小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

コロナ禍の学校現場

 コロナ禍の学校現場での様子、僕が考えたことや感じたことを書き留めておくように、「臨時休校の学校現場」「ポスト・コロナの学校現場」と題し、記事をいくつか書いてきた。それが約一年を経過したので、まとめを作り、連載を終えたい。

 コロナ禍という状況は、まだまだ続きそうではある。しかし、そこにこだわってうだうだしているの時期は過ぎつつあるように感じている。ということで、一区切りとしたい、と思い立ったのである。

 このまとめを機に、自分自身も「学びを止めない」ように考えや実践を進めていきたい。

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ゆとり世代教育論「自由の相互承認」

自由の相互承認

 「自由の相互承認」という原理を教育論の根底に置きたい。「自由の相互承認」とは何か。少し長くかつ迂遠になるが以下で説明する。

 人類が、それまでの狩猟採集生活から定住・農耕・蓄財の生活へと徐々に移行していくようになったのは、約一万年前のことと言われています。これは大きな人類の進歩であった。

 しかし、蓄財の始まりは、その奪い合いの始まりでもあった。ここから戦争の歴史が始まった。このことを竹田は「普遍闘争原理」と呼んでいる(竹田、2016)。

 ホッブズは、この「普遍闘争原理」を制御するには「全員が従う超越権力を創り出してここに実力を集めること」「ルールを設定し、これを犯す者にはペナルティを与え、そのことで利害や相互不信を調停すること」という「原理」を提示した。つまり、「覇権の原理」である。しかし、「覇権の原理」で現れた秩序も長くは続かない。ある者が天下統一を完成させたと思ったら、また新たな者がそれを覆そうとする。それは歴史を見れば明らかである。

 そこで、ルソーはホッブズが示した「覇権の原理」に「自由」(の権利)の確保という条件をつけ加えた。そして、「社会の全員の合意による「人民権力」の創出」という原理を示した。つまり、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上で権限を集めて統治権力を創るということである。

 このようにして、人々のそれぞれが「自由」を達成するための「原理」は深まっていった。そして、ヘーゲルによって集大成が示されることとなる。

 人々が「自由」になりたいのであれば、「自分は自由だ!」と、ただナイーヴに主張するのではなく、あるいはそれを力ずくで人に認めさせようとするのでもなく、まずはお互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う。そしてその上で、相互の納得が得られるように、互いの「自由」のあり方を調整する。これを「自由の相互承認」の原理と言う(苫野、2011)。

 

自己承認・他者承認・他者からの承認

 前節で「自由の相互承認」の原理の説明を行った。教育哲学者の苫野一徳は、この原理を、学校・社会の土台とすることを主張している。そのため、公教育が育成を保障すべき「教養=力能」は「学力」と「相互承認の感度」である、とも主張している。また、この「相互承認の感度」は、自己承認・他者承認・他者からの承認という、三つの条件がそろってようやく十全に育まれるものである、と述べている(苫野、2013)。

 自己承認は、この連載でも論じた「自尊感情」とつながるものがある。そこでも述べたように、日本の若者の自尊感情は低い。だけど、低いからよくないというわけではない。また、高すぎるのもよいというわけではない。適度な自尊感情を持つことが必要なのだ、と思う。

 さらに、現代は「相対主義」の時代であり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。だから、なかなか「自分には能力がある」とは思えない。そのため、身近な人々の承認を絶えず気にかけ、身近でない人々の価値を貶めようとする、底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまいがちである。

 このような状況では、なかなか自己承認することができない。だから、自己承認には他者からの承認が必要になる。つまり、心の「安全基地」という存在が必要になる。

 「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索活動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。

 この「安全基地」は、親―とりわけ母親が多い―が担うことが望ましい。しかし、誰もが「安全基地」を持てる―親が担うことができる―のかというと、そうでもない。そこで、教師が子どもたちにとっての、心の「安全基地」となり、どの子も安心できる場をつくる。そうすることで、徐々にでも自己承認を育むことができるであろう。

