小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ポスト・コロナの学校現場㉝「不安をケアする」

  前回の「ポスト・コロナの学校現場」の記事の中で、以下のようなことを書いた。

不安な日々を過ごしているであろう子どもたちをケアするということも忘れてはいけないだろう。

  書いたものを見返して思ったのだが、なかなかいいことを書いている、と(笑)。

 緊急事態宣言は二度目となるし、新型コロナウイルスの影響を受けた生活にも慣れてきている。確かに目に見えて混乱している様子はない。でも、それも一時のことかもしれない。また、目に見える形になっていないだけ、なのかもしれない。だからこそ、前回に書いたように「不安をケアする」という視点は大切になるだろう。

 思い返してみると、マスクやトイレットペーパーの買い占め、感染者への偏見・差別、必要以上に政府等の公的機関への罵詈雑言という現象が起こった。これらは現在もある。そして、これらが起こる原因が「不安」である。

 自分自身の中に芽生えてしまった不安というものからは、なかなか逃れることができない。むしろ、その不安が心に巣くう。やがて、不安に絡み取られてしまう。そうなると、上記したような「人間らしさ」から遠い言動を行ってしまう。

 現在は新型コロナウイルスを防ぐために、三密の回避、マスクの着用等が定着してきている。パーフェクトとまではいかないが、ある程度の安全は確保できる。しかし、安心感はまだ得られていない。いつ何時どうなってしまうか、という不安は付きまとう。もちろん、それは教師だって大人だってそう。みんな不安な中にいる状態だ。

 だからこそ、繰り返しになってしまうが「不安をケアする」という視点は忘れずに大切にしたい。安全に努めているから大丈夫だろう、と過信しないように気をつけなければ。

 

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「話し合い」指導の必要性

 国語科は大きく「話す・聞く」「書く」「読む」という領域にわかれる。そして、どれかと言うと「読む」ことに力を入れ過ぎてしまう。個人的には、「話す・聞く」領域の学習を疎かにしているように感じていた。そこで、「話す・聞く」の指導を自分なりに考えていきたい、と思うようになった。

 そこで、手に取ってみたのが今回紹介する一冊。

 社会は多様化してきている、という主張をよく耳にするようになった。そのような社会状況の中でコミュニケーションを図らないといけない。だから、お互いわかり合えないかもしれないがコミュニケーションを図り、できるだけ合意することを追究しないといけない。だからこそ、学校教育の中で「話し合い」指導をする必要がある。

 そのためには教材研究が必要になるし、子どもたちへの指導する順番等を考えないといけない。その助けになる一冊となっている。具体的な教材研究の手順等が掲載されており、実際に「話し合い」指導に取り組もうと考えている者にとっては必読の一冊となっている。

 また、著者は「話す・聞く」についての実践を多く提案されている。「話す・聞く」の授業を考える際に参考にしてみることをおすすめしたい。

ポスト・コロナの学校現場㉜「緊急事態宣言、再び」

  新型コロナウイルスの感染が、首都圏を中心に全国的に拡大してきている。そのため、一都三県に緊急事態宣言が発出された。そして、この緊急事態宣言は一都三県で終わらず、他の都道府県にも広がりそうである。

 緊急事態宣言は発出されたが、学校の一斉休校は今回はされなかった。いや、検討されなかったわけではなかっただろうが、すぐに決まったことだろう。それぐらい、前回の一斉休校はインパクトがあったのだろう。そして、学校という場の必要性が改めて認識されたのであろう。それは学校現場にいる者としては嬉しい。

 しかし、喜んでばかりはいられない。緊急事態宣言下でも学校を開くということは、より感染リスクが高い状態にさらされているということだから。これまで通り、新型コロナウイルスの感染拡大防止の取り組みを続ける。

 また、新型コロナウイルスに罹患する子どもやその保護者への対応も増えることとなるかもしれない。この「ポスト・コロナの学校現場」で記事にもしたが、新型コロナウイルスによる差別・偏見を退けていかないといけない。

