平田オリザの『対話のレッスン』を読んでいて気になる記述を見つけた。少々長くなるが引用する。
家庭で、教室で、会社で、私たちは、どんどん小さなサークルに囲い込まれ、その
なかでしか通じない記号のような言葉のみを使って生きるように習慣づけられてい
る。一方で、社会は流動化の速度を増し、他者と接触する機会は増えていく。単語だ
けしか話さない子供たちは、やがて他者と出会い、語るべき言葉のない自分に愕然と
するだろう。
〈『対話のレッスン』平田オリザ・講談社学術文庫・2015/06/11・p59〉
教師や学校なんてまさにそうだ。例えば、「主体的・対話的で深い学び」「カリキュラム・マネジメント」「道徳的実践力」等々。こんな言葉は教育関係者しか使わない。
でも、上記したような、ある場所でしか使われない言葉を理解し、身につけ、実践できるということが、専門性ではないだろうか。
いや、専門性ということはそういうことではないのか?
急に「問い」がやって来た。時間はかかると思うが、この問いに自分なりに応えてみるとことにしよう。