小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

体験することを考える

 少し古い記事にはなるのですが、僕が目にしたのが最近なのでそこはご容赦ください。

 読んだ記事は、野口晃菜さんの個人ニュースのもの。簡単にニュースの内容を説明する。日本人は差別はよくないと思っているが、自身の周囲に障害者施設ができるのは反対する割合が大きい。差別をなくしていくためには、障害理解や障害について啓発だけでなく、日常的に関わり合う機会を設け、感情的に理解する場面を多くすることが必要。これはあくまでも、僕が簡単に説明しただけなので、詳しくは一読していただけると幸です。

news.yahoo.co.jp

 この記事で述べられているように、日常的に関わり合う機会を設け、感情的に理解する場面を多くすることが必要ということは大いに賛成である。体験を通し、自分の持っている差別や偏見の芽のようなものを自覚し、それを改めていく営みが必要だろう。それは自分の経験を振り返ってみてもそうだと思う。

 障害者理解となると、一般の小中学校では交流及び共同学習が行われる。よって、少なくとも学校という場で関わり合うという体験をすることになる。しかし、上記の記事にもあるように、その体験が良い方向へと作用していないように思う。ここで考えるのは、体験するだけではなく、その体験からどのようなことを学ぶというか教訓を得るというプロセスが必要なのではないか。つまり、より良い体験にするにはどうしたらいいか、ということ。

 さて、体験することが大切であるということは大切だと思っているが、一端横に置いておく。体験することは大切であるが、しかしすべてのことを体験することは不可能である。もう少し言うとすべてのことを直接体験することは難しいだろう。そこで、間接体験や疑似体験も行うことになる。むしろ、直接体験より多くなっているのではないだろうか。例えば、記事にもあるパラリンピック等。しかし、それがより良い方向へと作用していない。

 このように考えると、より良い方向へと作用するためにはどのようなことが必要になるだろうか。僕の今の考えでは他者への想像力が重要なのではないか、と思っている。しかし、まとまった考えではない。であるが、何となく確信を持っていることでもある。

 ここで浮かび上がってきた問いを確認する。①体験することは大切であるので、より良い体験にするにはどうしたらいいか。②他者への想像力を育むにはどうしたらいいか、またその想像力とはどのようなものなのか。

 記事を読んで考え、自分の中にぐるぐる渦巻いているものを言語化してみた。もし、何か思うことありましたら、是非とも教えてほしいです。