小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

引き継げるもの、引き継げないもの

 この時期、学校の至る所で引き継ぎを行う様子を目にする。また、近年特別支援教育の推進の一環として、学校現場では「個別の指導計画」や「配慮が必要な子への対応」等を作成している。それを基にしながらの引き継ぎ、情報共有もされる。これらのことは極当たり前のような風景となっている。

 そんな引き継ぎ。「どんな引き継ぎがよいか」と問うのではなく、「どんな引き継ぎだったら、僕は必要なかったな…、と感じるだろうか」と問うてみようと思う。

①形式的過ぎる

 家庭環境や障害種別や学習の理解度だけを伝えられる引き継ぎは必要ない。いや、もちろん大切な引き継ぎ事項の一つではあるのだが。それだけだったら、資料を読めば事足りる。だけど、こんな引き継ぎもけっこうある。これだったら、担任していた教師に聞かず、保護者や本人に聞く方が多くの情報を得られることになる。

 学校は「多忙」であるとよく言われるし、よく言う。だけど、上記したような「活きていない時間」を多く生み出してしまっている自分たち自身の時間の使い方にも目を向ける必要があるだろう。

②指導・支援の具体的な描写がない

 引き継ぎを行う時、指導・支援の具体的な描写がある話が少ない。どちらかと言うと、子どもの現在の実態について、変わってきたことについての話が多い。これだけでも、子どもの様子はだいたい把握できるのだが、やはり弱いなと思う。指導・支援の具体的な描写を引き継いでおかないと、子どもたちに効果のない指導・支援を繰り返すことにも繋がってしまう。また、具体的な指導・支援は、その教師の心象風景の現れでもある。つまり、具体的な指導・支援を通し、その教師の考え方や採用している理論が見えることにも繋がる。

 また、力量の高い教師の方にありがちなパターンとしては、「何もしていない」とうそぶく(笑)。確かに何もしていないのかもしれないけど、自身の潜在的教育効果や子どもの発達に無頓着では、次の担任としては困ってしまう。次の担任が過剰に自身や子どもたちを責めることになるかもしれない。だからこそ、指導・支援の具体的な描写を語ってほしい。

③想いが大き過ぎる

 手前味噌ではあるが、教師は真面目である。引き継ぎの場での話を聞いていると、「子どもとの関係を丁寧に積み重ねているな」と感じられる。もちろん、全ての関係が教師や子どもたちにとって良いものでもないのだけど(笑)。小学校では一年間、ほぼ毎日多くの時間を子どもたちと過ごすことになるから当然と言えば、当然かもしれないが。

そんなに長い時間を過ごすから、子どもたちの親や兄姉の感覚を持つようになる。だから、子どもたちに少しくらい不条理な要求もできるし、他人なら絶対にかけないような深い情をかけることができるようになる。これが多くの教師が持っているメンタリティである。

 だけど、このような想いが大き過ぎて、図らずも子どもたちに辛い思いをさせることも多くある。それは、教師同士でもある。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という言葉の通り、子どもへの想いも程々にしないとズブズブになってしまう。まあ、この程々を感じ取るのがかなり難しいのだけど。

 以上の三点が「どんな引き継ぎだったら、必要なかったな…、と感じるだろうか?」という問いへの、僕なりの回答である。

 つまり、引き継ぎを行う時に気をつけることは、「子どもの実態、指導・支援の具体的な描写、自分自身の想いのバランスを考える」ということとなる。

 三つのバランスを考えるけれども、やはり自分自身の想いを語るというのが、僕の中では一番大切ではないと考えている。全く語らないということはないけど、あまり語らない。なぜなら、想いは引き継げないからだ。もちろん、次の担任が全く想いを引き継いでくれない、とは思っていない。次の担任は間違いなく自分自身ではない、他者である。だから、自分の子どもへの想いを次の担任に全て引き継げない、と考えている。