 そして、不安な日々を過ごしているであろう子どもたちをケアするということも忘れてはいけないだろう。学校に来ている時に、少しでも笑顔になれる時間をつくりたい。これは新型コロナウイルスがあるから考えるわけではないのだけど、より意識したいことである。ここで忘れがちになるのが、教師としての自分の不安なことや隣にいる同僚の不安なこと。僕たちだってこのような状況で学校は開いているという不安はある。それを共有し、互いに考えるという姿勢は崩したくない。

 今回は学校現場で起こっていることや考えたことというよりは、新たな決意表明のようなものになった。

 

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雪を見ると

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 冬型の気圧配置が続き、寒い日が続いています。全国的に雪が降るぐらいの寒さになっています。その影響により、大きな被害を受けている地域もある。もう少し和らぐといいのだけども。

 さて、そんな雪ですが、みなさんは雪を見るとどのような反応をしますか?

 僕は、雪を見る、雪の予報を知ると「交通機関は止まらないかな」「明日は休みになるかな」「寒くて大変そうだな」等の反応を示します。つまり、ネガティブな反応を示す、ということです。

 しかし、子どもたちはこのような反応は示さない。雪を見る、雪の予報を知ると「雪が積もるかな」「明日は早く行って遊ぼう」「寒さなんてへっちゃら」等の反応を示します。つまり、ポジティブな反応を示す、ということです。

 雪への反応の違いに気づき、大人になったな、と感じた。大人になったというよりは、大人になってしまったというのが正確な表現かもしれない。

 でも、大人になるのも悪いわけではない。大人だからこそ、そんな雪を見ながらお酒を呑むことができる(笑)。大人ならではの新しい雪の楽しみ方を見つけつつある。

ゆとり世代教育論「『空気』を読む」

「空気」を読む

 「KY」という言葉が流行した。この言葉の意味は、「空気が読めない」である。僕たちゆとり世代は「空気を読む」という行動を当たり前のようにしている。いや、今や誰にも「空気を読む」という行動は標準装備されている。

 さて、僕たちは、なぜ「空気」を読もうとするのだろうか? それには、社会の変化が大きく影響している。

 現代は「相対主義」の時代。つまり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。決まった答えが見つけにくい時代とも言い換えることができる。よって、いろんなことへの「答え」がより細分化され、一つに定まりにくくなっている。一方で、一人ひとりが自分らしく生きるべきだ、という考え方も広まっている。

 しかし、なかなか「自分はこれでいい」と、自信を持って思えない。そのため、僕たちは身近にいる他者の直接的な承認にすがるようになる。自分が進むべき方向についての迷いを払拭するため、周囲からの反応を絶えず探り、それを自分の羅針盤とせざるを得ない。その結果、他者から与えられる承認の比重が増し、それを得られるかどうかが不安の源泉となる。このような事情により、僕たちは「空気」を読もうとするようになった。

 そんな「空気」を読もうとする僕たちは「とりあえず食事とかする?」「ワタシ的にはこれは決めた、みたいな」といった「ぼかし表現」を駆使し、相手との微妙な距離感を保つことに苦心するようになった。

 こんな対立の回避を最優先にする僕たちの人間関係を、社会学者の土井隆義は「優しい関係」と呼んだ(土井、2008)。

 土井は、上記で論じたような、不安定な現代を生きる術としての「『空気』を読む」ことに理解を示しながら、「『空気』を読み過ぎる」ことへの懸念も表明している。

内部の人間関係に対するその過剰な配慮は、外部の人間関係に積極的にコミットする意欲を失わせ、集団の孤島化をさらに推し進める。集団の孤島化がコミュニケーションへの没入をもたらし、それが集団の孤島化をさらに進め、それがまたコミュニケーションへの没入を深めていく。

