不登校という課題は、日本の教育にとって大きなものである。僕も不登校の子どもや不登校傾向の子どもと対峙している者の一人である。そして、そこで大いに悩んでいる者の一人である。
僕は不登校の経験がない。「学校に行きたくないな」と思っても、それを実際に行動に移したことはない。だから、不登校の子どものことがわからない。これはその子を理解することを諦めているわけではないし、突き放しているわけでもない。本当に理解できないのである。
理解できない、と考えている方がいいのでは、とさえ思っている。その子のことを理解している、と勝手に思っていると上手くいかないだろう。それに理解できていない、と思うからこそ、理解しようと働きかけるだろうし。
さて、前置きが長くなってしまった。今回紹介するのは、不登校について考えることのできる一冊。
タイトルに「コミュニケーション能力」という文字がある。だから、コミュニケーション能力についてのものだろう、と思ったのだがそうではなかった。でも、全く触れられていないわけではない。コミュニケーション能力について考えたい者にとっても有益な一冊であろう。
それよりも、不登校について考えさせられる記述が多くあった。少しになるが紹介する。
不登校やひきこもりという現象には、「学校に行くべき」「仕事をするべき」であることを、本人は十分に分かっていながら、それをしない、できないという特徴があります。
このことは、不登校の子どもから感じていたものである。また、このような言葉を不登校の子自身の口から聞いたこともある。
「本来ならば登校しているべき、働いているべき」とする価値観と、「にもかかわらずそうなっていない自分」という自己認識のギャップは、「そんな自分を否定するだろう社会」への参加をますます遠ざけるのです。
そこには、「社会的でありすぎることによって、社会から撤退する」というパラドックスがあるように見えます。あえて「社会性」という言葉を使うならば、これらの人びとは、「社会性」がないのではなく、むしろ過剰なのです。
「社会性」がないのではなく、むしろ過剰なのです。という記述は、不登校という現象を端的に説明してくれているものであるように思えた。もちろん、どの子もそうだ、とは言えません。しかし、多くの子に当てはまるのでないか、と思います。
この本では、不登校への対処法は示されていない。だが、不登校の違う見方のようなものを示してくれている。不登校を考えたい者にとって有益な一冊には間違いない。