膨大なデータを基にし、教育格差があるということを暴いた一冊。
現場にいる者としては、同じ学年・学級であったとしても、決して一律ではなくまだら模様になっていることは肌感覚として理解していた。そこにデータが提示され、その感覚を確かにした。
そして、この格差を縮めるには並大抵の努力では達成されないということもわかった。しかし、現場にいる者としてはそこで「はい、そうですか」と簡単に受け入れるわけにはいかない。だからこそ、考えないといけない。
著者の松岡亮二は以下のように語っている。
SESによる教育格差は、学問的とは言えない表現をするのならば「愛」――高SESの親が「子に最善の機会を与えたい」という気持ち――に立脚するのだろう。子の社会的成功を自分の達成と捉える自己「愛」も入り混じった感情だ。自分の子供のために良かれと思って多くの機会を与えようとし、自らの教育経験に基づき意識的・無意識的に資本を駆使して教育達成に繫がるような子育てを行う。それは当然の行為ともいえ、これからも高SESの親が続けるのは間違いない。教育制度による介入をしないのであれば、格差は不可避である。
それで何がいけないのか? と思う人もいるかもしれない。自分は比較的高SESだから、現状のままでいい、と。それはとても正直な感想である。ただ、低SESの子供たちの可能性に投資しないことで、わたしたちは潜在的な損失を受けているかもしれない。想像してみよう。一人ひとりに教育機会がもっと与えられていれば、あなたが癌になったとき、担当医は現在の平均的な医者よりも優秀かもしれないし、新しい抗癌剤を創薬する研究者も増えるかもしれない。ありとあらゆるモノ・サービスの質はもっと上がるだろう。環境保全に対する行動も全体として改善し、短期的な利己心を押し通す人が減って社会そのものがより生きやすくなるかもしれない。
だから、格差を縮めようとすることが、社会全体の底上げにつながる、という望みを忘れないでいたい。格差を縮めるというのは、格差で苦しむ当事者だけでなく、社会全体のものなのである。
つまり、教育格差は私たちの課題なのである。そして、教師こそがその教育格差にアプローチできる現場の最前線にいるのである。