小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

熱心故の弊害

 心ある教師は熱心に指導・支援を行っている。「教師なんて」と言われることは多いが、教師のこのような姿勢が子どもたちの成長を支えている、と思う。もちろん、教師がやり方や考え方をアップデートしないといけない、とも思っているが。
 さて、熱心に指導・支援するということはよいことだ、と思われているだろう。間違っても悪いことではない。ただ熱心故の弊害が生まれていないか、ということに自覚的でありたい、と思っている。
 例えば、私物の教材・教具を教室に持ち込んで指導・支援する。身銭を切って教材・教具を揃える。熱心である。目の前の子どもたちを育てるために必要であると思うからこそ、身銭を切れるのである。
 ここに弊害なんて生まれるのだろうか、と思われたかもしれない。いや、弊害は生まれるかもしれない。私物の教材・教具ということは、その教師が学校を異動等によりいなくなるとその教材・教具もなくなる。そうすると、そこで使われていた教材・教具は使えなくなる。それを使うことで、子どもたちは学べるようになっていたにも関わらず。
 子どもたちは教材・教具が使えないことで、戸惑う。次に担任する教師も、今まで使っていたと知らされる教材・教具がなく、戸惑う。戸惑うだけで済めばいい。時には子どもや保護者から、「昨年まではしてくれていたのに、どうして今年はしてくれないのですか」のように非難されることが起こる。そうなってしまうと、子どもや保護者との関係性が悪くなってしまう。
 熱心故の弊害が生まれるという可能性について、例を挙げながら説明してみた。だからと言って、熱心に指導・支援することを止めるべき、というわけではない。むしろ、止めるべきではないとさえ思っている。ただその熱心な指導・支援を未来へとつなげるという意識を持っておきたい。つまり、自分がいなくなる時のことを考えておくということ。このことを意識するだけで弊害を小さくすることができるはずだ。
 自分のしていることが弊害を生んでいないか、ということに自覚的でありたいものである。