 そして、他者承認。繰り返しになるが、「自由の相互承認」という原理は、お互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う、ということが肝である。だからこそ、この他者承認を育むことが重要になる。他者承認を育むためには、トートロジー的になるが、他者を承認する経験をするしかない。では、他者承認を育むにはどうしたらよいだろうか? ここでは、「アドラー心理学」の「共同体感覚」を下敷きにし、論じる。

 昨今人間関係の希薄化が進む中で、家庭や地域社会において社会性を身に付ける機会が減少し、望ましい人間関係を築く力等の社会性が身に付けにくくなっていると指摘されている。

 それは、子どもたちも例外ではない。子どもたちは、同じ学級に在籍していても「全員が仲間」と感じるわけではなく「何となく知っているけど別に仲は良くないよ」と言った感じである。例えるなら「群れ」でいるだけである。

 そのため、「群れ」でいる一人ひとりを意図的・計画的に繋げる必要がある。具体的には、協働する(せざるを得ない)機会を保証し、どの子にも協働体験を得られるようにする。そこでは、なるべく子どもたちに任せる。そうすると、子どもたちは、時に揉め、葛藤し、未熟な姿を露わにする。そこを乗り越えさせ、繋がりを形成し、自分と他者との相互依存を認め合えるようにしていくのである。つまり、協働させることで、子どもたちの「共同体感覚を育む」と言うより、「共同体感覚を掘り起こす」のである。

 「情けは人の為ならず」という言葉があるように、人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになることがある。だから、まずは他者を承認する。そうすると、巡り巡って他者からの承認が得られるのだろう。

 

参考・引用文献

そうめんを流したい!

今週のお題「そうめん」

 

  そうめんはどの季節でも重宝する。湯がいて冷やして食べる定番から、みそ汁の具材として、にゅうめんとして。何やかんやと一年中食べているように思う。
  でも、やっぱり一番は夏の暑い時に食べること。今年はそうめんの季節が早くやってきたように感じている。まあ、このことは毎年のように言っているような気もするが。
  そうめんで思い浮かぶのは、流しそうめん。とは言うものの、人生で一度しかしたことがない。しかし、それでもやっぱり流しそうめんを思い浮かべる。
  でも、きっとそんなに味は変わらないのではないか、と思っている(笑)。味というより雰囲気が変わっておいしいのだろう、と想像している。
  こんなことを書いていると流しそうめん熱が高まってきた。でも、準備したり片づけが面倒だろうな、と思ってしまう。誰か企画して誘ってくれないかな、と思いながらいつも通りそうめんを湯がいて食べておこう。

たまたま出会った曲たち

今週のお題「わたしのプレイリスト」

プレイリストというかYouTubeのミックスリストを見てみた。そこから上にあった三曲を紹介する。

①「listen to the radio」マカロニえんぴつ
②「猫」北村匠海(DISH//)
③「白日」King Gnu

①のマカロニえんぴつの曲は、ラジオでたまたま耳にしてメロディーが離れなくなった一曲。ラジオのキャンペーンソングなので、何度も流れていた。でも、ラジオなのでタイミングが合わないこともあり、あまり聴けていなかった。そこでYouTubeで探し回っていたという一曲。すぐに聴けるのはいいのだけど、何となくラジオで聴きたい一曲である。
②③はちょっと変な出会いをした。初めて耳にしたのはクセスゴの大村晴空(大村親子)の替え歌。替え歌なのでメロディーを聴いたというのが正しいかもしれない。そこでメロディーを聴き、ちゃんと原曲を聴きたい、と思い何度も再生してみた。
このたまたま出会った三曲が、僕のプレイリストである。

プロレスとはこういうものだと決めない。自由である。それがプロレスの魅力だと思うんです。

プロレスとはこういうものだと決めない。自由である。それがプロレスの魅力だと思うんです。(by三沢光晴)

 

 プロレスとは何でもありである。クラシックなプロレスがあれば、ルチャリブレがある。デスマッチがあれば、コミカルなものもある。

 振り幅が大きい、と言える。もっと言えばプロレスは「自由」なものである。それぞれがこんなプロレスが一番という「理想」のようなものは持っている。もちろん、それがぶつかり合いイデオロギー闘争がないわけではない。

