小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ポスト・コロナの学校現場㉖「差別・偏見を退ける」

  新型コロナウイルス感染拡大防止に努めることが続いている。これまで「ポスト・コロナの学校現場」と題し、数々の記事をアップしてきている通りである。感染拡大防止に努めると共に、学校現場で進めていることは「差別・偏見を退ける」ということである。

 文科省から八月に「新型コロナウイルス感染症に関する差別・偏見の防止に向けて」という趣旨のメッセージが発表された。それは子どもたち向けのものや教職員向けのもの等があった。国としてもそこには気をつけたい、と思ってくれているようで安心した。

 と、言いながら八月では遅い気もするのだが…。もっと早い時期に表明してもよかったのではないだろうか。

 閑話休題文科省についての話は終わろう。

 新型コロナウイルスに感染することは、確かに怖ろしい。できる限り感染したくない。でも、それよりも怖ろしいのは、恐れから来る差別や偏見だ、と思う。感染拡大を防ぐと共に差別や偏見も無くしていかないといけないだろう。

 そう思えば、教育現場にいる者としてできることは多くあるのではないか、と考える。新型コロナウイルスを正しく理解できるような機会をつくる。その時には、日本赤十字の「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!」というものが使いやすいだろう。イラストもあり、子どもたちにとってわかりやすくなっているように思う。

 そこで、一番怖いのは「差別をすること」「偏見を抱くこと」であるということを伝えたい。差別・偏見が一番人を追い詰めることになるのではないか。僕はそう考えている。だから、繰り返しになるが、新型コロナウイルスを正しく理解できるような機会をつくることは必要になるだろう。

 子どもたちだって、いろいろな情報を耳にしているので、確かに一定の理解をしていることだろう。しかし、鵜呑みにしてしまっていることがあるかもしれない。また、差別・偏見につながる可能性があることに自覚的ではないかもしれない。だからこそ、新型コロナウイルスについて丁寧に考える機会をつくりたい。

 そのことがコロナ禍をより良く生きることにつながるだろう。さらに、差別・偏見を退けるという態度の醸成につながるだろう。そうなれば、新型コロナウイルスだけでなく、様々なことに対しての意識というものも変わるのではないだろうか。

 

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コミュニケーションを学ぶ

 「コミュニケーション」という言葉を耳にすることは多い。そこで、「コミュニケーションって何ですか?」と、問われるとどのように答えるだろうか。きっと、それなりに答えることはできるだろう。しかし、本当に僕が答えていることは正しいというか、妥当性があるかはわからない。「コミュニケーション能力」や「コミュニケーションスキル」のような言葉に対しても同様である。

 そう思っていると、何だか居心地が悪くなってきた。だから、「コミュニケーション」という、使っている割にはよくわかっていないことについて自分なりの考えを持ちたい、と思い手に取ってみた一冊を紹介したい。

 ちくまプリマー新書のシリーズということで、高校生ぐらいから読めるようにというコンセプトになっている。表現こそ平易であるが、内容は決して平易ではない。だから、意外と読むのに時間がかかった。

 少しになるが気になった記述を引用する。

コミュニケーションは、ある面ではスキルとして習得されるものですが、それだけではなくマインドの面も持つ、ということです。そして、そのどちらが大切なのかという議論は不毛です。スキルとしての面も大切ですし、マインドの面ももちろん大切です。マインドだけでコミュニケーションはできませんし、スキルだけで行われるコミュニケーションは空虚で無意味です。

つまり、以下の三点を指摘することができます。

(1)コミュニケーションは技術もしくは知識として習得されうる。

(2)ただし、コミュニケーションの技術もしくは知識を習得するためには、まずコミュニケーションへの意思が必要である。

(3)さらに、コミュニケーションを技術もしくは知識として習得するだけでは十分ではなく、それを越えて、コミュニケーションするということの意味を考えることが重要となる。

  この記述に出会えたことだけで、この本を読んでみてよかった、と思える。

 コミュニケーションというと、スキルに目が行きがちである。巷にはコミュニケーションスキルに関する本は溢れている。もちろん、スキルが必要ないわけではない。むしろ、スキルはあるに越したことはないだろう。

