小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

最近のプレイリスト

今週のお題「わたしのプレイリスト」

 

 僕の最近よく聞くプレイリストについて書いてみることにする。

 しかし、プレイリストというちゃんとしたものはない。YouTubeを見ていると、勝手にプレイリストのようなものをつくってくれるのでそれを参考にしてみる。

 たくさんあるのだが、3曲だけにしぼり紹介する。

 

①「怪獣の花唄」Vaundy

 ラジオをよく聴く。たぶんラジオで初めて聴いたように覚えている。僕としてはとても耳に残った。きっとすぐに検索してVaundyの曲だと認識し、繰り返し聴くようになった。

②「エジソン水曜日のカンパネラ

 これもラジオで聴いた曲。これもかなりインパクトが強く耳に残った。中毒性も高く(笑)、この曲もすぐに検索した。水曜日のカンパネラのボーカルが替わってすぐの曲だということを知り、俄然興味がわいたことを覚えている。

③「オトナブルー」新しい学校のリーダーズ

 これはYouTube経由の曲。YouTube新しい学校のリーダーズの自己紹介? の部分を目にすることがあった。何となく色物的なグループと認識し、やんわりと敬遠していた。そうしているうちに「The First Take」のオトナブルーの動画にたどり着いた。それを見て衝撃を覚え、繰り返し聴くというか見るようになった。今ではあのときの自分にドロップキックをくらわしたいぐらいだ(笑)。

 

 以上が僕の最近のプレイリストの曲です。何かしらの参考になれば嬉しいです。

オブラートが苦手

今週のお題「好きなグミ」

 

 グミはあまり食べません。嫌いというわけではないが、好きでもない。グミを食べるぐらいなら、ガムやチューイングキャンディーを食べることを選んでいるようにも思う。
 今やグミを食べるときにはほとんどないが、小さい頃にグミを食べると決まってオブラートがついていた。あのオブラートが苦手だった。特に味がないのだが、口に入ったときに少し感じる食感が苦手だった。そのイメージが強いからか、グミをあまり食べないように思う。
 グミを食べていると思えるのは、ぷっちょを食べているときだろうか。ぷっちょには小さなグミが入っている。
 そのグミが一番よく食べているグミと言っても過言ではない。あれを正面切ってグミと言うのは異論がありそうだが(笑)。

やっぱり合羽でしょ

今週のお題「レイングッズ」

 

 レイングッズなんてそんなに意識して用意していない。雨をそれなりにしのげればまあ何でもいい、と思っている。

 そんなレイングッズの中でこだわっているわけではないが、雨合羽はけっこう好んでいた。
 これは僕だけの感じ方だったかもしれないが、雨合羽を着るというのはダサいと思っていた。それだったら傘を指すだろう、と。
 しかし、傘を指して自転車に乗るのは危ないし、どんどん規制が強まっている。それだったら雨合羽を着るしかない、と半ば諦めて着てみた。
 そうすると快適なのである(笑)。手は空くし視界は広いし。もちろん、雨が顔にかからないわけではないので不快感はある。それよりも自転車を運転しやすいのでそこは仕方がないか、と諦めている。
 そして、雨合羽を着ているのはダサいと思っていたが、誰も僕の雨のときの姿なんて見ていないことに気づく(笑)。いや、これは雨の日に限らず、晴れの日も同じだろう。
 ということで、別にお勧めするわけではないが、雨合羽も悪くないですよということだけは言っておきたい。雨のお供に雨合羽を是非どうぞ。

ネガティブリストから始めよう

魔法の杖

 子どもや若者が関わっている事件が起きると、決まって「今の教育(教師)はどうなっているんだ」という教育バッシングが始まる。ここでは、「教育(教師)がおかしくなっているから、○○という問題が起きる」という問題の立て方・見方が成されている。このような発想の裏にあるのは、「教育(教師)さえしっかりしていれば、○○という問題は起きないはずだ」という教育への期待である。