 この負のスパイラルとも言える状況に陥ることとなっている。だったら、このスパイラスから一歩踏み出し、外へ出ればいいのではないか? と思われるだろう。でも、このスパイラルから飛び出すことは大きなリスクが伴う。上記したように、「相対主義」が広く行き渡っているから。だから、なかなかこのスパイラルに歯止めがかからない。

 

二つの空気

 さて、ここで問題となっている「空気」とは一体何だろうか? もちろん、約8割が窒素、約2割が酸素で組成されている気体のことではない(笑)。僕は、この空気には二つの種類がある、と考えている。

 一つは「全員一致」の空気。この空気は、「その場を支配している人間(たち)の意図」を理解することを求める。よって、誰もが以心伝心を求められることとなる。だからこそ、「空気」と呼ばれる不確かなものが神聖化され、「空気」を読めなかった者、「空気」を壊した者は「反『空気』罪」とでも呼ぶべき犯罪があるかのごとく叱責され排除されることとなる。

 だけど、やっかいなことに、この空気について誰も説明してくれない。説明を求めたとしても「そんなこと、言わなくても分かれよ」と突き放すか、「言葉で、いちいち説明できないものなんだよ」と不可能を強調する。この何が何だかわからない空気に、僕たちは苦しむことになる。

 もう一つは「一人ひとり」の空気。この空気は、「その場にいる人間たちが一人ひとり違うようにある」ことを求める。よって、誰もが自分のキャラを持つことになる。しかし、このキャラというものは自分が持ちたい、と思うキャラを持てるとは限らない。

 なぜなら、キャラは周囲との関係で決まってくるものだからだ。しかも、もしもまったく同じキャラがどこかで見つかれば、取り換え可能ということになる。つまり、同じキャラの登場は、集団内での自分の居場所が危うくなる。だから、僕たちは、他人とキャラが重なってしまうことを「キャラかぶり」と称し、なるべく回避しようと細やかな神経を使うのだ。

 以上のような、二つの空気を読みながら、僕たちはコミュニケーションを図っている。

 こんなゆとり世代の僕たちを見て、大人たちは「空気なんて読まずに生きろ!」「そんな集団から飛び出し、一人で行動するのだ!」等としたり顔で語る。だけど、僕たちは「空気を読む」ということを知ってしまった。もう手離せない。

 

本当にやさしいのか?

 社会学者の土井隆義が述べる「優しい関係」を取り上げた。「優しい関係」とは、対立の回避を優先にする人間関係のことだ。

 ここで、改めて考えてみたい。この「優しい関係」って、本当にやさしいのだろうか?

 「やさしい」という言葉の意味は、辞書では以下の通りである。

1 姿・ようすなどが優美である。上品で美しい。

2 他人に対して思いやりがあり、情がこまやかである。

3 性質がすなおでしとやかである。穏和で、好ましい感じである。

4 悪い影響を与えない。刺激が少ない。

5 身がやせ細るような思いである。ひけめを感じる。恥ずかしい。

6 控え目に振る舞い、つつましやかである。

7 殊勝である。けなげである。りっぱである。

 「優しい関係」にぴったりの意味は、よく使われるであろう、2の「思いやりがある」ではないような気がする。それよりも、4の「悪い影響を与えない」という方がしっくりくる。そこに、あと6の「控えめに振る舞い、つつましやか」が加わった意味に近いだろうか。

 こう考えると、「やさしい」とは、「人を傷つけないために気を遣い、振る舞う」ということになる。

 人を傷つけないように振る舞うのだから、「やさしい」と思えるような気がする。でも、この「やさしさ」はやっぱり「やさしく」はない。なぜなら、この「やさしさ」には、「やさしくしないと、絶対に許さない!」「もし、傷つけたとしたら、仕返ししてやるぞ!」というような、無言の圧力を感じるからだ。

 ここにある無言の圧力のようなものを、僕たちは「空気」と呼んでいるのではないだろうか? そして、その「空気」を読もうと苦心している。

 だから、やっぱり「優しい関係」は決してやさしいものではない。いや、むしろ名前に反して、厳しい関係だろう。

 

引用・参考文献

友だち地獄 (ちくま新書)

友だち地獄 (ちくま新書)

  • 作者:土井 隆義
  • 発売日: 2008/03/06
  • メディア: 新書
 
「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

 

大泉節炸裂!

