小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

教室における大切な価値①

 今さらながら一学期の振り返りをしてみる。教室で授業で何を大切にしたいのか、ということを子どもたちと共有した。

 共有したというのはポジティブ過ぎる表現な気がする。指導したという方が適当かもしれない。
 とにかく、自分が意識して指導したことを振り返ってみる。
 
①「わからない」は良いもの
 子どもたちにとって授業の中で「わからない」ことはどうしても出てくる。しかし、それを素直に「わからない」と言うのは抵抗が大きい様子も見られる。
 子どもたちの中には先行学習に取り組んでいる子もいて、その子たちは学習内容を既にある程度理解している。よって、授業の中での発言も多くなる。そんな姿を目の当たりにして「わからない」と言うのは難しくなっていくのだろう、と推察している。
 しかし、その「わからない」というのは当たり前にあるものでもある。子どもたちは毎日のように新しい学習内容を学習するからだ。よって「わからない」は当たり前なのである。
 その「わからない」に対して肯定的な見方を意識したい。それは教師もそうであるし子どもたちもそうである。
 というわけで「わからない」が出てきたら肯定的な言葉かけを意識した。「わからないはいいことだよ」「わからないと素直に言えることで成長のチャンス」のように。
 蒔田晋治『教室はまちがうところだ』の絵本のように、「わからない」は当たり前ということをまずは強調して浸透させた。
 
②「わからない」を支える
 先程述べた「わからない」というのは、教師や仲間がその「わからない」にどのような態度を取るかが大きく影響する。
 「わからない」ことに対して否定的な見方をすると、当然「わからない」を出そうとしなくなる。
 よって「わからない」ということを支えるように意識した。
 先程述べたように「わからない」に対して肯定的な言葉かけをするのも一つである。
 それだけでなく、子どもが出した「わからない」が授業を経て「わかる」ように変わることを意識している。もちろん、子ども自身が「わかる」と思ってもらわないとこれは達成できない。
 野口芳宏先生は子どもの「向上的変容」が見られれば学力が形成されたことになる、ということを述べられている。教師として、子どもの「わからない」が「わかる」に変容することを目指さないといけない。
 とは言え、必ず子どもが「わかる」ようになることを1時間では目指さない。必ずと思って教師が躍起になったところであまり良いことは起こらない。そのため単元で「わかる」を考え、何なら学年で「わかる」を考えている。もっと言えば、生涯で「わかる」を考えている。
 しかし、そのことを盾にして子どもが「わからない」ままでもよい、とはしないように気をつけている。
 閑話休題。「わからない」を支えるということに戻ろう。
 授業で子どもが「わからない」を出して、授業を経て「わかる」となる。
 そこで、「○○さん、わからないと言っていたけど、そのことで他の子から何か言われたり嫌なことされたかな?」と問う。
 その子は首を振ったり、「いいえ」と簡単に答える。
 そして、「わからないと言ったことをバカにする人はここにはいないよね、だから素直にわからないと言ってね」と全体を見渡しながら話す。
 ちょっとくどいというか芝居がかっているように思うが、全体に「わからない」を支えるという共通理解を広げるために行った。
 
 二つの項目だけでけっこうな量になってしまったが、まだまだある・・・。書き終わるのがいつになるか不安であるが、また少しずつ書くこととしよう。