 そして、「教育(教師)の失敗」を原因と見立て、様々な事件や、子ども・若者の好ましくないと思われる変化を結果と見る。そういう、原因と結果の結びつきを暗黙の前提に、教育を問題視するようになった。仮に、教育に責任の一端があったとしても、身の丈以上のことが、教育(教師)には期待されているだけなのかもしれない。まるで、教育(教師)が様々な問題を解決できる「魔法の杖」かのように見なされている。

 教育社会学者の苅谷剛彦は著書の中で、「過剰なまでの教育(教師)への期待」について、以上のように述べた(苅谷剛彦増田ユリヤ、2006)。

 教育現場にいる僕にとっては、このような苅谷の論述には大いに肯ける。これは2006年の論述であり、約20年を経過している。しかし、一つも色褪せていない論述であるように思う。いや、むしろ現在の方が、苅谷が述べているようなことが色濃くなってきているようにも思う。教育(教師)が、ますます「魔法の杖」、あるいは万能薬かのように見なされてきている。

 

着ぶくれする教育

 しかし、どうして過剰なまでの教育(教師)への期待が湧き上がってくるのだろうか? この問いに対して、苅谷は「不安の裏返し」と答えている。

 親は、どんな子どもにも、少なくとも最初のうちは、何にでもなれる「可能性」を読み取りたいと願う。この「可能性(できるかも・なれるかもしれないという見方)」が、期待の源泉であり、こうした期待を持つからこそ、その裏返しとして子育ての不安が生じるのである。

 また、現代は「相対主義」の時代。つまり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。決まった答えが見つけにくい時代とも言い換えることができる。よって、より子育てや教育の「答え」が細分化され、一つに定まりにくくなっている。

 そこで、教育(教師)に期待し、「こんなふうにできたらいいな、こうなったらいいな」ということを次々に挙げていき、リストに書き連ねていった。「確かな学力」「健やかな体」「個性の尊重」「英語教育」「道徳性の涵養」「総合的な学習の時間」「インクルーシブ教育」…。挙げると切りがない程、多くのことが書き連ねられた。このように、全てのことができると完璧な人間が育つ、のような考え方を「ポジティブリスト」の考え方と言う。

 だけど、これだけのものを増やし続けているにも関わらず、今まで行ってきたものを減らそうとは考えられていない。どんどん「ポジティブリスト」を長くしていき、それに囚われ、身動きがとれなくなっているのは、当事者である子どもであり、教師なのである。

 

本質に迫る

 「ポジティブリスト」の考え方で考えられた教育は、着ぶくれし、身動きがとり辛くなってきている。そして、多くのものを取り込んだ教育は、各自の「理想」が持ち込まれてしまっている。そこでの「教育語り」の正解は、まさに「神々の争い」そのものの世界なのである。

 だからこそ、今一度「ネガティブリスト」の考え方で、教育を発想する必要があるのではないかと考える。「ネガティブリスト」の考え方とは、「最低限こんなことをしておいて、後は放っておこう」という考え方である。「何を守るのかを考える」と言い換えることもできる。

 前節でも述べたように、現代は、「相対主義」の時代である。確かにもちろん、この世に絶対に正しいことなんてない。それは、教育でもそうである。でも、だからと言って、何につけても「共通了解」に辿り着けないことを意味するわけではない。お互いに話を続けていくうちに、「なるほど! それって確かに本質的だ!」と納得し合えることがある。だから、「教育」って何なのか、といったテーマについても、対話を通して、その「本質」を深く了解し合える可能性がある。

 

参考・引用文献

のびしろしか無いわ

今週のお題「おとなになったら」

 