 僕の好きなタレントの一人が大泉洋だ。押しも押されぬ俳優として知られるようになっている。だからか、昨年の紅白歌合戦の鹿にも抜擢された。評判も上々で、今年の司会も期待される。

 そんな大泉さんではあるが、僕としては「水曜どうでしょう」の大泉洋というイメージが強い。というか、大泉さんとの初遭遇は「水曜どうでしょう」だった。

 そんな大泉さんが、いくつもの媒体で書き散らしてきたエッセイを一つにまとめたものがある。それが『大泉エッセイ』である。今回はそのエッセイから、僕が気になった文章を紹介する。

誰かが言いました。

「世の中は変化だけが不変だ」と。

何事も変わっていくのです。そうなると大事なことは、「その時何を信じて生きているか」ということ、そしてもう一つ、「信じるものをどれだけあっさり見直せるか」ということだと思うのです。その方が人生は何倍も楽しいと思うのです。自分一人で何人分もの人生を送れるんじゃないでしょうか? 「そんなことはできない」を次の瞬間には「ちょっとやってみよう」と思えれば、世界の見え方が全く違ってくるはずなのです。やれない事ではないはずなのです。

「できない」って思ってるのも自分だし、「できる」って思うのも自分なわけですから、自分でそう思う分には簡単なはずなんですよね。

  新型コロナウイルスの影響で生活は大きく変化させられている。でも、大泉さんが書いているように「世の中は変化だけが不変」なのではないだろうか。今回はいきなり大きな変化をもたらしたからこそ、混乱が大きかったのだけど。

そこまで私が娘と過ごしたいと思うもう一つの理由。それは、

その記憶をほとんど娘は忘れてしまうからだ。

私がオムツを換えてあげたことも、私がお風呂に入れてあげることも、私と一緒に公園の遊具で毎日遊んだことも、雨の日に傘をさしてお散歩したことも、雪の中で転げ回って遊んだことも、うちで「おままごと」をしたことも、眠い目をこすって絵本を読んだことも、私と結婚すると言ったことも、おそらく彼女は忘れてしまうのだ。それは当たり前のことで、私にだって三歳の記憶は残っていない。

だからと思うのである。彼女が覚えていられない分、私たちが覚えてなければと思うのだ。私と妻は彼女が小さった頃、こんなに楽しかったんだよと教えてあげる義務がある。そして少しでも長く覚えてられるように、とことん楽しい思い出を家族で作らなければならないと思うのである。

  正月に両親の元を訪れると、昔の写真を見せられたりして昔話に花が咲く。今年はなかなかそれは難しかったのだが。それを恥ずかしくというか、うっとうしがっていたのだけど、この大泉さんの文章を読んで反省した。自分が覚えていないようなことを、両親は覚えてくれ、それを残してくれているのだ。「親の心子知らず」とは正にこのことである。

 いかがだったであろうか。みなさんにも引っかかるところがあっただろうか。もし、あったのなら是非とも手に取ってみてください。また、藩士の方にとっては「水曜どうでしょう」についての話も読むことができるので必見ですよ!

一年の計は元旦にあり?

