小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

怒ってますよ!

怒っていいんです

 2015年に『インサイド・ヘッド』という、ディズニーの映画を鑑賞した。

11歳の少女ライリーの頭の中に存在する5つの感情たち(ヨロコビ、イカリ、ムカムカ、ビビリ、カナシミ)が、彼女を守り幸せにするために日々奮闘する。ストーリーの中盤まで、カナシミは忌み嫌われる存在として描かれている。しかし、終盤ではヨロコビの思い出の裏にカナシミの思い出がある、ということが気づかれる。そのことにより、ヨロコビ一辺倒ではなく、カナシミやいろいろな感情が混じった複雑な感情についても考えられるようになる。

 以上が、『インサイド・ヘッド』のあらすじである。ここから、どんなことを思いましたか?

 この映画を鑑賞して感じたことは、「どの感情も無駄ではなく、大切である」ということだ。つまり、どの感情があってもよいということだ。だから、もちろん「怒り」という感情があっていい。私たちは、怒っていいんです。

 確かに、指導・支援する際に「怒る」のではなく「叱る」という考え方が浸透している。また、私もこの考え方を多くの場面で採用している。

 だけど、改めて述べておくが、私たちは、怒っていいんです。これが大前提になると思う。ここを否定してしまうと、しんどいだろうな、と思う。

 

怒りは自分のもの

 同僚の先生が、放課後に「あの子らが怒らせる」「怒ってやった」という言葉を発しているのを聞いた。この言葉に違和感を覚えないだろうか? 私は「そうですか」と言いながらも、はっきりと違和感を覚えた、と記憶している。

 では、私が覚えた違和感の正体は一体何だろうか? それは、「怒りを子どもからのもの」と、思っていることについてである。

 「怒らせる」「怒ってやった」という言葉の前には「子どもたちが」もしくは「子どもたちを」が入るのだろう、と思う。だけど、ここで怒っているのは誰だろうか? それは、他でもない自分自身である。

 確かに、子どもたちの様々な言動が触媒となり、怒りが湧き上がるということはある。しかし、触媒はあくまでも触媒である。「無視する」「笑顔で返す」等、他の数ある選択肢の中から、「怒る」という選択肢を選んだのは、紛れもなく自分自身である。

 「ほら、やっぱり怒りはよくないと思っているのでしょう」という声が聞こえてきそうだが、私の言いたいのはそういうことではない。あくまでも、怒り(感情)は「自分のもの」ということを言いたいのである。教師だけでなく、子どもや目下と思われる者の近くにいる者は、「子どものため」という大義名分の下、恩着せがましい態度を取りがちである。あたかも、自分が怒りたくて怒ったのではなく、子どもたちがそうさせたかのように振る舞う。

 冒頭でも述べたが、これはやはり違和感だらけである。怒ることの是非を考える以前に、まず自分の怒りを自分のものとして引き受ける姿勢をつくる必要がありそうだ。だって、怒りやその他の感情は、自分のものだから。そして、その一つひとつどれもが大切なものなのだから。

怒りのインフレ

 怒りのインフレーションが止まらない。いつから、僕たちはこんなに怒りっぽくなり、不機嫌を常とするようになったのだろうか? そんなことを考えている時に、以下の論述と出会った。

 なぜ怒っている人間の言うことをとりあえず聞くかというと、怒っている人間というのは集団にとってのリスク・ファクターだからです。怒り狂って我を忘れている人間というのは、とんでもない行動をする恐れがある。公共の福利を損なうような行為を怒りにまかせてしてしまう可能性がある。だから、ものすごく怒っている人間がいた場合は、とりあえずその人の怒りを鎮めるということが集団での最優先課題になる。誰かが怒り出したら、とりあえずほかの仕事はストップして、その人の怒りを鎮めることに優先的に資源を分配しようということになる。考えてみれば当然なんです。でも、みんなそれに味をしめてしまった。とにかくはげしく怒ってみせれば、みんなが自分を気づかってくれる。そういうふうにみんなが思い出した。だから、「誰がいちばん怒っているか」競争になってしまった。政治家だけじゃないです、テレビのコメンテーターとか、新聞の論説委員でも、「切れた」人の発言がとりあえず傾聴される。みんな怒りを政治的に利用しようとしているから怒りの連鎖が止らない。

 これは哲学者である鷲田清一の言葉である(鷲田・内田、2013)。「誰がいちばん怒っているか競争」というのは、まさにそうだ、と感じる。

 こんな不毛な競争は早く止めないといけない。繰り返すようだけど、「怒り」という感情は悪くない。しかし、「怒り」に頼りっぱなし、というのは決して良くない、と思う。怒ることで何かを手に入れようとする。そして、その何かを得る。また別の時に何かを手に入れようとすると、さらに怒らないといけなくなる。「怒り」で手に入れようとするのだから、どんどん怒らないといけなくなる。冷静に考えると理解できるこの構造に、怒っている人は気づいていないように感じる。つまり、「怒り」を自給自足しているということだ。それなのに、「怒らせる…」「怒ってやった…」と言うのは、おかしいことだ。こうなってしまうと、「怒り」に堕落しているだけである。

 怒りのインフレに陥っていないか、そのような視点で自分の「怒り」と向き合ってみることは、教師・支援者共に必要であろう。

 

怒りのスイッチ

 某学習塾のCMで「やる気スイッチ」という言葉を聞いたことはあるのだろうか? CMの最後に「見つけてあげるよ、君だけのやる気スイッチ~」と謳っている。CMでは、まさに歌っているのだけど(笑)。

 これと同じように「怒りスイッチ」もあるのではないか、と思わないだろうか? 自分だけの怒りスイッチはどこにあるのだろう? そんなことを一年かけて考えた時が、私にはあります。もちろん、鼻歌交じりの軽い気持ちで始めたわけではないけど(笑)。

 実際に行ったことを説明しておく。放課後に、その日自分が一番怒ったことをなるべく具体的に描写する。そして、「なぜ怒ったのか?」と5回繰り返し問いについて答え、振り返りをした。このやり方は聞きかじりで行ったものである。たぶん、基となるやり方があるのだとは思うが、はっきりとは知りません。

 先に一年行ってみた結果を述べておく。それは、確かに怒りスイッチはあるということ。そして、その怒りスイッチは「自分の期待・思いと子どもの言動にズレが生じた時」であった。要するに、怒りを感じる時というのは、「期待通りになってない」「思い通りになっていない」という状況の時である(あくまで僕の場合だけど)。

 例えば、授業を始めたいのだけど、子どもたちが騒がしいことがある。その時に、教師は「そのうち気づくだろう」と勝手に期待し、「授業は静かにするもの」と勝手に思っている。だけど、一向に静かにならない。そうすると、「期待通りになってない」「思い通りになっていない」という考えが、沸々と沸き上がってくる。そして最後には、怒る。例を挙げると、以上のようなものである。たぶん、このような場面は容易に想像できたと思う。

 強調したけども、「そのうち気づくだろう」という期待は、「授業は静かにするもの」という思いは、教師が「勝手に」抱いているものである。教師が思い込んでいるだけで、子どもたちは何も思っていないかもしれない。子どもたちからすると、勝手に期待され、勝手に怒られているように思うのかもしれない。

 こちらが勝手に期待していないか、勝手に思い込んでいないか、という視点で自分の怒りをなるべく見つめるようにしている。

 

参考・引用文献

人はなぜ怒るのか (幻冬舎新書)

人はなぜ怒るのか (幻冬舎新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)

「普通がいい」という病~「自分を取りもどす」10講 (講談社現代新書)