 幼少の頃に抱いていた感覚を思い起こしてみると、「30代ってずいぶん年寄りだ」と、思っていた。まあ、そんな年寄りに、とっくの昔になってしまっているのだが(苦笑)。

 また、「大人になるとしっかりしている」と、思っていた。しかし、しっかりしているとは自信を持って言えない自分がいる。

 つまり、「大人になればきちんと大人になれている気がしていた」と、思っていたというわけだ。

 大人になっても大人になっていないように思っている。それでも確実に大人の階段はのぼっているように思う。周りを見ると年下の者が増えたし、これぐらい知っているでしょうというような感じて対応される。

 勝手にプレッシャーを感じつつ、それでもかつてよりはできることは増えているようにも思う。もちろん? 体力的には厳しいと思うところはあるが、そこはのらりくらりとかわしているという印象である(笑)。

 Creepy Nutsが「のびしろ」の中でこのように歌っている。

もっと覚えたい事が山のようにある

のびしろしか無いわ

 このような感覚である。自分の思い描いていた大人にはなっていなければ、もちろん完成されていない。だからこそ、まだまだやらないといけないことやできることはあるはずだ。

 そんな気概を持って大人の階段をのぼっていきたい。

有田『純度100%! 有田哲平のプロレス哲学』

 プロレス好きで有名な有田哲平が考えるプロレスのあれこれを、読むことができる内容となっている。

 一つひとつの項目がプロレスならではのものばかりで、どのようなことが書かれているかとても興味深く読み進めた。

 そこで気になった記述を紹介する。

プロレスファンって、自分にウソをつきながらの人生なんですよ。相手をロープに振ったら戻ってくるのはなぜかという問題から始まり、「UWFはすげえだろ!」って言いながら、本当は「でもUWFって面白くないんだよな」と思い・・・・・・。

 「相手をロープに振ったら戻ってくるのはなぜか」「プロレスは八百長なんでしょう」等々。プロレスファンは誤解と偏見にまみれた言葉を浴びせられることが常である。

 そこで自分にウソをつきながらプロレスにのめり込んでいくというのは、プロレスファンあるあるではないだろうか。ウソをつきながらというとネガティブ過ぎるようにも思うので、自問自答を繰り返すというのが適当な表現になるだろうか。

 それにしてもプロレスファンの在り方のようなものが見事に表現されているように思った。

 他にも以下のようにプロレスについて語っていた。

本来プロレスなんて、見て面白かったどうかだけでいいはずなのに、どうしてもそれについて考えてしまう。そうさせてしまうのがプロレスの魅力ですし、とことんまで考えさせられてしまうのは、プロレスというものがものすごく奥深いからに違いありません。

もちろん僕も、これからもプロレスについて考え続けていきます。そうすることで、自分の生活、芸能界での生き方も、よりパワーアップしていくんだろうなと思うからです。

 プロレスを語っているとプロレスのことを考えていると誰もが哲学者のようになっている。この言葉にとても共感できた。

 僕も哲学者の一人である。どうしてプロレスに魅了されるのだろうか、どうしてプロレスについて語りたくなるのか等々。プロレスについて考えていると、どうしてもさまざまな考えが浮かび上がってくる。こんな思いができることにとても喜びを感じている。

 このような思考の渦中にいられることに喜びを感じつつ、またプロレスファンでよかったなと改めて思わされる一冊であった。

授業を通して行う学級経営

 「授業づくりの方が大事か、学級経営の方が大事か?」「授業づくりが先か、学級経営が先か?」等と言う不毛な議論があります。

 冷静に考えると、どちらも大事であり、同時並行的に行っていくということがわかります。よって、まず「授業づくりと学級経営はセットで考える」ということを確認しておきたいです(赤坂、2018)。

 もちろん、「黄金の三日間」に表されるように、新学期の初めに学級経営に力を注ぐということも重要です。このことは多くの論者が提案を行っています(向山、1991・野中、2006)。

 

