小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

偏愛的な感情

特別お題「今だから話せること

 

 右も左もわからないままに始まった1年目。七転八倒しながら何とか一年を終えたことを、今でも鮮明に覚えている。

 そして、2年目を迎え、1年目に担任した子どもたちと離れることになる。新たな子どもたちとの出会いを大切にしていなかったわけではないが、どこか集中できていない自分がいた。ふとした瞬間に、1年目に担任した子どもたちのことを考え、またふとした瞬間に、1年目に担任した子どもたちのことを目で追っていた。

 もちろん、2年目以降に担任した子どもたちを、僕は愛しなかったわけではない。しかし、1年目に担任した子どもたちとは違う。1年目に担任した子どもたちに抱いた愛は、偏愛的なものでした。それは、子どもたちが卒業するまで抱くことになった。いや、偏愛的な感情は、今でも心の奥底に眠っているように思う。1年目に担任した子どもたちは、僕にとってそのような存在である。

 このような思いは、多くの教師が抱いている感情ではないか、と思っている。誰にも聞いたことはないのだけれども。

 以上のような経験をした僕は「教師が素の人間として子どもと接するのは善か悪か」という問いを抱くこととなる。

 現在の僕はこの問いにこう答える。『教師が素の人間として子どもと接するのは悪ではない。しかし善でもなく、時に「過剰」を生み出してしまう』と。過剰な期待、過剰な関わり、過剰な甘え・・・。「過剰」が悪いわけではないが、「過剰」は上手くいかなくなったときに大きく傷つけることになってしまいがちである。よって、善ではない。

 こんな考えもあり、担任した子どもたちとは次年度以降、僕は意図的に離れようとしている。全然関わらないわけではないが、かなり関わりを避けようとする。ビジネスライクというか、一年間担任した教師として接しているという趣である。何だか冷たいような気もするが、これでいいのかな、と今は思っている。

 というか、そうでもしないと偏愛的な感情がまたむくむくと湧き上がってくる。それは、やはりプロとしては善ではないのではないか、と思う。