 2021年になりました。みなさん、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。まだまだ、新型コロナウイルスの影響が、大きな一年になりそうですが、ぼちぼちやっていきましょう。

 

 さて、年が明けると何だかいつもより気が大きくなりがちです(笑)。何となく何でもできる気になっている自分に気づく時があります。

 そんな思いを表している言葉が「一年の計は元旦にあり」というものだ、と思います。

 「一年の計は元旦にあり」という言葉の意味は、「一年の計画は年の初めである元旦に立てるべきであり、物事を始めるにあたっては、最初にきちんとした計画を立てるのが大切だということ。」です。これには異論ありません。

 というわけなのですが、みなさんは何かしらの計画を立てましたか? 僕は立てていません(笑)。

 元旦は確かに特別感のある日ではあります。しかし、教師にとっては冬休み期間であり、ただただまったりできる日であり、それ以上ではありません。

 教師にとっての元旦は、僕は4月1日ではないか、と思っています。異動先が決まり、担当する学年や校務分掌が決まってきます。そうすると、やっと計画を立てられる、と思っています。だから、僕は「一年の計は元旦にあり」を無視し、まったりと過ごしています。

 もちろん、計画を立ててビシッと計画を立てられている方は、素晴らしいなとは思います。僕にはできませんが…。

5000PV達成!

 いつも当ブログをご覧いただきありがとうございます。みさんのおかげで、先日5000PV達成しました。

 最近はちょこちょこと閲覧数が伸びる日が増えてきていて、僕としては嬉しい限りです。駄文を書き連ねているだけなのですが、みなさんの反応があると、とても励みになります。ありがとうございます。

 今年のブログ更新は今回が最後となります。来年は三が日が終わってからゆるりと始めたいと思っています。来年もよろしくお願いします。

 では、みなさんよいお年をお迎えください。

本好きの夢

 僕は辻村深月が好きだ。辻村深月の作品を読んでいると自分が言語化できていないけど思っていることや感じていることが、見事に言語化されていることに気づくことがある。そのような記述に出会うと大げさでもなく体がブルっと震え、鳥肌が立つ。だから、辻村深月の作品を読むことは止められない。

 そんな辻村深月の作品の中で、今回紹介するのがエッセイ集の『図書室で暮らしたい』。この題名には、本好きの夢がつまっている、と思っている(笑)。僕は実際にそう思っている節がある。いや、もちろん家の居心地がよいと思うのだろうけど。一度でいいから本に囲まれて寝てみたい(笑)。

 いくつものエッセイや辻村深月による自作解説が掲載されている本書。辻村深月ファンにとってはたまらない一冊となっている。

 さて、この本の中で僕が気になった記述を引用する。

ようやくグアムに到着し、通路で飛行機から降りるのを待つ間、前後に乗っていたお客さんに、「うるさくしてすいませんでした」と頭を下げた。謝る、というのも、それはそれで「謝ったから許してください」という気持ちを押しつけるような気がして、躊躇いながら、それでもいたたまれなくて、謝った。

  僕は口癖のように「すいません」と言う。だけど、それは「謝ったから許してください」という気持ちを押しつけているだけなのかもしれない、と思った。それは結果として、謝るということにはなっていない。だけど、僕としては「すいません」と言わないわけにはいかない、と思い口にしている。だから、難しいな、と思った。

 エッセイ集なので、気軽に読むことができるので、年末年始のお供にいかがでしょうか。文庫本の装丁はきれいで素敵なものとなっている。でも、単行本の「THE図書室」のような装丁も素敵なものなので、そちらも是非チェックしてもらいたい。

図書室で暮らしたい (講談社文庫)

図書室で暮らしたい (講談社文庫)

  • 作者:辻村 深月
  • 発売日: 2020/10/15
  • メディア: 文庫
 

ポスト・コロナの学校現場㉛「長い二学期」

  例年よりも長く感じる二学期となった。

 臨時休校の学習の遅れを取り戻すことを目的とし、夏休みは短縮された。つまり、二学期が例年よりも長くなった。また、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、学校行事が縮小・中止となるものがあった。

 ということで、学習する時間がより長い学期となった。そのおかげなのか? 学習の遅れは取り戻し、たいていの学年は早々と二学期までが標準とされている学習範囲を終えることができていた。学校行事がないと学習は余裕が出るのだな、と思ってしまった。