 以上のことを前提にしながら、「授業を通して行う学級経営」の具体像を述べていきます。

①協働することの意義や重要性

②あきらめずに取り組むことの意義や重要性

③学び方は多様であるということ

④友達や教師の話を聴くことの意義や重要性

⑤主体的に伸びていくために取り組むこと

 思いつくこと、実際に大切にしていることを列挙しました。まだ、言語化できてはいませんが、大切にしていることはあるかもしれない。

 そして、ここで列挙したことは、こちらから語るだけではない。どのことも、授業の中の活動を通し、子どもたちの姿を価値づける等を行い、よさを子どもたちに感じさせるようにしている。

 ただし、ここで忘れてはいけないことは、一度だけの指導で全てが子どもたちに浸透するわけではないということ。言い続けてこそ「指導」となる。このことは肝に銘じておかないといけない、と思っている。

 専科ということで授業において子どもに向き合うことが多くなる。そうなると授業を通して学級経営を行う必要があることに気づいた。授業だけと限定されることになるので、より意識する必要があるだろう。

 そして、授業を通して学級経営を行うということは学級担任にとっても必要な視点になるだろう、と思う。

 このことを意識して考えてみたい。

 

引用・参考文献

もう少しこもる

今週のお題「何して遊ぶ?」

 

 いよいよGWが始まりました。カレンダー通りの出勤になるので、まだGWが始まったという感覚はあまりないが。

 最近のGWは、「ステイホーム」の合言葉通りに、家にこもっていた。まあ、それで不自由さを感じていたか、と言われるとそんなにであった。
 さて、新型コロナウイルスが5類へと移行していく。少しずつと言うか、一気にコロナ禍前へと戻ろうと人は動いているように思う。
 コロナの影響により混み具合が緩やかになっていたのが、どっと混むようになりそうだ。そうなると、ちょっといいかな、と引いてしまっている。
 もう少しこもりながらの日々が続きそうだ。それでもそろそろ呑みに出たいな、と思う。かなりスケールが小さいし、GWでなくてもできそうなことだが(笑)。

遅くなりましたが・・・

 新年度が始まっています。もう少し早く書きたかったのですが、遅くなってしまいました。
 僕は、今年度算数専科というポジションになりました。そこに合わせて取出し指導というか少人数指導もときにするということになります。算数科の授業に向き合うことになりそうだ。
 少人数指導もすることになりそうなので、個を見つめるというか個を追うということも意識したい。
 なんてない記事ではあるが、今年の振り返りをする際、僕にとっては必要な記事である。

通級指導の拡充

 特別支援学級担任をして抱いた思いや課題を記事にした。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

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 今回は特別支援学級担任をして思ったことを提言と言うほどではないが、考えを記事にしてみる。

 それが特別支援学級よりも通級指導教室を拡充したいということ。誤解を恐れずに述べるなら、特別支援学級はなくなっていけばいい、と思う。特別支援学級はなくなればいい、というのはいささか暴論のように聞こえるかもしれないので、きちんと釈明? する。

 少子化により子どもの数が減少しているにも関わらず、特別支援学級に入級する子どもの数は年々増加している、ということは耳にしたことがあるだろう。

 「何が何でもインクルーシブだ」、「フルインクルージョンこそ全てだ」等とは言わない。しかし、通常学級で上手くいかないから特別支援学級で、ということが少なからずあるのではないだろうか。個人的な感覚ではあるのだが、特別支援学級に入級しなくてもいいのではないだろうか、と思う子どもがいることも確かだ。

 よって、子どもの数が減っているにも関わらず特別支援学級在籍児童数が増加するのは、通常学級や学校に何かしらの課題があるのだろう。

 その課題は、通級指導教室を拡充することにより解決できないだろうか。通級指導教室では、通級という名前の通り、数時間通いその子の苦手な部分の補充や克服のための指導がされる。現在、特別支援学級となっているものが一学級だけでも通級指導教室になれば、多くの学校に通級指導教室が置かれることになる。もちろん、特別支援学級を一学級なくせばそれが通級指導教室になる、ということに自動的になるわけではない。