 しかし、そんなイデオロギー闘争を経て、やはりどれもよさがある、ということをプロレスでは共有しているのではないだろうか、と思う。三沢光晴の言葉を借りると、それこそがプロレスの魅力ということになるだろうか。

 これを教育にも当てはめることができる。当てはめることができるというか、当てはまっているというのが適当かもしれない。

 「教育」というのもこれが唯一のものというのがない。ないわけではないが、それは部分であって全体ではない。

 だからこそ、何でもありの様相を呈している。このことはネガティブな側面でもある。しかし、ポジティブな側面から捉えたい。ある程度の注意を払うことで、いろいろなものを取り込むことができる。だから、自分なりにアレンジできる余地があるし、自分が大切にしているものを反映することができる。

 だからか、教育において「豊かな人間性」が必要、と言われる。これは品行方正という意味ではない(もちろん、品行方正であることは悪くないが)。自分が経験したことや考えていることが豊かという意味である。

 それは、「教育」というものが「自由」なものであるからこそである。これが「教育」の魅力でもあり、難しさでもあるのではないだろうか。

 このようなことを三沢光晴の言葉から考えさせられた。

特別支援教育という挑戦

 2013年の刊行ということで、少し古くなってきているが、それを感じさせない一冊である。

 筆者の東京大学での講義を基にしているので、特別支援教育の基本的なところから歴史や事例まで網羅されている。だから、特別支援教育を学び始めた者にとっては必読の一冊である。

 最後の辺りでは、今までの特別支援教育の取り組みを総括し、未来の展望に言及されている。ここでのメッセージがとても熱いものであった。その部分を引用する。

この日本という国を、「どの国よりも障害者に優しい国」「世界で一番、障害者に優しい国」にしていこうではないか。そのようなチャレンジは、「障害者だけに優しい国」ではなく、結局、「どの人も、大切にされ、学びやすくて暮らしやすい国、豊かに幸せに生きていける国」ということになるのだと思う。

 この引用した部分は特別支援教育に携わる者には、是非とも知っておいてもらいたい。この部分を読むだけでも十分に価値のある一冊である。そして、ここから感じたことや考えたことを是非とも交流したい。きっと熱い気持ちでいっぱいになるだろう。

 特別支援教育という挑戦に是非とも取り組んでみませんか。

特別支援教育 - 多様なニーズへの挑戦 (中公新書)

特別支援教育 - 多様なニーズへの挑戦 (中公新書)

  • 作者:柘植 雅義
  • 発売日: 2013/05/24
  • メディア: 新書
 

いつもと変わらず

今週のお題「雨の日の過ごし方」

 

 早くも梅雨の季節がやって来ている。雨というとやっぱり面倒という方が勝ってしまう。全く雨が降らないと水不足になってしまうので、ある程度雨は降ってもらわないといけないが。

 そんな雨の日は、外に出ないといけない用事がない限り、ほぼ家にいて引きこもっている。やっぱり、わざわざ外出しようという思いにはならない。

 だけど、これは雨の日に限ったことではないような気がする(苦笑)。雨が降っていなくても引きこもっている。だから、特に変わりはないな、と思ってしまう。

 こんなことをいつも言っているような気がする。でも、これが偽りない真実なので。それに、別に引きこもってしまっていることについて何も思っていないし(笑)。

ゆとり世代教育論「理想の教育像」

 前回まで、ゆとり世代である僕が見て、感じた社会について論じたつもりである。

 そして、前回の記事の最後に以下のように書いた。

ここまでである程度、ゆとり世代である僕たちが生きてきた時代について描写できた。では、こんな時代にはどのような教育を行っていくとよいだろうか、と問いを進めていきたい。

 ということで、僕なりに「理想の教育像」なるものを描き出してみよう、と思う。かなり大きなことを言っているということは肝に銘じている(笑)。しかし、自分なりに描き出すという作業を経ないといけない、と思っている。