 しかし、そこで留まっているだけではいけない。著者が指摘するように、コミュニケーションへの意思が必要になる、またコミュニケーションするということの意味を考えることが重要となる。

  手前味噌になってしまうが、僕の「コミュニケーション」についての意識は、確実にコミュニケーションするということの意味を考えることにへと移ってきている。つまり、けっこういい線行ってるのだ、と思う(笑)。もちろん、ここはスタート地点に過ぎないのだけど。

 そんな「コミュニケーション」という言葉を丁寧に解きほぐしてくれている一冊である。スキル面はもちろん、理論面にも触れられているので読み応えはばっちりである。僕としては、これを端にコミュニケーションということを学び進めたい、と思える一冊であった。

 

コミュニケーションを学ぶ (ちくまプリマー新書)

コミュニケーションを学ぶ (ちくまプリマー新書)

  • 作者:高田 明典
  • 発売日: 2012/09/01
  • メディア: 新書
 

ピザの思い出

今週のお題「ピザ」

 

 ピザは、まあまあ好きです。でも、デリバリーやテイクアウトしてまで食べようとは思わない。テーマパークに行った時に食べるぐらいか。

 それよりも、子どもの頃に食べていた手作りピザの印象が大きい。
 夏休みや冬休みのような長期休暇になると、もちろん学校での給食がない。だから、母親たちにとっては昼ご飯に、子どもに何を食べさせるのかを悩むこととなる。それは僕の家庭でも同じであったのだろう。
 お互いに家で昼ご飯を食べるということに飽きてきた頃に、手作りピザを食べていた。手作りは大変だったとは思うが、子どもの僕にとっては楽しみのメニューであった。おいしいはもちろんだが、手作りなので自分でトッピングを乗せられることが楽しかった。お手伝いと称しながら楽しむことができた。
 そういう思い出があるので、あまりピザをデリバリーしたり、テイクアウトしたい、と思わない。僕にとっては、ピザというと手作りのものなのである。
 もう手作りのピザを食べることはないように思うが、僕にとっては大切な思い出の味の一つである。

自分が持ってるものをギンギンに尖らせておく。トップに居続けるにはそういう〝本当のこと〟が必要。

自分が持ってるものをギンギンに尖らせておく。トップに居続けるにはそういう〝本当のこと〟が必要。(by鈴木みのる)

 

 トップレスラーは、それなりに何でもそつなくこなしている。もちろん、そこに至るまでにはかなりの努力を積んだことだろう。そして、トップレスラーはその中でギンギンに尖っているところがある。このレスラーと言えば、これだというのが出てくるぐらいに。

 ギンギンに尖らせるためには、自分は何を尖らせられるのか、ということを把握しないといけない。自分ができることから出発しないといけない。それは、もしかすると自分が希望しているようなものではないのかもしれない。だけど、そこから出発しないといけない。そうでもないとギンギンに尖らせるまではいかないだろう。

 ギンギンに尖らせるには努力が必要になることは間違いない。それに加え、ギンギンに尖らせるという覚悟も必要になる。何かをギンギンに尖らせるということは、ある程度他のものをおざなりにするということでもある。つまり、ギンギンに尖っているものの横に、丸まっているものもあるということだ。これはけっこう怖いことである。だけど、ギンギンに尖らせるというのは犠牲というか我慢する必要もあるのではないだろうか。

 そうは言いつつも、トップに居続けようと思えば、以上のようなことを考え、ギンギンに尖らせる工程を経ないといけない。そういうことが、鈴木みのるの言う〝本当のこと〟なのだろう。

