小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

気づきから拓かれる

 例えば、「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」と、指導します。しかし、子どもたちにとっては他の選択肢もあります。「騒いで話を聴かない」「授業は面倒だから、参加しない」等。だが、そういう道は無いかのように、「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」ということを価値づけ、子どもたちをそちらに向かって進ませます。

 いや、決して「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」と、指導することは間違っていないとは思います。教師としては当然の指導だとも思っています。だけど、残念ながら「洗脳」という側面を全面的に否定できないとも思っています。

 このようなことを考えていると、年々素で楽しめないというか喜べなくなってきている自分がいる、と感じています。何だかいろいろと考えてしまう。考えられるからこそ、考えてしまうのであって、これが悪いことだとは思っていない。だけど、現場にいる以上、いろいろなことは止まって待ってくれない。だから、結局悩みながらも答えは出ないけども進んで行くしかないのです。

 悩んでしまうのなら、このような気づきはかえって良くない、と思われるかもしれない。だが、僕はそう思わない。そう考える理由を、再び学校の例を挙げながら説明したい。

 授業を構想する時に教材研究を行う。教材研究を通して、今まで知らなかったことや考えたことないことまで視野に入れることとなる。しかし、教材研究を通して獲得したもの全てを授業の中に組み込むことはしない。してしまいたくなるが、してしまうとだいたい容量オーバーとなってしまう。それに、子どもたちを置いてけぼりの授業になってしまう。

 では、教材研究は不必要なのか、というとそういうわけではない。教材研究を通して、今まで知らなかったことや考えたことのないことを考えることで、確実に指導の幅が広がる。三を分かっているという状況で三を投げかけることと十を分かっているという状況で三を投げかけるのは違う。きっと、指導する際の言葉は違ってくるだろう。だから、教材研究を行うということは必要なのである。

 つまり、気づきがあるからこそ、実践の幅が広がるのではないだろうか、ということである。

 一つの気づきが、自分の考えや認識を拓いてくれる。だからこそ、こうやってブログに細々とでも記事にすることを続けているのだろう。