小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

貧困≒つながり格差

子どもの貧困

 2014年に発表された子どもの相対的貧困率は16.3%であった。この数値は、年々増加傾向にあり、2014年の結果は過去最高の記録となっている。この結果からもわかるように、日本でも貧困の問題が存在しており、また様々な報道により認知されるようになってきている。

では、自分の周囲ではどうだろうかと考えてみる。幸いなことなのか、「貧困」が一義的な原因で「学習用具を購入できない」「給食費を払えない」「宿泊学習等の学校行事に参加できない」というような家庭の子どもを担任したことはない。もちろん、学級の中には「就学援助制度」を受けている家庭もあるし、学校には「生活保護」を受給している家庭もある。だけど、主観的には、比較的裕福な家庭が多いと感じている。

 しかし、多くの論者が指摘しているように、子どもの貧困は社会的に「見えにくいもの」である。その原因の一つは、子どもや大人の「気遣い」である。貧困状況にある子どもの多くは、家族の元で大人たちと暮らしている。大人たちは、たとえ自分が経済的に困窮した生活をしていても、子どもにはしんどい思いをさせないように、また、周囲からもそう見られることをできるだけ避けるように配慮している。そのことを、子どもも子どもなりに感じ、自分が貧困で苦しんでいる様を語らない。だから、子どもを見るだけでは「貧困」を感じることができなくても、それは「大人たち」の我慢の上に成り立っているだけなのかもしれないということを考えないといけない。

 また、他にも原因が考えられる。それが、貧困な家庭の経済面等を含めた生活状況と教師の経済面等を含めた生活状況との間に格差があることである。教師の9割方は「貧困」を経験したことがないと思う。これも、もちろん主観であるが。教師になるということは最低でも地方の教員養成課程がある大学に通うことになる。それ以外となると私立の教員養成課程がある大学に通うことになる。このことを考えると、「貧困」を経験したことがないというのもあながち言い過ぎではないと思う。もちろん、ここでも「大人たち」の我慢はあるとは思う。だが、貧困状態にある家庭の我慢とは大きく異なるであろう。これは大胆な言い方かもしれないが、貧困な家庭の子どもと教師の間に、すでに埋めがたい格差があるのだ。

 上記に挙げた原因から、貧困は「見ないと見えてこないもの」だということがわかる。まず、このことを理解していないと、「貧困」なんて、ましてや子どものことなど理解できない。もちろん、僕もこの業から解き放たれることはない。不遜な言い方になってしまうが、僕は「貧困」という状況を体感したことがない。だから、貧困状態にある家庭とそこで暮らしている子どものことを想像することはできるが、完全に理解することはできないと思っている。

 だからこそ、そこに想像を働かせ、貧困状態にある家庭とそこで暮らしている子どもがどのような状態にあるのかを考えないといけない。そうしないと、持てる者を基準に全ての学校生活を測り、持たざる者にただただ厳しく接して必要以上に肩身の狭い思いをさせることになってしまうかもしれない。

 

教育の守備範囲

 前節で少々長過ぎるようにも思うぐらいに「貧困」についての考え方を語った。それを前提に置きながら、少しずつ教育現場に視点を移していきたい。

 「子供の貧困対策に関する大綱」では、「学校を子供の貧困対策のプラットフォームと位置付け、①学校教育による学力保障、②学校を窓口とした福祉関連機関との連携、③経済的支援を通じて、学校から子供を福祉的支援につなげ、総合的に対策を推進するとともに、教育の機会均等を保障するため、教育費負担の軽減を図る。」と記された。ここでは、教育が貧困対策でも大きな役割を担うことを期待していることが見て取れる。

 公教育―義務教育―は貧困であってもそうでなくても受けることができる。だから、貧困によりしんどい状況に置かれた子どもにとっては、学校は仲間や教師たちと毎日出会い、ホッとすることができ、かつワクワクできる場所になり得るであろう。そのような視点から考えると、上記のように教育が期待されることは理解できる。

 『子どもの貧困連鎖』でも、定時制高校、小中学校、保育所に在籍する貧困状態にある家庭とそこで暮らす子どもたちへの指導・支援に奮闘する教師(保育士、スクールソーシャルワーカー)たちについて詳細に語られている(池谷・保坂、2015)。そこでは、プライベートの時間を割きながらも、我慢強く貧困状態にある家庭とそこで暮らしている子どもへ指導・支援している、素晴らしい教師たちの姿が描かれている。同じ職に就いている者とし、とても誇らしいと感じた。