個人的には、そこまで

 随分と評判のよい作品が文庫になったのを見つけたので手に取ってみた。単行本は分厚くて扱いにくいので敬遠してしまうので…。そんなことよりも、かなり今更感があるのだけど(笑)。
 序盤で何となく終盤の予想はできつつも、やはりその最後が気になり読み進めた。読みやすい記述からかスラスラと読める。終盤もどんでん返しは無かったが(どんでん返しが無いわけではないのだが、個人的にはそこまで)感動的なものであった。
 いい作品だと思うけど(という予防線は張りつつ・笑)、そこまでかなとも思ってしまったかな。
 どんでん返しがあって欲しいっていうわけではないのだけど、終盤に向かい伏線が回収されることはない。伏線を張っているのではないのかもしれないけど。
 また、登場人物に感情移入しにくかった。あと登場人物が少ないというか名前すらわからないから(笑)。それは中心人物である「僕」に寄せたのだとは思うのだけれどね。
 いや、いい作品なのだとは思うのだけど。個人的には、そこまでといったところであった。

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

ポスト・コロナの学校現場㉕「分散型研究協議会」

  前回のこのポスト・コロナの学校現場の記事で「分散型研究授業」という取り組みについて報告した。これがなかなか僕としてはよい取り組みだな、と感じている。

 ということで、それに気を良くしたのでさらに取り組みを進めてみたのが、今回のタイトルにある「分散型研究協議会」。

 分散型研究協議会とは、研究授業の後に行われる研究協議会を分散させたということだ。分散させるというのは、グループに分けたということ。そこで、ワークショップを入れ込み、研究協議会をすることにした。

 どのようになったかというのは想像できるだろう。まあ盛り上がった。グループに分かれることで人数が少なくなるので、発言しやすくなった。また、ワークショップ形式なので、さらに発言するハードルというのは下がった。最後にはグループで話し合ったことを発表するということを設定したので、責任感があったのかもしれない。

 とにもかくにも盛り上がりを見せたのである。やっぱり、みんな授業を見たら話したかったのだよね、と思った。それは当然でもあるだろうし、何かしらのフィードバックをしないというのは授業者にとって失礼なことだろう。

 盛り上がったので良いのではあるが、新たな問いというか疑問が浮かび上がってくる。「元々していた研究協議会の良さは何だろうか」「元々していた研究協議会が盛り上がるためには何が必要か」「ワークショップ形式の研究協議会のデメリットは何だろうか」「盛り上がっているが、さらにより良いものにするにはどんな工夫が必要か」ということ。自分なりに考えていきたいことが浮かび上がってきたことを喜んでいる。

 

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冬と言えば鍋でしょ!

今週のお題「鍋」

 

 寒くなってきていますね。とは言いながらも、日中はまだ暖かい日があります。これぐらいがちょうどいいとは思うのですが、また少しずつ冬へと向かっていくのでしょう。

 寒いのは好きではありません。普段から出不精なのですが、寒くなるとそれに拍車がかかります。より出不精になります。かろうじて仕事には出ていますが、それ以外は極力引きこもるようになっています。
 寒くなることにかなり後向きですが、寒くなってきて楽しみなことが一つあります。それが鍋を食べること。寒い中、熱々の鍋を囲むというのはとても楽しみだ。
 とにかく鍋はおいしい!  肉はもちろん、野菜もたくさん食べることができる。いや、むしろ野菜をおいしく食べるために鍋をしているぐらいである(笑)。それに、鍋のバリエーションはいくつもある。寄せ鍋、キムチ鍋、しゃぶしゃぶ、すき焼き等々。飽きることなく、いろいろな味を楽しむことができる。さらに、鍋にはお酒がよく合う。だから、どんどん進んでしまう(笑)。そして、呑みすぎて失敗してしまいがちでもある…。
 正直に言うと、寒くなったから鍋を食べるのではなく、どの季節でも鍋を食べたい、とさえ思っている。それぐらい、僕にとって鍋というものは大切なものである。
 このように鍋愛について書いていると、寒くなることも悪くないな、と思い始めた。今年の冬も鍋を食べながら乗り越えることにしよう。

ゆとり世代教育論「デジタルネイティブからデジタルネイチャーへ」

離れてる気がしないね 君と僕との距離  目をつぶっていても 君の声でわかる表情/僕らはいつも 以心伝心 二人の距離つなぐテレパシー 離れてたって 以心伝心 黙ってたって わかる気持ち

(作詞:ORANGE RANGE、作曲:ORANGE RANGE)

 これはORANGE RANGEの「以心電信」の歌詞の一部である。僕たちゆとり世代としては共感できる度合いは違えども、理解できる内容だと思う。

 では、こちらはどうだろうか?