 だから、よかったな、と思っていいのかわからない。学習の遅れがなくなったというのは悪いことではないだろう。しかし、それが子どもたちの育ちにつながったのかは見極めないといけないだろう。多くの学校行事がなくなった、歪みのようなものは生まれていないだろうか。

 でも、長い長い学期をとりあえず無事に乗り切ることができたということを喜びたい。それは、教師はもちろんだが子どもたちも。まだまだ予断は許さない状況であるには変わらないのだけども。それでも、子どもたちの「学びを止めない」ようにとできることは行ってきたつもりである。

 そのことを振り返り、来る三学期に備えたい。みなさんお疲れ様でした。ゆっくりしましょう。

 

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デスマッチファイターは致命傷を負ってはいけない。リングを降りてもきちんと歩いて普通に帰る。

デスマッチファイターは致命傷を負ってはいけない。リングを降りてもきちんと歩いて普通に帰る。(by竹田誠志)

 

 デスマッチファイターとして第一線で活躍している竹田誠志の言葉。これは、先日書評を書いた『インディペンデント・ブルース』の中で見つけたものである。その書評もよければどうぞ。

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  竹田の言葉には続きがある。せっかくなので全文引用する。

デスマッチファイターは致命傷を負ってはいけない。リングを降りてもきちんと歩いて普通に帰る。そこまでしないとデスマッチじゃない。試合でケガをして病院にいくとなると『あっ、やっちゃったな』とちょっとへこむんです。そうじゃないと誰でもデスマッチできるじゃないですか。以前はよく『死ぬくらいやってやる』なんて言っていたんですが、葛西さんに『生きるためにデスマッチやるんだよ』って言われて。そこで考えが変わったんです。ケガをしないのが一流のデスマッチファイターなんです

  デスマッチでよくある見た人が驚くようなことは誰でもできるということだ(いや、誰でもできることではないのだが)。しかし、そこでケガをしてしまってはいけない。ケガもせず驚くことをする。それがプロフェッショナルということだ。

 この言葉を教師に当てはめてみるとどうなるだろうか。

 教師は教え込んではいけない。子どもたちの考えを無視してただ教えるのではなく、子どもたちが考えるような授業をする。そうじゃないと誰でも授業をできることになるではないか。

 どうだろうか。「授業で教える」ということに当てはめてみた。教えるという行為は誰でもできる。だが、子どもたちの思考を促し、なおかつ教えるということは並大抵のことではないはずだ。それを教師は行っている(つもり)。これこそがプロフェッショナルではないだろうか。

仕事をどう考えるか

 水曜どうでしょうの新作が全国で放送されている。それを観ながら、「やっぱりどうでしょうはおもしろいな~」と思っています。

 その水曜どうでしょうではお馴染みの、藤村さんと嬉野さんが「仕事」について語り合う一冊がある。題名はストレートに「仕事論」である。

 藤村さんと嬉野さんが語る「仕事論」を少し引用する。

組織には必ず不満や不足があります。それで辞めちゃってもしょうがない。みんなそれぞれ何かしらの不満と折り合いを付けながらやっています。やりたくないけどやらなきゃいけないことがあるんです。そこで「独立できる」と思っていると、「なんで俺がこんなことをやらなきゃいけないんだ」「俺はもっとすごいことをできるんだ」と考えてしまう。そして言うんです。「俺のやりたいことは会社じゃできないな」って。

夫婦で考えれば、無意味なルールも、やりたくないけどやらなきゃいけないこともたくさんあります。「こんな仕事したくない」なんて言っているのは、「なんで俺がゴミを出さなきゃいけないんだ!」って言っているのと同じ。「この会社は嫌だ!」って言っているのは、隣の芝生が青く見えているだけ。「隣の旦那さんは毎日奥さんの手料理を食べているのに、なんで俺はカップラーメンなんだ」っていうのと同じです。奥さんを変えればもっと良い夫婦生活ができるって言ってるのと同じなんです。

