プロレスとはこういうものだと決めない。自由である。それがプロレスの魅力だと思うんです。(by三沢光晴)
プロレスとは何でもありである。クラシックなプロレスがあれば、ルチャリブレがある。デスマッチがあれば、コミカルなものもある。
振り幅が大きい、と言える。もっと言えばプロレスは「自由」なものである。それぞれがこんなプロレスが一番という「理想」のようなものは持っている。もちろん、それがぶつかり合いイデオロギー闘争がないわけではない。
しかし、そんなイデオロギー闘争を経て、やはりどれもよさがある、ということをプロレスでは共有しているのではないだろうか、と思う。三沢光晴の言葉を借りると、それこそがプロレスの魅力ということになるだろうか。
これを教育にも当てはめることができる。当てはめることができるというか、当てはまっているというのが適当かもしれない。
「教育」というのもこれが唯一のものというのがない。ないわけではないが、それは部分であって全体ではない。
だからこそ、何でもありの様相を呈している。このことはネガティブな側面でもある。しかし、ポジティブな側面から捉えたい。ある程度の注意を払うことで、いろいろなものを取り込むことができる。だから、自分なりにアレンジできる余地があるし、自分が大切にしているものを反映することができる。
だからか、教育において「豊かな人間性」が必要、と言われる。これは品行方正という意味ではない(もちろん、品行方正であることは悪くないが)。自分が経験したことや考えていることが豊かという意味である。
それは、「教育」というものが「自由」なものであるからこそである。これが「教育」の魅力でもあり、難しさでもあるのではないだろうか。
このようなことを三沢光晴の言葉から考えさせられた。