恋しちゃったんだ たぶん 気づいてないでしょう?/指先で送るキミへのメッセージ(作詞:YUI、作曲:YUI)

 これはYUIの「CHE.R.RY」の歌詞の一部である。僕たちとしては、やはり理解はできることだと思う。

 どちらもコミュニケーションの形態が変わるエポックを端的に表した言葉だと思う。だからこそ、両者とも人々―特に若者―の心を掴めたのだと思う。

 さて、この歌詞はすんなり理解できるだろうか? この二曲の歌詞をすんなり理解できるのなら、それは「デジタルネイティブ」だからかもしれない。

 「デジタルネイティブ」とは、デジタル技術に青少年期から本格的に接した世代のことで、およそ1980年前後生まれ以降を指す(木村、2012)。

 そうだ、僕たちは「デジタルネイティブ」として我が物顔で、この情報化社会を生きている。

 

情報化社会の光と影

 情報化社会のことを、コピーライターの糸井重里は、「インターネット的」という言葉で表現した。

〝人とつながれる〟〝乱反射的につながる〟〝ソフトや距離を無限に圧縮できる〟〝考えたことを熟成させずに出せる〟などなど、人の思いが楽々と自由に無限に解放されてゆく空間。こういった「情報社会」に生きているぼくたちの身体や考え方、生き方は、どんどん、このようなインターネット的なものになっていると思います。

 僕たちデジタルネイティブは、そうでない世代が理解できないぐらいに、容易に人とつながることができるようになった、そしてつながるようになった。もちろん、デジタルネイティブ全員がそうしているわけではない。むしろ、僕たち以降の世代の方がよりそのような傾向は強いかもしれない。そんな彼らを「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ぶ論者もいる。

 差はありながらも、僕たちデジタルネイティブは、糸井が論じるインターネット的な考え方を内面化している。

 だけど、「情報化社会」では、多くの問題も起こっている。ネットいじめやネットを介した異常なバッシングの報道を目にすることは今や日常となっている。

 また、2013年に大きく取り上げられた「バカッター問題」もある。投稿する者は、あくまでも悪ふざけであり、内輪のネタとして投稿するが、そのあまりにも酷い内容に炎上が起こる。炎上後に事の重大性に気づいた時には、既に手遅れであり、取り返しのつかない事態となる。

 年長者が「失敗も経験のうち」と考えたのに対し、僕たちゆとり世代はリスクを恐れ、失敗を回避しようとする。それにはSNSの普及が大きな原因となっていると思う。「失敗を通じて成長する、むしろ器が大きくなる」という説が間違いだとは思わない。しかし、昔なら「みんな馬鹿なことをやって大人になるんだ、それも人生の経験だよ」と許された、SNSで拡散されることもなく。したがって、警察沙汰にもならなかった。

 だが、今はそんな悠長なことを言っていられない。ネットいじめやネットでの異常なバッシングやバカッターは「人生を一瞬で終わらせる力」を持っている。僕たちゆとり世代はそんな時代を生きてきているのだ。

 

明るいオタク化

 「オタク」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? 今でも良いイメージを抱かない人もいるだろう。だけど、昔ほど忌避される存在でもなくなったように思う。それも情報化社会が大きく影響している。

 ネットインフラの整備によって手軽に情報が取れ、評価の高い人気作を簡単に視聴できるようになった。また、付け焼刃、一夜漬けのネットサーフィン程度で、お金や時間を使わず、だれでも「(エセ)オタク」を名乗ることができるようになった。つまり、「オタク」を、自分を特徴づけるキャラとして利用するようになったのだ。だから、若者たちにとって「オタク」という言葉は忌避されるようなものではなくなってきている。むしろ、「オタク」ということを公言し、対人コミュニケーションツールとして活用している。これが「明るいオタク化」の様相だ。

 もちろん、上記したような状況を喜ばしいものとして思っていない「オタク」たちもたくさんいる。「オタク」をキャラとして考えている者と「オタク」として生きていると自負する者の間には大きな溝ができてきている。だけど、この問題も情報化社会がある程度解決してくれる。