 特別支援学級に入級させ簡単に分けるのではなく、通級指導教室に通うしかも自校で通うことができる環境を整える。このことはまずできることであるし、整備していかないといけないのではないだろうか。

山盛り食べたいもの

今週のお題「盛り」

 

 山盛り食べたいものは映画館のポップコーン、ざる蕎麦、フライドポテトだろうか。自分の好きなものを、そして山盛りにできそうなものを考えてみた。

 昔、「中井正広のブラックバラエティ」という番組で、中居正広を含め出演者がこれなら山盛り食べられるというものを延々と食べるという企画があったように覚えている。この記事を書こうとして思い出した。

 好きなものを山盛り食べられるということで嬉々として食べていたのだが、当たり前のように満腹を迎えることになる。冷静に考えればそうだろう。

 しかし、この記事を書こうとして山盛り食べたいものを考えていると、満腹になるということは度外視している自分に気づくことになる。好きなものだからマイナス面のようなことは思いつかないのでは、と思った。

 実際山盛り食べることはなかなかないだろうが、好きなものを山盛り食べてみたいな、とは思った。

特別支援学級での課題意識

 前回は特別支援学級を担任して抱いた決意というか思いを綴った。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 もちろん、いいところがあれば課題もあった。そんな課題について今回は書き綴ることにする。

 課題だと考えたのは、交流学級での学習について。いわゆる交流及び共同学習(以下、交流)。交流は、基本的に副教科と呼ばれるような教科・領域で行われることが多い。例えばになるが、体育を特別支援学級で一人だけでするというのはあまり想像できない。よって、副教科と呼ばれるような教科・領域で交流が行われることが多いのだろう。

 そんな交流では、もちろん通常学級(交流学級)で学習することになる。そこには特別支援学級担任が付いていくことは難しい。よって、通常学級担任が主に指導にあたることになる。特別支援学級担任としては、直接的な指導・支援が難しいため、通常学級担任と連携を図ることは必須となる。特別支援学級で行っている指導・支援と大きなズレが生じると子どもにとってよくはないだろう。なかなか全てを同じにすることはできないが、互いに歩み寄る努力は必要になるだろう。

 それなりに適応できる子もいれば、なかなか適応できない子もいる。適応が難しいから特別支援学級に在籍しているのだから不思議なことではない。まあ、この「適応」ということも考えないといけない言葉である。通常学級に適応することだけが善ではないはずだ。

 なるべくその子の実態を通常学級担任と話し合うことを通し、伝えることを行った。そして配慮できる範囲のことは配慮してもらったつもりである。これをその子の基礎的環境整備とできるといいだろうな、と思った。そして、そこで個別の指導計画を共有しつつ連携を図ることでより良いものになるのではないか、とも考えた。

 交流での子どもたちの様子を見聞きすると、その子の持っている力と同じくらい環境が影響することが肌感覚で理解できた。だからこそ、どのような基礎的環境整備を用意できるかということは重要である。そして、それを引き継ぐことも重要である。

 いいようにまとめたがここが大きな課題であるように思ったし、かなり難しさを感じたところでもある。

変わることを前提に

今週のお題「変わった」

 

 教員は定期的に異動がある。講師の先生もいるので、毎年誰かしらが異動することになる。他の職種がどうかはわからないが、これに加え学年の変更もある。これらな教職の特異性でもあるだろう。

 よって、1年毎に変化が訪れることになる。これを新鮮に始められると思うか、毎年変化があって負荷が大きいと思うかは意見が分かれるところではある。
 まあ、好むと好まざるに関わらずとも春には変化が訪れることになるのは変わりない。
 そう考えるとこの時期をどのように過ごすかということについて、教員はそれぞれの考えを持っていることになる。
 僕は無意識の内にどうしても肩に力が入ってしまう。張り切ってしまうのだ。少し時間が経ち息切れをしていつも気づく。意識しようと思うのだが、どうしてもオーバーワークになってしまう。
 これをどうにかしよう、と思っていないわけではない。しかし、意識してもそのようになってしまうので割り切ることにしている。春先は肩に力が入ってしまう、そして息切れをしてしまうものだ、と。
 こう考えることで自分にやさしくというか甘くなれたように思う。決して楽をしているわけではないはずなのだから、そこで自分を責めてしまっては損だろう。
 このようにして、ダラダラと過ごしている自分を肯定しているのである(笑)。まあ、これは春先だけでなくどの季節にも言えることのように思うのだが

やはり、全員に個別の指導計画を!