  組織には問題が多い、という言説はよく耳にする。組織はパーフェクトなものではない。しかし、その組織に所属している以上、自分もその組織の問題の一端を背負っていることになる。まず、これは自覚したい。そして、そこでギャアギャア言っているのに意味はないことはないが、そうギャアギャア言っていてもよくない。それを夫婦関係で説明してくれているのでより理解しやすいものだ。確かに夫婦や家族ではそんなにギャアギャア言いませんよね(笑)。

自分の考えで仕事をして失敗すると怖いから、人の言うことを聞いていたほうがいいって考える人もいると思います。ある意味で仕方のないことかもしれないけど、そこも前提が間違っているように思います。別に失敗してもいいんじゃないでしょうか。

小さな失敗は、日々みんなしていますよね。ちょっと寝坊したとか、時間を間違えたとか、用意しとかなきゃいけないものを忘れたとか。それが恐いから動かないっていう人はいないと思います。それと「仕事上の失敗」と何が違うのでしょうか。

  失敗をこのように考えると、確かに恐れるものではなくなる。日常的につい起こってしまうことのように思える。もちろん、失敗しないことに越したことはないのだろうけど。そうは言っても、寝坊はするし、忘れ物はしてしまう。だから、その失敗をどう捉え、どう改善していくかの方がよっぽど大切なのであろう。

 いかがだったでしょうか。少しではあるが仕事をどう考えるかのヒントが見つかったのではないだろうか。仕事についての考えを深めたい・変えてみたい、と考えている者にとっては必読の一冊である。もちろん、藩士にとっても楽しめる一冊となっている。

仕事論

仕事論

 

ポスト・コロナの学校現場㉚「防衛反応」

  新型コロナウイルスの流行により、学校教育も大きな影響を受けている。もちろん、良くないことが多く、そのフォローに現場は力を入れざるを得ない状況である。

 しかし、禍を転じて福と為すということもある。その一つが「GIGAスクール構想」である。「GIGAスクール構想」とは、「1人1台端末と、高速大容量の通信ネットワークを一体的に整備することで、特別な支援を必要とする子供を含め、多様な子供たちを誰一人取り残すことなく、公正に個別最適化され、資質・能力が一層確実に育成できる教育 環境を実現する」というものである(文部科学省)。

 新型コロナウイルスの影響で、学校は休校を余儀なくされた。その間、「学びを止めない」という方針のもと、学校は動いた。だが、かなりアナログなやり方でしのぎ切ったのが実情であった。そこで、文部科学省は本腰を入れて「GIGAスクール構想」を進めている。その甲斐あり、僕の所属している自治体を含め、全国で急ピッチでICT環境が整備されている。

 それは喜ばしいことである、と僕は感じている。であるが、全体がそういう雰囲気ではない。露骨に嫌がるというか不安がる様子も見て取れる。また、現場では二項対立のような様相を見せつつある。

 ウイルスに感染すると人間は高熱になる。平常の体温(平熱)は脳が決めているが、感染症の時はその設定が高温に切り替わる。なぜなら、体温を上げたほうが、ウイルスや細菌の増殖が抑えられ、白血球(ウイルスや細菌と闘う細胞)の働きが強くなる等、感染症と闘いやすくなるからだ。つまり、発熱は体の防御反応の一つである。

 この防衛反応を先程の「GIGAスクール構想」に対して、嫌がるというか不安がる者の様子に当てはめてほしい。嫌がるというか不安がるというのは防衛反応の一つである。つまり、その者は必死になり、自分を守ろうとしているのである。だからこそ、嫌がるというか不安がる気持ちは理解したい。そして、無駄な二項対立のようなことは避けたい。こんな所で消耗している暇はないはずだから。

 

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買って良かったコンビニ商品

お題「#買って良かった2020

 

 今年はこんな一年になるとは想像もしていなかった。とは言いつつも、だからと言って僕自身はあまり変わりのない一年であった。特に購入行動はあまり変わらなかった(苦笑)。