 ネットを使えば、自分の趣味・嗜好と似たような者に出会うことも簡単になった。だから、自分の趣味・嗜好についての周りのリアルな人間関係でコミュニケーションを取る必要を無くさせた。趣味・嗜好の思いを昇華する場を得るのに、なかなか理解してもらえずに「我慢する」とか、同じ趣味・嗜好をもつ人間を見つけるために「努力する」とかいった必要性を無効化した。趣味・嗜好を同じくする仲間を見つけることに社会が努力を強いなくなったわけだ。その自分が心地よい場だけで留まることも容易になったのだ。

 しかし、そんな閉ざされた場にいるとどうしても「島宇宙化」してしまう。これ自体は悪くないのだけど、どんどん排他的になってしまう。そうなってくると、前節で述べたような情報化社会の影の部分が色濃くなってしまう。

 

デジタルネイチャーの時代へ

 今まで述べてきたような情報化社会を、僕たちは生きている。僕たちがこれから生きていくのは「デジタルネイティブの時代」というより、「デジタルネイチャーの時代」と言っても差支えがないと思う。

 僕たちゆとり世代は当たり前のようにデジタルと共に生きている、どこでも誰とでも繋がってしまえる、デジタルを空気のように当たり前の存在として捉えている、たぶん初めての人類だ。それと同時に、情報化という自然を生きている。そこにある自然は、美しいものもあれば醜いものも混在する、まさに密林といった様相である。だからこそ、「情報リテラシー」という言葉がやかましく叫ばれるのだろう。

糸井重里は、インターネットの光と影をこう表現した。

人間の思いには、善いとされるもの、悪いとされるもの、取るに足らないもの、変わったもの、と、さまざまあります。こういうものが、ぜんぶ集まってくるのもインターネットなわけです。ふつうに生活していく中では目にしなかったものがありますし、存在さえも信じられないというような仰天の情報もあります。ありとあらゆるものが、インターネットの世界にどんどん蓄積されていて、呼び出したとたんに噴き出してきます。

いままで差別されたり押し隠されてきたようなマイノリティの情報発信も、ここでは簡単にできます。グロテスクもエロティックも、人間の社会に存在するイメージは、すべてここに集まっていくでしょうし、受信することもできます。言葉にできることと画像にできること、のすべてが噴き出したときに、いままでの「ないことになっていたもの」までもが見えてきてしまいます。

人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。これは何だか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。

  もちろん、デジタルは万能のものではなく、光と影が存在する。僕たちデジタルネイティブは、そんなのすでに承知している。

 年長者や識者の「デジタル機器を持つからいけないのだ、そんなの持てなくしてしまえ。無くしてしまえ」という、いささか感情論的な言説も聞こえてくる。だけど、もうデジタル機器を持ってしまったのだよね。もう手放せない。

 だから、デジタルの酸いも甘いも噛み分けながら、この自然をこれからも歩いていくしかないのだろう。デジタルネイチャーとして。

 

引用・参考文献

デジタルネイティブの時代 (平凡社新書)

デジタルネイティブの時代 (平凡社新書)

  • 作者:木村忠正
  • 発売日: 2020/02/01
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 
インターネット的 (PHP新書)

インターネット的 (PHP新書)

 
ネット私刑(リンチ) (扶桑社BOOKS)
 
新・オタク経済 3兆円市場の地殻大変動 (朝日新書)
 
 

 

自殺予防を考える

 自殺について、自殺予防についての知識や考えが足りていない、と思う機会が増えてきた。自殺というのは、決して珍しいことではない。それは統計を見れば明らかである。しかし、まだまだセンセーショナルな伝え方がされているようにも感じる。

 だから、まずは現状を知ることから始めないといけないのではないだろうか。日に日にこのような思いを強くしている。現状を正しく理解することが、何においても出発点になるのではないだろうか。

 僕は自殺を少しでも減らしたい、と思っている。多くの子どもたちと日々対峙しているが、目の前の子どもたちが将来そのような決断をしないようにしてほしい、と願っている。それは本当に心から思う。こう考えていると、僕なりにできることはいくつもあるように思う。それが将来の自殺を予防することにつながるのだろう。