 ということで、僕が考える「理想の教育像」を以下に書き出してみる。 

規律があり、その中で主体性を持ち、協働でき、多様性を認め合うことができる

しなやかな教育

~自由の相互承認(自己承認・他者承認・他者からの承認)をベースとして~

  と、考えた。

 これに基づいて、また連載を続けてみることにする。

若手教員と

 いつも楽しみにしている「授業づくりネットワーク」の新刊。今回のテーマは「若手教員とどう歩んでいくか」ということ。

 「若手教員をどう歩ませるか」ではなく、「若手教員がどう歩んでいくか」でもない。細かい所ではあるが、「若手教員と」という所がミソである。

 若手教員は、導かないといけない存在ではなく、また放っておいていい存在でもない。そういう思いのようなものが、今回のテーマに込められている、と感じられた。

 読んでみると、それぞれの現場で工夫されていることや意識されていることを幅広く知ることができる。

 若手教員を育てる、サポートするということは、自分がしてきてもらったことを恩送りすることのように思う。また、自分がしてほしかったことを送ることのように思う。

 そして、その送った者がきっと未来の誰かにも送られることになるはずだ。そう考えると、若手教員とどう歩んでいくか、ということは未来の教育を創っていくことにつながることがわかる。

 もっと言うと、若手教員と共に未来の教育を創っていくことを通し、自分自身も成長することになるのではないだろうか。きっと若手教員の姿から、自分の今までの教師生活を自然と振り返ることになるだろう。そこでの気づきというか学びのようなものは自分にとっても有益なものになるだろう。

 若手教員と共に歩む存在でありたい、と強く思えるきっかけとなった。

授業づくりネットワークNo.38―若手教員とどう歩んでいくか

授業づくりネットワークNo.38―若手教員とどう歩んでいくか

  • 発売日: 2021/03/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

余裕があると

今週のお題「やる気が出ない」

 

 やる気がでない、そんなのしょっちゅうである。やる気がでない時は、僕の場合時間がありすぎることが多い。

 時間がありすぎる。つまり、余裕があるということ。この余裕が僕をダメにする(笑)。
 時間がありすぎると何をしようか、とまず考える。もうこの時間がやる気をなくさせることにつながる。何をしようか、と考えている間にいろいろとやりたいことを思い浮かべることになる。そうこうしていると、どれもがやるべきことなのではないか、と思ってしまう。そうしていると、どれからしようか優先順位を考える。そうこうしているうちに、かなりの時間が経過している。そうなってくると、「別に今日しなくてもいいのではないか」と思ってしまう。そうして見事やる気はなくなる。
 このようなプロセスを経ているのではないか、と思った。
 だから、やるべきことがパンパンに詰まっている、時間が限られている時の方がやる気がある。やる気というかやらざるを得ない気なのかもしれないが。
 そう考えると、普段の切羽詰まっている時間は悪いものではないという認識に至った。日々の切羽詰まっている感覚が、僕にやる気を与えてくれている。
 まあ、でもやる気がでない余裕がある時間も好きですけどねー(笑)。

人と人とのふれ合い

 タイトルに惹かれ、思わず手に取った一冊。本当に思わずというのがぴったりな表現であった。こんな感覚で本を手にするのはかなり久しぶりであった。しょうもないことを、なぜしようと思ったのか、と疑問に思ったのが一番の理由であった。

 最初は実験的というか、ネタ要素が大きいもののように感じながら読み進めた。

 でも、途中から登場人物たちに感情移入? していった。次の展開はどうなっていくだろうか、とハラハラはしないが気になっていった。小説を読んでいたのだっけ、と錯覚するぐらいであった。

 検証結果は残念のように思ったが、ハッピーエンドで終わったように思えた。しかし、一つの作品を読むことができた、と感じることができ思いの外満足した。

 陳腐な言い回しになるが、人と人とのふれ合いというのは大切だな、ということを感じさせられた。

 さらっと読めて面白い一冊になっています。タイトルに少しでも興味を持った方は一読することをおすすめしたい。きっと、「いや~、読んでよかったな」と思ってもらえることだろう。