 新年度が始まっているが昨年度の記憶が新しいうちに思ったことや気づいたことをまとめておきたい、と思う。特別支援学級を担任して抱いた決意というか思いを今回は書き綴ることにする。

 やはり「全員に個別の指導計画を!」ということ。

 個別の指導計画は、特別支援学級在籍児童に対して作成するのが必須である。特別支援教育の浸透に伴い、通常学級在籍児童に作成することも珍しくなくなった。よって、個別の指導計画を作成したことがない教師は多くはないだろう。また、個別の指導計画を作成したことがない教師でも、個別の指導計画の存在を知らない者はいないであろう。

 個別の指導計画を作成する際には、徹底的にその子へ興味を持ち、その子のことを頭に浮かべ、日々の言動を振り返る。個別の指導計画を作成する際だけでなく特別支援教育のスタートは、個への徹底的な興味だろう。

 もちろん、教師と子どもの間にも好き嫌いに近いような、合う合わないといったことはある。しかし、それはいったん横に置いておき、個への興味を持つようにする。これは好き嫌いといった話ではなく、どちらかと言うと技術的なこと、と言っても差支えないだろう。

 子ども達一人ひとりの教育的ニーズは違っているのが当然であるし、到達目標も違っているのが当然である。冷静に考えると当たり前のことである。だけど、この当たり前を抜きにして、教室で指導しがちである。

 通常学級では、学習指導要領に記載されていることは最低限クリアしないといけないので、致し方のないことかもしれない。教科や領域の目標が一律になったとしても、その子なりの学習面の目標や生活面の目標は立てられるのではないだろうか。心ある教師は、個別の指導計画というきちんとした形にはしていなくとも、そのようなものを念頭に置いているのではないだろうか。

 以前にもこのような記事を書いたのだが、僕としてはここまで考えを進めたというか、自分なりに深めたつもりである。「全員に個別の指導計画を!」とするならば、記載事項はどのようなものが必要になるだろうか。どの程度なら実現可能だろうか、と具体的に進めていきたいところだ。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

メモ帳を開示

今週のお題「メモ」

 

 今回のテーマはメモについて。僕のメモについて開示してみる。

 メモはスマホで主にしている。メモの取り方は二つの方法で行っている。

 一つはメモアプリを使うこと。これはメモ帳にただメモをしているようなシンプルなアプリを使っている。

 何か思いついたとき、メモを書くことができる状況であればすぐにメモを書くようにしている。書きっぱなしになっているが、たまに見返すことがある。

 どのようなメモを書いているか少し見てみる。UNIQLOの購入リスト、呑み会での話題について等が書き散らかされている。

 UNIQLOで購入するとき、けっこうな確率で同じ商品を購入してしまうことがあるので自宅の在庫を確認して書いたのだろう。呑み会での話題はだいたいが次の日には忘れてしまうので、忘れないために書いたのだろう。

 二つはWorkflowyを使うこと。Workflowyを使い始めたきっかけは千葉雅也さんの書籍を読んでからのように覚えている。

 Workflowyはシンプルな仕様になっており、また一つのアイデアを深掘りすることも容易にできる。何かしらに書いてまとめていく際は、メモ帳よりもWorkflowyの方が優れているように思う。

 このような方法でメモを書いている。メモを残すということは思考を残すことであり、未来を創ることだと思う。書き散らかしがちではあるが、メモを残すということは続けていきたい。