 では、そんな自殺予防について理解しようとする時に何から学べばいいのか。僕は、高橋祥友先生の著作を薦めたい。少し古いものにもなるのだが、新書の『自殺の心理学』『自殺予防』は平易に書かれていて読みやすい。また、内容も自殺予防に関連する事柄が網羅されている。

 高橋先生は自殺について以下のように述べられている。

自殺のキーワードは「孤立」である。困ったときには、誰かに助けを求めても構わない、むしろ、それが適切な対応なのだという点を強調したい。本書を読んでいただいた方には、ぜひ、自分が切羽詰った状況に陥る前に、そのような場面に遭遇したら誰に相談できるかを考えてみてほしい。かならずあなたのことを心配して、なんとか助けの手を伸ばしたいと考えてくれる誰かが周囲にいるはずである。自殺の危機とは、そのような人がまったくいないと固く信じ込んでしまうような状況であるのだ。

  自殺は予防できる。それは自殺を考えている周りにいる人にかかっているかもしれない。つまり、それは自分自身の問題でもあるということだ。そう思える人が一人でも増えることで、自殺は減っていくのだと思う。そんな甘っちょろいものではないような気がするけど、自分のできると思えることをしていきたい。小さな教室からの挑戦だな。

自殺の心理学 (講談社現代新書)

自殺の心理学 (講談社現代新書)

  • 作者:高橋 祥友
  • 発売日: 1997/03/19
  • メディア: 新書
 
自殺予防 (岩波新書)

自殺予防 (岩波新書)

  • 作者:高橋 祥友
  • 発売日: 2006/07/20
  • メディア: 新書
 

ポスト・コロナの学校現場㉔「分散型研究授業」

  学校が休校していた時にや学校再開の前段階として、「分散登校」なるものが多くの学校で実施されていた。一斉に登校するのではなく、分散して登校するのである。だから、教室には約半分の子どもたちしかいない状況であった。

 これは案外よかったようだ。教師からすると、子どもの人数が少ないので一人ひとりとの時間を多く取ることができる。子どもたちからすると、教師が丁寧に接してくれているように感じる。お互いにとってよかったようだ。そんなことを職員室でも耳にしたし、ネットの記事等でも目にすることがあった。

 さて、休校が終わり、学校生活は制約があるとは言え、通常のように感じられるようになってきている。そうなると、止まっていた学校での教育研究が進められるようになってきた。

 そこで、一つの課題として挙がってきたのが、研究授業の仕方。多くの学校では、一つの教室での授業を多くの教職員が参観し、それについて協議をするという形を取っているであろう。僕の所属校もそうであった。しかし、そうすると教室の「密」は避けられないのだ。三密回避と叫び、学校でも新型コロナウイルス感染拡大防止について取り組んでいる。それに逆行するような形になってしまうということだ。

 ということで、所属校では一つの教室での授業を参観するのではなく、二つの教室での授業を参観するようにした。つまり、教職員を分散させるということにした。そうすることで「密」は避けられることとなった。

 また、分散させたことにより、協議会の人数が少なくなった。協議会も二つに分散させたのだ。そうすると、一人ひとりが話すことのできる時間が増えるし、話しやすくなっていたようにも思えた。昨年までなら、発言する者に偏りがあるように感じていたのだが、多くの者が発言できたようであった。

 「分散型研究授業」も悪くないな、と感じた。怪我の功名といったところだろうか。ちなみに、この「分散型研究授業」というのは、僕が勝手に命名したものである(笑)。正式名称のようなものがあるのなら教えてください。

 

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もっぱらDVD

今週のお題「最近見た映画」

 

 映画を見るというのはわりと好きです。特に趣味はないので、僕にとって映画鑑賞は趣味らしいものでもある。だけど、趣味と言えるほどは映画館には通っていない。それに、映画鑑賞を楽しむというのはもちろんあるが、それと同じくらい映画館のポップコーンを楽しみにしている(笑)

