小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

国連に正対する③

障害の社会モデル(人権モデル)という考え方

 国連から要請されている(b)の内容を改めて確認する。

 

  (d) 通常教育の教員及び教員以外の教職員に、障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に関する研修を確保し、障害の人権モデルに関する意識を向上させること。

 

 インクルーシブ教育についての研修は十分とは言えないかもしれないが、現場レベルや教育委員会レベルでも行われている。きっとその質を問われているようには思う。それでも研修の確保はそれなりにできているだろう。

 それよりもこの要請では、最後の障害の人権モデルに関する意識を向上させることの方が重要なのだと思う。

「障害の人権モデル」という言葉はあまり聞いたことがなかった。理解不足は否めないのだが、障害の人権モデルは障害の社会モデルのことのようである。

孫引きになり恐縮であるが、1993年に国連総会で採択された「障害者の機会均等に関する基準規則」では既に社会モデルが採用されており、「障害者権利条約」制定に向けた動きのなかでは、社会モデルを「人権モデル」と呼ぶ提案が行われている(松波、2013)。

 このような経緯により、障害の社会モデルではなく障害の人権モデルと呼んでいるようである。しかし、僕としては障害の人権モデルよりも障害の社会モデルの方が、耳なじみがあるので、ここからは障害の社会モデルを使っていくことにする。

 簡単に「障害の社会モデル」について説明する。

 障害のある人は障害があるからさまざまな困難さを抱えることになる。このように考えるのが「障害の医学モデル」である。これは最もらしさがある考えではある。しかし、このように考えると障害のある人が努力すればその困難さを克服できるだろう、ということになってしまう。

 そこで、社会が定型発達を前提としたものになっており障害等の多様な人たちのニーズを置き去りにしてしまったことこそが困難さを抱えることになる原因である、と考える「障害の社会モデル」が基本的な考えとなった。障害者権利条約のベースになっている考え方でもある。

 さて、この「障害の社会モデル」はあまり学校現場では浸透していないように思う。その原因として、教員の勉強不足もあるが、学校教育の構造も影響しているように思う。

 学校教育では、理想状態から子どもたちの姿を見て「不備・非力」な点があればそれが「指導対象」となる。学校教育では、子どもたちの「不備・非力」を「ありのままで」と容認するわけにはいかないのだ。つまり、障害によるさまざまな困難さは指導対象となる。そして、どちらかと言うと「障害の医学モデル」に立脚して考えがちになってしまうというわけだ。

 そんな学校教育の構造を理解しつつも、「障害の社会モデル」に立脚して意識的に考える必要がある。学校という場が定型発達を前提として考えられていることを自覚し、より一人ひとりが異なっているということを前提とした場づくりを意識的に行っていく必要があるだろう。

 

終わりに

 国連の障害者権利委員会から日本政府へ勧告(総括所見)について理解し整理しておきたいと思い、久しぶりに重い腰を上げた形になった。書いているとさまざまな側面を書き入れたくなり、なかなか分量が多くなってしまったように思っている。また、国連の勧告や文部科学省の見解を整理することが中心となり、そこに対しての自分の考えはあまり書けていない。書いているといよいよ終わらないように思ったので、今回は泣く泣く割愛した。それについても文章としてまとめたい、と思ってはいる。

 

引用・参考文献

松波めぐみ「『障害者問題を扱う人権啓発』再考―『個人-社会モデル』『障害者役割』を手がかりとして―」部落解放研究、151号、2003

野口晃菜、喜多一馬編著(2022)『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』学事出版

 

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