 特にこれと言って買ったものが思い浮かばない。そんな中、一番足を運んだのはコンビニだろうか。ということで、コンビニ商品の中で買って良かった、と思えた物を紹介してみる。

 

セブンイレブン「なめらかカスタードのエクレア」

 カスタード好きにはたまらない一品であった。僕はシュークリームが好きなのだが、このエクレアはシュークリーム以上にカスタード感があり、とてもおいしかった。「ジョブチューン」で取り上げられたのがきっかけで、一時なかなか手に入らない状況もあった。それだけ注目された一品であった。

 

②ローソン「カルビー ポテトチップス マヨネーズ好きのためのコク深マヨネーズ味」

 これはローソン限定で発売された一品。ポテトチップスなんてみんな好きでしょ。また、マヨネーズなんてみんな好きでしょ。それを掛け合わせたらみんな好きに決まってるでしょ。初めて食べた時に、なんで一袋しか買ってないのだろう、と思った程であった。いつの間にかなくなっていたので、再販売を強く望んでいます。

 

①ローソン「雲泡クリームのショート」

 これは食べた時、驚きました。コンビニスイーツでこんなの食べられるのだ、と。次の日に同じ商品を求めてコンビニへ行ったのは初めてのことだと思います。それぐらい、衝撃がすごかったです。現在は、クリスマス仕様なのかイチゴショートになっています。それもおいしいが、純粋にクリームだけでまた食べたい。

 

 以上が買って良かったコンビニ商品です。みなさんもよければ手に取ってみてください。

教育YouTuberを通して考える学校教育

 先日の「情熱大陸」で教育YouTuberの葉一さんが取り上げられた。教育YouTuberという存在は想像していたが、目の当たりにするのは初めてであった。そして、葉一さんの考えに触れることで、教育現場にいる者として考えることがあった。そのことを今回は記事にしたい。葉一さんが取り上げられた「情熱大陸」の感想のようなものを記事にしているので、よければご覧ください。

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  教育YouTuberと学校教育との違いについて考えた。大きな違いは二つある。

 一つは、具体的な子どもと対面しているかということ。

 教育YouTuberは、具体的な子どもと対面していない。葉一さんが番組の中で語っていたように「勉強が苦手な子」向けに動画を作っている。ターゲットはあるが、それは最大公約数的なものであり、具体的な誰かを想定したものではない。YouTubでは動画にコメントすることができるので、特定の個人とのやり取りができないわけではない。そのやり取りをより具体的にするため個人情報を開示していくこともできなくはない。しかし、それはかなり稀であろう。

 学校教育では、具体的な子どもと対面している。というか、対面しないで学校教育はできない。オンライン授業も盛んになってきていて、対面しなくてもよくなっている。そういう意味の対面ではなく、互いが名前等の固有の情報なしで対面することはない、という意味である。つまり、学校教育は固有の情報を互いに交換し、成立していることとなる。

 二つは、授業以外のことを行っているかということ。

 教育YouTuberは、授業をするのが大きな仕事である。他の仕事として、個別の相談に乗っているかもしれない。もちろん、動画編集等も仕事である。これらのことは、授業についてというのがほとんどであろう。というよりも、授業のことしかほとんどできない、と言った方がいいだろうか。

 学校教育では、授業以外のことをしている。というか、授業も大事ではあるが、その他のことだって同じように大事なことがある。学級経営、保護者対応、校内での仕事等々。この部分が大きくなりすぎ、多忙化につながっているという課題はある。であるが、考えなしに手放せるところではないのも事実である。

 いかがであっただろうか。教育YouTuberと学校教育を比べ、その違いについての考察を書き綴ってみた。これは互いの相違点を挙げたのであって、どちらが優れているとかそういうことを述べたいためではない。僕としては教育YouTuberを通し、学校教育の特徴のようなものを考えつもりである。

 もしよろしければ、ご意見いただければ幸いです。