 しかし、しかしである。これが自分も求められるのかと考えると、手放しで誇らしいと賛辞を送れない。また、これが100万人以上もいる教師全員が求められるとなると、残念ながら到底できないであろうとも感じる。もちろん、自分の目の前に貧困で苦しむ子どもがいたら、描かれた教師たちまでとは言わなくとも、何らかの指導・支援を行おうとすると思う。だけど、プライベートの時間を割きながら指導・支援することはできない。とてもドライな言い方になってしまうが、何か月、せめて1年なら可能であるかもしれないが、何年も続けて指導・支援なんてできない。なぜなら、教師はどこまでも子どもの傍にはいられないからだ。教師は、際限なくどこまでも指導・支援しようと思ったらできてしまうのが厄介なところでもある。

 ここで思うことは、やはり教育が「魔法の杖」かのように考えられているということだ。また身の丈以上のことが期待されているように思う。だから、どこかで線を引かないといけないと思う。どんどん教育の守備範囲を拡げ、そこで心ある教師は苦心している。

 

子どもへのGIFT

では、僕たち教師は、貧困で苦しむ子どもたちに何ができるであろうか? 貧困で苦しむ子どもも含め、どの子どもたちに、教師は何を与えられるのであろうか? その答えが「つながり」―「仲間」―であると考える。

 現在では、いわゆる「ご近所付き合い」が少なくなり、家庭内に地域の人が入ってくることはかなり減ってきている。ましてや、家庭の経済的な内情はプライバシーの壁に阻まれがちである。地域の中で助け合って生きているといったイメージは、もう遠い過去のものである。今、現実問題として貧困状態にある家庭は、地域からも親類からも孤立していることが容易に想像できる。

 僕は、小学校―義務教育―の教師として、子どもたちに毎日毎日教育活動を施している。そこで忘れてはならないのは、目の前にいる子どもたちが同じ地域に住む同い年の集団であるという疑いようのない事実である。同一地域、同一学齢の子どもたちを「つなげる」という意識をもって教育した場合と、そういう意識を持たずに効率重視で子どもたちに交流をさせずに教育した場合とでは、もしかしたら20年後、30年後のその地域の実態を大きく変えるかもしれない。

 小学校時代から学校教育によって「つながり」を高められた地域の同学齢集団は、地元の仲間に貧困に陥った者が出たときに援助しようとするだろう。金銭的な援助や物理的な援助だけを言っているのではない。そういう噂が、耳に入った時点で何人かで相談し、少なくともちょっと様子を見に行こうか、食事に誘ってやろうか等という話くらいになるのではないだろうか。そして、その友人が本当に困っているということになれば、社会的なセイフティネットにアクセスする仕方ぐらいは間違いなく教えるのではないだろうか。

 どうであろうか? もしかすると、これでは「貧困」の解決にならない、貧困状態にある子どもを救うことにならないと感じる方もいるかもしれない。確かに、直ちに貧困状態にいる子どもを、そうでなくすということにはならないであろう。

 ここで、一つの寓話を紹介する。

  「あなたは旅人だ。旅の途中、川を通りかかると、赤ん坊が溺れているのを発見す

  る。あなたは急いで川に飛び込み、必死の思いで赤ん坊を助け出し、岸に戻る。安

  心してうしろを振り返ると、なんと、赤ん坊がもう一人、川で溺れている。急いで

  その赤ん坊も助け出すと、さらに川の向こうで赤ん坊が溺れている。そのうちあな

  たは、目の前で溺れている赤ん坊を助けることに忙しくなり、実は川の上流で、一

  人の男が赤ん坊を次々と川に投げ込んでいることには、まったく気づかない。」

 これは「問題」と「構造」の関係を示した寓話だ。

 もちろん、貧困状態の家庭で暮らしている子どもに何かしらの指導・支援は必要である。だが、教師である僕には前節で述べた通り、それにも限界がある。それよりも、貧困状態にある子どもが、学校という集団から社会に出た時に孤立してしまうことを防がなければならない。つまり、目の前に立ち現われている問題に対応するだけでなく、その問題が立ち現われる「構造」にも目を向けないといけないということである。問題が起こる「構造」にも目を向けない限り、問題を根本的に解決することにはならない。

 また、「つながり」を持たせることは、何も貧困状態にある子どもだけに有用なのではない。貧困層でない子どもたちにとっても「つながり」は有用なものである。なぜなら、現代は先の見通せない時代と言われるぐらい、将来が不透明だからである。富裕層が急に貧困層になり、路頭に迷う事例も少なくはない。その時に頼ることができるのは誰になるだろうか?

 このようなことを考えると、「つながり」―「仲間」―をつくる教育をしていくことは(だけでは十分ではないと思うけど)、子どもたちが「自立」し、ささやかな幸せを掴み取るためには必要なことであると考えている。

 

参考・引用文献

子どもに貧困を押しつける国・日本 (光文社新書)

子どもに貧困を押しつける国・日本 (光文社新書)

子どもの貧困連鎖 (新潮文庫)

子どもの貧困連鎖 (新潮文庫)