 最近は新型コロナウイルスの影響もあり、映画館から足は遠退いている。映画館は感染拡大予防に努めてくれているようではあるが、行こうとは何となく思えない。だから、映画はもっぱらDVDで観るようになってしまった。DVDは手っ取り早いので悪くはないが、たまに映画館に行って観たいな、と思う。
 さて、前置きのようなものが長くなってしまった。僕が最近観た映画(DVD)で気になった作品を紹介する。それが、「ヒックとドラゴン」という作品である。原作はイギリスの児童文学だそうだ。
 ネタバレに注意しながら、内容を少しだけ紹介する。
 ある島でバイキングの一族が暮らしている。そのバイキング一族は、ドラゴンと敵対している。そして、そのバイキング一族のリーダーの息子ヒックが主人公である。このヒックはリーダーの父親とは違い、バイキングらしくない体格や性格をしている。そんなヒックがひょんなことから出会ったドラゴンと心を通わせていくことになる。
 と、まあこのような感じである。気になった方は是非とも作品をご覧いただきたい。
 僕が気になったのは、作品のラストのシーンのことだ。ヒックと一体のドラゴンにより、敵対していたバイキング一族とドラゴンは相互理解を深めることとなる。しかし、得るものがあれば失うものがある、という言葉に表されるようにヒックは何かを失ってしまう。それに何かを感じつつも、また前に向け進めていく。
 このように、単なるハッピーエンドでは終わらない。そこに考えさせられる余地がある。それが僕にとっては気になるところであった。続編もあるようなので、観てみようかな、と思う。

 

ヒックとドラゴン (吹替版)

ヒックとドラゴン (吹替版)

  • 発売日: 2018/02/01
  • メディア: Prime Video

平時と有事のコミュニケーション

 平時とは、変わったことのない時のことを言う。つまり、普段通りということだ。
 有事とは、非常の事態が起こる時のことを言う。つまり、普段と様子が違うということだ。
 では、タイトルにもあるような、平時と有事のコミュニケーションとは一体どういうことか?
 平時のコミュニケーションとは、普段の会話や人間関係を営む過程のことである。
 有事のコミュニケーションとは、プレゼンやディベート等の設定された場でのコミュニケーションのことである。
 このように、僕としては定義らしきものを置いている。
 学校教育の文脈で考えてみると、コミュニケーション能力を育てる、と言った時にどちらのコミュニケーションのことを考えるだろうか。きっと、後者の方ではないだろうか。後者は主に国語科の授業を中心にして育んでいくことになるだろう
 しかし、僕たちが子どもたちと接していてコミュニケーション能力を育てないといけないな、と感じるのは前者のコミュニケーションの場を見ている時ではないだろうか。いや、これは子どもたちと接している時だけでなく大人と接している時も同様ではないだろうか。プレゼンやディベートが上手くなかったとしても、僕たちはコミュニケーション能力が低いとは思わない。だが、普段の会話や人間関係を営む過程がスムーズではなかったとするとコミュニケーション能力が低いと思う。
 だからこそ、上記したように平時と有事に分けて考える必要がある、と考えている。
学校教育の中で後者のコミュニケーション能力を育てていくことを中心とすることは悪いことではない。だから、コミュニケーションの種類を整理しておくことが大切になるだろう。そうでもしないと、子どもたちの課題と教師の意識に大きな解離が生じることになってしまうから。
 もちろん、全てがきちんと分けて整理できるものではないようにも思っている。そうは思いながらも一先ず、平時と有事で分けて整理して考えてみることにしてみる。
 このような視点を持ち、僕なりにコミュニケーションについて考えていきたい、と思っている。

ギラギラしてるか?

