多くの自治体で新学年が始まっていることでしょう。今年度は、いつもと違い戸惑うことが多いですが、慌てずゆっくりやっていこう、と思っています。
さて、新年度ということで、多くの学校では人間関係の入れ替わりが起こっているでしょう。教師と子ども、教師同士、子ども同士等、いろいろな人間関係で変化が生じている。
そこでは、多くの問題が起こるでしょう。もしかすると、すでに起こっているのかもしれません。でも、それは仕方のないことです。むしろ、問題が起こっている方が健全なのかもしれません。もちろん、当事者にとってはいい気はしませんが。
ここで生じる思いの一つが「どうしてわかってくれないのかな」というものではないだろうか。こういう思いを抱いたことは一度や二度ではないことでしょう。僕は何回も抱いたことがあります。
だけど、すいません、「わかりあえる」ということなんてできません。いや、絶対にできないというわけではありません。そんな簡単に「わかりあえる」ということはない、ということです。
じゃあ、どうすればいいのか? それに今回紹介する『他者と働く―「わかりあえなさ」から始める組織論』の著者である宇田川先生が答えを提示してくれている。
宇田川先生は、「対話する」ことを通し、相手を変えるのではなく、自分が変わっていくことが大切だ、と語っている。自分が変わっていくということを、もう少し具体的に言うと「ナラティヴ」を変えるということである。
ナラティヴについて、宇田川先生は以下のように説明している。
「ナラティヴ(narative)」とは物語、つまりその語りを生み出す「解釈の枠組み」のことです。
つまり、自分が「わかってくれない」と思っている解釈の枠組みを変えていく、ということである。そのための対話のプロセスも丁寧に説明されている。
一人ひとり、その人なりのナラティヴを持っている。それは自分だってそうだし、相手だってそういうことになる。考えてみると当たり前のことを忘れてはいけない。そんなメッセージを受け取った。
そして、もう一つ大きく感銘を受けた箇所がある。少々長くなるが引用する。
対話に挑むことを別な言い方をするならば、それは組織の中で「誇り高く生きること」です。
つまり、成し遂げられていない理想を失わずに生きること、もっと言うならば、常に自らの理想に対して現実が未定であることを受け入れる生き方を選択することです。
当然、そのときには、その理想に反する現実があることに向き合わなければならないですし、時に、自分の理想が狭い範囲しか見ていなかったことに気づかされることもあるでしょう。我が身を切られるような痛みの中にあって、私たちはどうやってそのことを誇れるでしょうか。
それは、私たちが何を守るために、何を大切にしていくために、対話に挑んでいるのかを問い直すことによって可能になると私は確信しています。
もう少し続くのだが、全てを引用するのは憚れるので、ここ辺りで止めておく。やはり、手に取って前文に目を通してもらいたい。
引用した文章に戻ろう。
「誇り高く生きる」という言葉。初め読んだ時は、あまり何も思わずにいたのだが。再読した時は、ここで立ち止まった。そして、何回も読み返している内に、じわじわと勇気が湧いてきた。
僕たちは、「どうしてわかってくれないのかな」等の思いを抱き、いつしか理想を忘れてしまっている。いや、忘れさせられている。いつの間にか、忘れさせられていることも忘れてしまい、理想を持っていたことを忘れ去っている。つまり、「誇り高く生きる」ということを放棄してしまっているのだ。
そうかもしれない、と思った。そして、理想を持っていることを諦めなくていいのだ。僕たちは、「誇り高く生きる」ことを目指していいのだ、と勇気づけられた。
対話のプロセスのような技術的なものも得られるが、それよりも考えを得られる一冊となっている。きっと、働いていて何らしかのことで悩んでいる方(つまり、誰もが)にとっては必読の一冊である。きっと、読んだ後、勇気づけられ、「自分のいる所でがんばってみようか」と思えることであろう。