熱心故の弊害

 心ある教師は熱心に指導・支援を行っている。「教師なんて」と言われることは多いが、教師のこのような姿勢が子どもたちの成長を支えている、と思う。もちろん、教師がやり方や考え方をアップデートしないといけない、とも思っているが。
 さて、熱心に指導・支援するということはよいことだ、と思われているだろう。間違っても悪いことではない。ただ熱心故の弊害が生まれていないか、ということに自覚的でありたい、と思っている。
 例えば、私物の教材・教具を教室に持ち込んで指導・支援する。身銭を切って教材・教具を揃える。熱心である。目の前の子どもたちを育てるために必要であると思うからこそ、身銭を切れるのである。
 ここに弊害なんて生まれるのだろうか、と思われたかもしれない。いや、弊害は生まれるかもしれない。私物の教材・教具ということは、その教師が学校を異動等によりいなくなるとその教材・教具もなくなる。そうすると、そこで使われていた教材・教具は使えなくなる。それを使うことで、子どもたちは学べるようになっていたにも関わらず。
 子どもたちは教材・教具が使えないことで、戸惑う。次に担任する教師も、今まで使っていたと知らされる教材・教具がなく、戸惑う。戸惑うだけで済めばいい。時には子どもや保護者から、「昨年まではしてくれていたのに、どうして今年はしてくれないのですか」のように非難されることが起こる。そうなってしまうと、子どもや保護者との関係性が悪くなってしまう。
 熱心故の弊害が生まれるという可能性について、例を挙げながら説明してみた。だからと言って、熱心に指導・支援することを止めるべき、というわけではない。むしろ、止めるべきではないとさえ思っている。ただその熱心な指導・支援を未来へとつなげるという意識を持っておきたい。つまり、自分がいなくなる時のことを考えておくということ。このことを意識するだけで弊害を小さくすることができるはずだ。
 自分のしていることが弊害を生んでいないか、ということに自覚的でありたいものである。

寄り添うということ

 子どもに寄り添いながら指導・支援することの大切さを、よく耳にする。確かに大切なことだな、と思う。

 しかし、この言葉を簡単に使い、実行するというのは難しいことだ、とも思う。
 なぜなら、寄り添うというのは寄り添った他者がどのように感じるか、というものだから。
 つまり、他者評価に委ねられるということ。だから、自分が寄り添っていると思っている他者が、寄り添ってもらいたい、と思っているのかを見極めないといけない。もしかすると、他者は自分の力で乗り切ろう、としているかもしれない。それなのに、勝手に寄り添っても邪魔なだけである。
 そして、もっと言うなら他者が、自分に寄り添ってもらいたい、と思っているかも見極めないといけない。寄り添うということを善いことだ、と思い込んで何も感じずに寄り添っていてはいけない。教師だから、担任だから、ということを振りかざし寄り添ってはいけない。他者が自分に寄り添ってもらいたい、と思えるような存在になっているのか、ということは意識したい。たいてい、他者は「あなたに寄り添ってほしくありません」なんて正面切って言わない(言えない)。だからこそ、このようなことは常に頭に入れておきたい。
 時に自分は子どもに対して寄り添っている、と思えることがある。思うのは自由であるが、寄り添えているかはわからない。むしろ、自分は寄り添えている、と思っている時はたいてい独りよがりになっているのではないだろうか。
 とは言うものの、自己評価はしてはいけない、自己評価はできない、とまでは言わないが、自己評価は当てにならないのではないか、と思っている。でも、自分なりに自己評価をして、次へ進むなりやり方を変えるなりするきっかけを作らないといけない。だから、自己評価というか区切りは、自分なりにでもしないといけない。
 寄り添うという現場で気軽に? 使われる言葉から、このようなことを考えた。ちょっと考えすぎだろうか(苦笑)。

特別支援教育は考え方

 「特別支援教育」は、現在学校現場で広く浸透してきている、と感じている。「特別支援教育なんて必要ない」と、正面切って言う人はほぼいないだろう。しかし、広く浸透した弊害なのかもしれないが、「これをやれば特別支援教育」なんていう誤解も広く浸透してきている、と感じている。

