小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

やる人間よりも見る人間のほうが圧倒的に多い。だから“競技”じゃあナイんじゃないかなあ? 言い方を変えれば、“見世物”スポーツ。

やる人間よりも見る人間のほうが圧倒的に多い。だから“競技”じゃあナイんじゃないかなあ? 言い方を変えれば、“見世物”スポーツ。(by鈴木みのる)

 やる人間―教員の人数―よりも、見る人間―社会を構成している人―の方が、圧倒的に多い。だから、職業としても一般的ではない。もちろん聖職でもない(笑)。言い方を変えれば、「見世物」職業である。

 教師は見られることが多い。子どもの目、保護者の目、地域の目、社会の目、もちろん教師の目も。まさに見世物ように見せ、見られている。

 だからか、今の世の中は「一億総教育評論時代」とも言えるぐらい、教育論議が盛んである。

 どうして、こんなに教育論議が活発なのであろうか? それは、だれもが、みずからが教育を受けた経験をもっているからである。家庭内のしつけや教育、学校教育、社会教育(生涯学習)、企業内での研修や教育訓練――これらからまったく無縁で、経験したことがないという者は、おそらくいまい。だから、みんな、教育について語ることができる。

 しかし、世の中の「教育語り」は、自らの体験や経験を唯一絶対の根拠として、しかも、それを一般化してしまうという“落とし穴”にはまりがちである。そして、教育論はどれらも各自の「理想」が持ち込まれ、多くの場合は、教育論には「正解」はない。だからか、議論は空転しがちである。

 そうこうしているうちに、より教師への眼差しは厳しいものになっている。そして、より「見世物」になっている。

忘れられがちだが、教師も人間だ。いろいろな事情や感情を抱えながら、教室に立っている。時に、胸の奥にしまっていた感情が込み上げてきて、コントロールしきれなくなってしまうこともある。自分の思っていることを叫びたくなってしまうこともある。

 だけど、みんなが狼狽えている時、動揺している時、困っている時こそ、僕たちは普段通りでいなくてはいけないし、普段通りの姿を見せなければなりません。

 それが、いろいろな人に見られて、いろいろな人に納得してもらう仕事をしている者の務めなのだ、と思っている。