小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ゆとり世代教育論「規律は必要か?」

規律は必要か?

 「規律」と書くと少し重たいイメージを持たれるだろう。他の言葉で言い換えるなら、「秩序」であり、もっと簡単にするなら「ルール」となるだろうか。

 まず、「規律は必要か、必要ではないか?」という、そもそも論から始めてみる。答えは「規律はある程度必要」である。規律がないと無秩序に陥ってしまうことがある。無秩序になった時、統制がとれなくなる。そうなって割を食うのは子どもたちだ。それは子どもたちも理解しているだろう。じゃないと、遊べない。

 例えば、無秩序の中でおにごっこをする。たちまち、「誰が鬼なのか」ということで揉めることとなる。やっと始まったと思った矢先、次は「一人狙いをしていいのか」「挟み撃ちをしてもいいのか」ということ等で揉めることとなる。そんなことをしていては到底楽しむことはできない。だから、子どもたちなりに、そこへ「規律」を持ち込み、遊びを始める。まあ、おにごっこに「規律」とは何だか大層ではあるが。以上からわかるように、「規律はある程度必要」である。

 さて、「『ある程度』とは、どの程度なのか?」というのが、続いて気になることである。「ある程度」というのは、少し緩くということだ。いや、決して規律自体を緩くするということではない。規律に情緒を差し挟んでしまうと、どうしてもブレる。規律自体は誰もが理解でき、納得できるものを追い求める。

 緩くするのは、規律を守るということである。「規律なんだから、守ってもらわなくては困る、いや守るべきだ」というお叱りを受けそうだ。だけど、必ずしも規律を守ることなんてできない。ためしに自分自身の言動を振り返り、考えてみてもらいたい。思い当たる節はいくつも見つかっただろう。だから、子どもたちにも規律を守るということを緩くする。守らせるというより、「守った方が得だな」と思わせる方に近いだろうか。それぐらい緩く構えたい。

 だけど、規律を守れないのを放っておくわけでもない。規律を守れない時は、子ども自身に責任を負ってもらわないといけない。それとは別に、どうやったら規律を守れるか、その規律は本当に必要なのか、ということも考えさせたい。それは、その子―個―に考えさせることもあるが、この子たち―集団―に考えさせることを大切にしたい。ある規律が学級に必要な規律であるかどうか、しっかりと確認(相互承認)できるシステムが用意されていることが、学級に存在する規律の最も重要な本質である、というわけだ。

 「ルール(規律)は守るためにある」「ルール(規律)は破るためにある」という言葉がある。これはどちらも正解であり、どちらも間違っている。規律は守らないといけないけど、守れない時もある。規律自体がおかしければ、作り直し、守れるようなものにする時もある。このように規律というものを捉えている。

 

主体性を掘り起こす

 主体的に物事に取り組む必要がある、ということは今に始まった話ではない。だが、新学習指導要領でも謳われているように、子どもたちの「主体性」を育むということは大切なものである。

 以下に少々長くなるが「主体性」についての記述の引用を行う。

 

予測できない未来に対応するためには、社会の変化に受け身で対処するのではなく、主体的に向き合って関わり合い、その過程を通して、一人一人が自らの可能性を最大限に発揮し、よりよい社会と幸福な人生を自ら創り出していくことが重要である。

これからの子供たちには、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働しながら新たな価値を生み出していくことが求められる。

「教育課程企画特別部会 論点整理」文部科学省・2015/08/26・p2より一部抜粋

  

 この記述からわかるように、新学習指導要領の改訂は、学校の中で完結する話ではなく、社会の変化から端を発しているのである。他にもAIの発達、グローバル化、高度情報社会の到来等。枚挙に暇がないので、この辺で止めておく。だから、「社会に開かれた教育課程」とも謳われているのである。

 では、子どもたちに「主体性を持ち、物事に取り組みましょう!」と話し、子どもたちの主体性が発揮されるかと言うと、そんな簡単な話ではない。なぜなら、「主体性を発揮する」ということはリスクを負うということにもなるからだ。

 主体的に物事に取り組むということは、自分で行動を選択し、物事に取り組むことになる。そこでは、成功や失敗は当然ある。その結果を誰が責任を持ち、引き受けるのだろうか? それは、誰でもなく自分だ。だって、自分がその行動を選択したのだから。つまり、「主体性を発揮する=結果のリスクを負う」と、言い換えることもできる。それは、子どもたちも理解しているだろう。だから、なかなか主体的に物事に取り組むことができない。

 もちろん、主体的に物事に取り組むことができない理由は他にも考えられる。「適度な自尊感情の欠如」「失敗を学習した」「主体的に物事に取り組む雰囲気がない」等。いろいろな要因が絡み合っている。

 しかし、やはり子どもたちに「主体性」を育まないといけない。それは上記した通りだ。そうでないとこれからますます困難になる未来で物事に対峙することができない。

 だけど、ここで気をつけないといけないことがある。子どもたちに「主体性」を育てようとすることで、子どもたちの「主体性」を奪ってしまうことになるかもしれないということだ。子どもたちに「もっと主体的に行動するよう」と求める。そうすると、子どもたちは必死に僕の言葉を守ろうと努力する。しかし、「僕の教えに忠実に」なればなるほどその行為は定型的になっていく。僕の教えを守ることに拘泥し、そこから逃れられなくなったからである。そこで、僕はそれを指摘し、もっと自分自身の頭で考え、主体的に行動するよう求める。すると、僕に批判されないために、ますますぼくの言葉にがんじがらめになっていく。つまり、「主体的であれ」という言葉が、主体性を阻む「呪いの言葉」になっているのだ。

 このような光景は多くの教室で見られるものであろう。子どもたちの「主体性」を、自分自身の言葉で縛っているかもしれない、という自覚は持っておきたい。

 以上のように考えていくと、「主体性を育てる」というのは少し違うのではないか、と思う。子どもたちが元々持っている「主体性を発揮」できるようにすることこそが肝要ではないだろうか。つまり、「主体性を育てる」のではなく、「主体性を掘り起こす」ということ。

 だったら、教室で用意できることは、「主体的に物事に取り組むことができる環境」である。子どもたちが、トライ&エラーを認める・できる環境を。そこでは、子どもたちにすべてを預け、放任するわけではない。子どもたちの自己決定を尊重しながら、適切にフィードバックを行いたい。

 

引用・参考文献