小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

多様性に惑う

 ほぼ日手帳で有名な「株式会社ほぼ日」の代表取締役糸井重里の著作に、『インターネット的』がある。そこで糸井は「多様性」について言及している。少々長いですが引用してみる。

 

 どの業界でも、ここ何年もずっと消費者心理や消費行動の「多様化」について悩んでいます。

 しかし、悩んでいるというのは、送り手側の論理です。受け手側というか、買う側、消費者サイドのほうでは、ただ思った通りに買ったり感じたりしているだけで「こっちの自由でしょうか」なんですかね。

 好みが多様化すると、たくさんの同じものをつくることができなくなります。売れ残りが出てしまう。だから、大量生産、大量消費の時代が終わったことについて、送り手側は、困ってしまうのですね。たくさんつくる能力はあるのに、それが役に立たないんですから。

 ほんとうは、何より重要なことは、買いての側では多様化は困ってなんかいない、ということだと思うんです。それは、実は、消費の豊かさの反映なのですから。だって、そうでしょう? この国に、一種類か二種類のセッケンしかなくて、それは大量生産できて都合がいいからという理由でつくられているとしたら、自分が買う側になってみたらイヤでしょう。花屋の花が、キンセンカとバラだけになったら、イヤですよね。新聞が一紙だけでうれしいか、雑誌が一誌だけになってもいいのか。そうやって考えたら、「多様化」というのは、豊かさのひとつの表れだと思います。

 

 糸井は消費活動や消費行動の「多様化」について例を挙げながら述べている。この論述は、このまま教育界にも当てはめることができるのではないでしょうか。糸井が述べたことを教育界に当てはめながら論述を変換してみましょう。

 

  教育界でも、ここ何年もずっと子ども・保護者の心理や行動の「多様化」について悩んでいます。

 しかし、悩んでいるというのは、送り手である教師側の論理です。受け手である子ども・保護者側 の方では、ただ思った通りに感じ、行動しているだけで「こっちの自由でしょうか」なんです。

 子ども・保護者が多様化すると、一斉授業をすることが難しくなります。吹きこぼし・落ちこぼれが出てしまう。だから、一斉授業の大量暗記、大量再生の時代が終わったことについて、教師側は、困ってしまうのですね。いろいろと教える能力はあるのに、それが役に立たないんですから。

 

 このように考えられるのではないでしょうか。この論述から考えられることは、「多様化に戸惑っているのは教師だけであって、子ども・保護者は多様化に何も感じていない」ということである。だから、教室に多様性がある、教室が多様化することを拒んでいるのは、他でもない教師なのである。まずはこれを確認しましょう。

 僕たち教師は、教室に多様性がある、教室が多様化するということをきっと恐れている。だって、自分の想像と違うものが多く立ち現れるのだから。でも、これは怖いですよね…。どんなものが出てくるかわからないのですから…。

 しかし、繰り返しになりますが、教室に多様性がある、教室が多様化するということを拒むことはできないでしょう。いや、むしろそれを実現できるようにしていかないといけません。それが子ども・保護者だけでなく、時代の要請なのですから。もちろん、全てにおいて多様性がある、多様化する必要があるというわけでもありません。ですが、大きな路線としては教室に多様性がある、教室が多様化するということで間違っていないでしょう。

 ということで、教室に多様性がある、教室が多様化するための取り組みを少しずつでも増やしていかないといけません。多様性に戸惑っているだけではいけません。今だからこそ、教室に多様性がある、教室が多様化するということに向き合わないといけない。そんな思いを強くしている。

インターネット的 (PHP新書)

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