しい関係だろう。

 

引用・参考文献

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

  • 作者:土井 隆義
  • 発売日: 2008/03/06
  • メディア: 新書
 
「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)