 鈴木みのるを一言で言い表すとするなら、「ギラギラしている」である。「ストイック」ではあるのだけどそれではなく、やはり「ギラギラ」が一番しっくりくる。ちなみに、「ギラギラ」という言葉は、今回紹介する本のタイトルにもなっている。

 ギラギラしているというのは、今でもいつでも何事に対しても諦めていないから。そして、虎視眈々と次のステージを見定めているということ。ここに加えて、鈴木みのるが今の状況を楽しんでいるということ。ギラギラすることを楽しんでいること。つまり、楽しみながら次のステージを狙っているということだ。

 そして、改めてだけど、いろいろなことをすごく考えながらプロレスをしているのだ、とも思った。プロレスだけでなく、何事においてもそうなのだろう。例えば、本文の中に出てくる「知識」についての考え。少し長くなるが引用する。

本当は取り出せる記憶だって、それが整理されてないとすぐには取り出せないんだよ。だから、知識っていうのは、ちゃんと整理して、いつでも取り出せるように、いつでも使えるようにしておかないといけないんだよね。知識という〝本〟をいくらたくさん持っていても、山積みにされているだけだったら、それは〝古本〟でしかない。必要なときに、なかなか取り出せないわけだからさ。そうじゃなくて、ちゃんと本棚に50音順だったり、項目順、カテゴリー別に並べるという作業をしたら、その瞬間、古本が図書館の蔵書になる。頭の中でそれを作る作業っていうのは絶対に必要だなと思ってね。

 なるほどな、と感じた。そのためにメモを取るということも紹介されている。一見地味なことを徹底しているということが大切なのだろう。

 引用した内容が多くあり、プロレスファンだけでなく、ビジネスマンにとっても読む価値のある一冊だろう、と感じた。是非とも手に取ってみてほしい一冊である。

ギラギラ幸福論 黒の章

ギラギラ幸福論 黒の章

 
ギラギラ幸福論 白の章

ギラギラ幸福論 白の章

 

ポスト・コロナの学校現場㉓「お気楽な思考」

  この前、車の点検ということでディーラーへ行った。そこで、店員の方から「新型コロナの影響はどうですか?」と、聞かれた。僕は「いや、特には」と、答えた。

 深く考えて出した言葉ではない。店員との会話を手っ取り早く終わらせたい、という思いがあったのは確かだ。
 ディーラーだけではないが、僕はあの営業トークのような当たり障りのないコミュニケーションが嫌いだ。そんなのいらないから、放っておいてほしい、と思ってしまう。まあ、コミュニケーションを取るのがおっくうなのだ。社交的ではない、と思っている。
 閑話休題、話を元に戻そう。
 深く考えて出した言葉ではないが、僕は新型コロナウイルスの影響は特にない、と答えた。後から考えてみると、これはかなりお気楽な発言なのではないか、と思った。
多くの職種では、新型コロナウイルスの影響を大きく受けている。例えば、リモートワークの導入、テイクアウトの実施や席を間引きしての営業、一部店舗の閉鎖等々。新型コロナウイルスの影響が、死活問題になっている所もあるだろう。そんな所では、「影響は特にない」なんて言葉は出てこないだろう。
 お気楽な言葉を出せるということは有難いことだ。確かに学校現場も新型コロナウイルスの影響が全くないわけではない。しかし、他の職種に比べると影響は小さいだろう。基本的な部分は新型コロナウイルスが流行する前と変わりない。それが善いか悪いかは置いておくとするが。
 自分が何気なく発した言葉から、僕の置かれている状況はお気楽なのかもしれない、と考えた。いや、あくまでも僕がお気楽なのであって、教師がお気楽な考えをしているわけではないのだけど。
 お気楽はよくないかもしれないが、切羽詰まっているよりはよいように思っている。大人の誰か一人くらい楽な態度でいることは必要のように思うから

 

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服装の切り替え

今週のお題「急に寒いやん」

 

 急に寒くなってきました。何だか秋と春という微妙な温度になる時が少なくなってきているようにも感じている。

 寒くなってきた、と言いつつも日中は暖かいというか暑い時だってある。だから、もう本当に大変。なぜなら、服装が決まらないから。

 寒いから厚手の服を着ると、案の定日中暑く感じる。その日中のことを考えて薄手にすると、案の定寒さにやられる。

 服装をどうするかというのが本当に面倒だな、と感じている。でも、この微妙な温度になる時を有難い、と思っておかないとな。どうせ、冬や夏になると「寒すぎ! 暑すぎ!」と、文句を垂れるようになるのだから(笑)。

 さて、明日はどんな服装にしようか、とまた今から天気予報を見ながら悩むのである。