小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ゆとり世代教育論「自由の相互承認」

自由の相互承認

 「自由の相互承認」という原理を教育論の根底に置きたい。「自由の相互承認」とは何か。少し長くかつ迂遠になるが以下で説明する。

 人類が、それまでの狩猟採集生活から定住・農耕・蓄財の生活へと徐々に移行していくようになったのは、約一万年前のことと言われています。これは大きな人類の進歩であった。

 しかし、蓄財の始まりは、その奪い合いの始まりでもあった。ここから戦争の歴史が始まった。このことを竹田は「普遍闘争原理」と呼んでいる(竹田、2016)。

 ホッブズは、この「普遍闘争原理」を制御するには「全員が従う超越権力を創り出してここに実力を集めること」「ルールを設定し、これを犯す者にはペナルティを与え、そのことで利害や相互不信を調停すること」という「原理」を提示した。つまり、「覇権の原理」である。しかし、「覇権の原理」で現れた秩序も長くは続かない。ある者が天下統一を完成させたと思ったら、また新たな者がそれを覆そうとする。それは歴史を見れば明らかである。

 そこで、ルソーはホッブズが示した「覇権の原理」に「自由」(の権利)の確保という条件をつけ加えた。そして、「社会の全員の合意による「人民権力」の創出」という原理を示した。つまり、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上で権限を集めて統治権力を創るということである。

 このようにして、人々のそれぞれが「自由」を達成するための「原理」は深まっていった。そして、ヘーゲルによって集大成が示されることとなる。

 人々が「自由」になりたいのであれば、「自分は自由だ!」と、ただナイーヴに主張するのではなく、あるいはそれを力ずくで人に認めさせようとするのでもなく、まずはお互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う。そしてその上で、相互の納得が得られるように、互いの「自由」のあり方を調整する。これを「自由の相互承認」の原理と言う(苫野、2011)。

 

自己承認・他者承認・他者からの承認

 前節で「自由の相互承認」の原理の説明を行った。教育哲学者の苫野一徳は、この原理を、学校・社会の土台とすることを主張している。そのため、公教育が育成を保障すべき「教養=力能」は「学力」と「相互承認の感度」である、とも主張している。また、この「相互承認の感度」は、自己承認・他者承認・他者からの承認という、三つの条件がそろってようやく十全に育まれるものである、と述べている(苫野、2013)。

 自己承認は、この連載でも論じた「自尊感情」とつながるものがある。そこでも述べたように、日本の若者の自尊感情は低い。だけど、低いからよくないというわけではない。また、高すぎるのもよいというわけではない。適度な自尊感情を持つことが必要なのだ、と思う。

 さらに、現代は「相対主義」の時代であり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。だから、なかなか「自分には能力がある」とは思えない。そのため、身近な人々の承認を絶えず気にかけ、身近でない人々の価値を貶めようとする、底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまいがちである。

 このような状況では、なかなか自己承認することができない。だから、自己承認には他者からの承認が必要になる。つまり、心の「安全基地」という存在が必要になる。

 「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索活動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。

 この「安全基地」は、親―とりわけ母親が多い―が担うことが望ましい。しかし、誰もが「安全基地」を持てる―親が担うことができる―のかというと、そうでもない。そこで、教師が子どもたちにとっての、心の「安全基地」となり、どの子も安心できる場をつくる。そうすることで、徐々にでも自己承認を育むことができるであろう。

 そして、他者承認。繰り返しになるが、「自由の相互承認」という原理は、お互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う、ということが肝である。だからこそ、この他者承認を育むことが重要になる。他者承認を育むためには、トートロジー的になるが、他者を承認する経験をするしかない。では、他者承認を育むにはどうしたらよいだろうか? ここでは、「アドラー心理学」の「共同体感覚」を下敷きにし、論じる。

 昨今人間関係の希薄化が進む中で、家庭や地域社会において社会性を身に付ける機会が減少し、望ましい人間関係を築く力等の社会性が身に付けにくくなっていると指摘されている。

 それは、子どもたちも例外ではない。子どもたちは、同じ学級に在籍していても「全員が仲間」と感じるわけではなく「何となく知っているけど別に仲は良くないよ」と言った感じである。例えるなら「群れ」でいるだけである。

 そのため、「群れ」でいる一人ひとりを意図的・計画的に繋げる必要がある。具体的には、協働する(せざるを得ない)機会を保証し、どの子にも協働体験を得られるようにする。そこでは、なるべく子どもたちに任せる。そうすると、子どもたちは、時に揉め、葛藤し、未熟な姿を露わにする。そこを乗り越えさせ、繋がりを形成し、自分と他者との相互依存を認め合えるようにしていくのである。つまり、協働させることで、子どもたちの「共同体感覚を育む」と言うより、「共同体感覚を掘り起こす」のである。

 「情けは人の為ならず」という言葉があるように、人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになることがある。だから、まずは他者を承認する。そうすると、巡り巡って他者からの承認が得られるのだろう。

 

参考・引用文献