若手の授業にT2で入っていた。
班でそれぞれ机をくっつけて問題に取り組ませていた。きっと、 協同させようという意図があったのだ、と感じた。
僕は習熟の時間では、だいたい『学び合い』 の基本的なスタイルを取り入れている。
さて、実際の授業に戻ろう。
習熟の問題(プリント)は、いくつか用意されていた。 一つできたら、次に進むというようになっていた。
そこで、若手は「班の全員ができたら、次に進むことができます」 という説明を加えた。そして、問題に取り組み始めた。
机をくっつけているし、普段の取り組みの成果だろうが、 子どもたちが自然と学び合う。 わからない子がいれば声をかけているし、 わからない子はおたずねをしている。これが自然の形だよな、 と僕は見ながら感じていた。
だけど、少しするとこういう声も聞こえてきた。「 ここ教えてあげる、まだできてないでしょ」「ここは違う、 こうするの」と。これらの声の裏には、「早く次に進もう、 進みたい」という思いがあるだろう。問題ができた子にとっては、 自然な思いだろう。
しかし、 まだできていない子にとって本当に必要な声なのだろうか。 僕は必要でない、と感じた。なぜなら、 できていない子に向けて発せられた声というよりも、 早く終わった自分のために発せられた声のように感じたからだ。
協同原理を授業に持ち込もうとしているが、 それがいつの間にか競争原理に成り変わっている。これは、 きっと意図したことではないだろう。だけど、 結果としてはそうなっている。
環境の設定だけでなく、 取り組ませる条件設定にも意識をめぐらせないといけない、 と改めて感じた。