小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

他者と場を共にする意義

 小学校では新学習指導要領が全面実施となっている。そこでのキーワードの一つとして「アクティブラーニング」という言葉があった。それも「主体的・対話的で深い学び」という言葉に取って代わってしまったが。でも、「アクティブラーニング」の考えはつながっているものではある。

 そんな「アクティブラーニング」についてたくさん論じているのが溝上慎一先生である。溝上先生は理論を説明すると同時に、現場での実践も丁寧に見取り論を述べられていた。それがまとまった形になっているのが「学びと成長の講話シリーズ」である。

 そのシリーズの新作が出版され、すぐに手に取って読んでみた。これでシリーズ三作目になる。もし、興味があれば一作目と二作目の書評をご覧ください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

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  今回のテーマは「社会に生きる個性」。そして、副題として「自己と他者・拡張的パーソナリティ・エージェンシー」となっている。この中でも「自己と他者」という視点が僕にとっては興味深かった。

 少しになるが引用しながら述べることとする。

 溝上先生は、他者と対峙することが自己の発現には必要不可欠であることを、スポーツの場面を例にして説明されている。

人の一個存在としての自己を論じるためには異物の進入が必要である。人にとって異物に相当するのは「他者」であり、異物の侵入に相当するのは「他者との対峙(他者性)」である。

たとえば、スポーツの大会で力のある選手に完敗して、「この人はすごいなあ。自分はこの人にはかなわない」と思うとする。ここに、他者(力のある選手)と対峙して発現する自己(この選手にはかなわない自分)を見て取ることができる。他者との対峙があってこそ、人はその他者に対しての自身(自己)を良くも悪くも発現させる。この他者を通して発現する一個存在こそが「自己」と呼ばれるものである。

  なるほど、とてもわかりやすい例であり、説明となっている。「他者」との対峙(比較)を通して、自己は自己を獲得することとなる。つまり、自分一人だけでは自己を獲得することはできないということである。

 このように考えると、学校という場で、多くの他者と場を共にする意義が見出せるのではないだろうか。コロナ禍において、学校という場に集まりわざわざ密の状況を作っているだけではないか、と思われている節もある。しかし、そうではあっても学校という場に他者が集まることの意味があるのだ。このことを学校という場にいる教師自身が持っておかないといけないだろう。

 もちろん、他者が集まるからこそハプニングやトラブルが起こることにもなるのだが。そこにどのように対応していくか、どのように関わっていくのかということにも意義はあると考えているが。

 この他にも教育現場を見て感じたこと等にも触れられている。教師にとって必読の一冊であるというのは言い過ぎではない。是非とも手に取ってみてほしい。