小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

価値を見出せる条件

 以前、「価値づける」ことには、自分なりに意図を持って行っているが、「洗脳」という側面があるのではないか、という考えを述べました。今回はその続きです。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 教師が価値づけることは洗脳という側面がある。そうならば、子ども自身が価値を見出せることができれば、洗脳という側面は薄まるのではないか、と思う。

 このように考えるならば、子どもが価値を見出せる条件は一体何だろうか、と考えみた。それには三つの条件があるのではないか、と考えた。

 一つ目の条件は、「子どもが価値を見出すのを待つ」ということ。

 子どもが価値を見出すのには時間がかかる。こちらが意図していることや見出して欲しい価値に気づくことは簡単ではない。もちろん、集団の中にはすぐに気づく子もいるかもしれない。しかし、それはあくまで集団の一部であり、集団全員ではない。その時、僕はついつい話したくなります。例えば、「みんなは気づいていないけど、○○ということが大切なのです」というような感じで。これでは、子どもが価値を見出すにはならない。

 よって、「待つ」ことが大切になる。ただ待つだけ、これだと簡単に思えるかも知れません。だが、これは決して簡単なことではない。何しろ、待ったところで「子どもたちが価値を見出す」という保証はないのだから。子どもが価値には気づかないままになってしまうかもしれない。それでも、「待つ」以上にできることがない、と思う。対象―子ども―をコントロールしないということが、「待つ」ことの本質である。「待つ」とは、対象―子ども―が主体的に在ることを尊重し、こちらが決してそれを操作しようとしないことである。ですから、子どもたちが価値をいつ見出すのかということについて、教師が意図的な方向づけを行ったりせずに、ひたすらに待つことが肝要になるだろう。

 二つ目の条件は、「子どもたちが価値を見出せる場を設定する」こと。

 前項で述べましたが、子どもが価値を見出すのを待つ。しかし、ただ闇雲に待っていても、子どもたちが価値を見出すことができるようにはならない。やはり、子どもたちが価値を見出す場を設定する必要がある、と考える。つまり、子どもたち自らが自分で考える場と時間をいかに確保するかということとなる。

 考える場と時間とは、振り返りの場と時間である。とりわけ、「書く場と時間」が大切だと考える。学習の課題に対して、一人で書く場面を設定する。さらに、学習の途中や最後で、一人で書く場面を設定する。その時、自分の考えと友達の考えと比べて書き直すことになるだろう。そこで、子どもたちが価値を見出すことができていたら、それを取り上げ「価値づける(フィードバック)」。これこそが、目指したい「価値づける(フィードバック)」ということになる。

 三つ目の条件は、「一つの価値だけを押しつけないようにする」こと。

僕は、準備すればするほど、そこで意図したものを子どもに届けたい、という思いが強くなってしまう。これは決して悪いことではない。しかし、子どもたちにとっては決して良いということばかりではない。時には害悪にさえなることもある。

 現在の社会は「多様化社会」とも呼ばれています。学級を見渡しても、確かに「多様化」している。そして、教師はそれに頭を悩ませている。僕もその一人である。しかし、これは教師側の論理であり、子ども側では、ただ思った通りに感じ行動しているだけで「別に何も困っていませんけど」といった様子にも見えます。つまり、「この価値を見出して欲しい」というのは教師の論理であり、「自分はこの価値を、自分が思うままに見出した」というのが子どもの論理ということになる。

 もちろん、全員にこの価値を見出せないといけない、ということはあると思う(人を傷つけてはいけない等)。それはそうなのですが、価値を見出すのは子ども、と考える。そうするならば、見出される価値が一つだけになるということはまず無い、と肝に銘じておかないといけない。そして、見出して欲しい価値に誘導ばかりしていると、子どもたちが価値を見出すという場から遠く離れていってしまうだろうな、と思う。

 以上、僕が考える「子どもたちが価値を見出せる条件」を書いてみました。どう感じられましたか?