 そんなことを丁寧に「違うんです、こう考えてみませんか」と、本書では語りかけてくれる。

 一部になるが引用する。

自分を含めて、特別支援教育サイドの人間は、とかく従来の障害児教育の手法を当てはめようとしてしまうことがある。もちろん、整理整頓された教室環境が重要なのはいうまでもないけれど、子どもの支援ニーズに適しているかという検討がなされなければ「形骸化」するだけだと思う。

教育現場が今、本当に向き合わなければならないのは「合理的配慮の申請にどう対応するか」といった目先の問題解決ではなく、差別や偏見のない社会をどのようにつくっていくかを本気で考えることではないだろうか。

差別や偏見は、無理解と誤解によって生じる。合理的配慮を「甘え」や「易きに流れる」と考える発想は、間違いなく無理解と誤解による産物であるといえる。

 このような記述に出会うことができる。もちろん、多くの子どもに有効な手法というか手立てはある。それを理解しつつ、目の前の子どものニーズを見極めて、手立てを打ちたい。

 目の前にいる子どものニーズを見極め、そこに手立てを打ち、指導・支援していくことこそが「特別支援教育」ではないだろうか。そんなことを考えさせられた一冊であった。

 特別支援教育を一から学びたい者から特別支援教育を深めたい者まで網羅される内容となっている。だから、是非とも一読をおすすめしたい。

クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。

クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。(by高木三四郎)

 

 この言葉にはもう少し続きがある。せっかくなので全体を引用する。

クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。プロレスって、クリエイティブのセンスがないと絶対にできないものだと思います。試合って、一つの作品なんです。プロレスラーは、クリエイターでありアーティストでなくちゃいけない。ただ単に、フィジカルがすごくても、お客さんを面白がらせるプロレスはクリエイトできないんです。その試合を、世間とお客さんに伝えていくための要素を持っていないと成立しないと僕は思っています。

 この二つの要素を持ち合わせるのはなかなか難しいことだろう。どちらかに振れてしまっているというのもよくあることだろう。それは得手・不得手があるので仕方のないことではある。しかし、なるべくバランスよく考えることのできるよう努めていくことが大切なのだろう。

 この高木三四郎の言葉は、教師にも当てはまる言葉である。

 授業や学級を創るというのは、かなりクリエイティブなことである。アーティスト的に自分が身を粉にして創っていくというのが必要ではある。でも、いつもいつも自分が前面に出てしまっているのもよくはない。要はバランスということ。

 でも、このバランス感覚を持てていないのか意識できていないのかわからないが、一方に振れてしまっている様子をよく見る。これは自戒を込めてということでもあるが。

 だからこそ、この高木三四郎の言葉を頭に入れておきたい。現場にいるとどうしてもアーティスト的な者が称賛され、アーティスト的を目指そうとしてしまう。それだけじゃないのだよ、と。いや、むしろそれだけでは弊害があるのだよ、と。

 このようなことを高木三四郎の言葉から考えさせられた。

晩酌をしつつ

今週のお題「おうち時間2021」

 

 昨年にも似たようなお題で記事を書いた。それを引っ張りだしてみる。

 一年が経過したが、特に変わりはない。
 新型コロナウイルスが収束していかないからというのもないわけではないが、あまり変化はありません。そして、それに対して大きな不満を抱いているわけでもありません。
 つまり、僕の普段からのおうち時間は、このようなものなのです。
 ここで終わってしまっては、本当に内容がないので…、もう少し考えてみる。
 おうち時間が増えたので、家で呑むということの質を考えている。外で呑めば量を呑む。ただ家で量を呑むのはけっこう難しい。そうであるなら、質を高めてみよう、と考えた。
 そこで、自分に合っているビールや酎ハイを呑み比べしながら選んでいる。何となくではあるが、自分なりの好みのようなものができつつある。まあ、それも呑みながら考えていることなので怪しいものではあるが。
 このように、自分なりにおうち時間を過ごしている。願わくは、外で目一杯呑みたい。そんなことを願いつつ、おうち時間を過ごしていくことにしよう。