小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

多様性が生まれる道筋

 前回、これから推し進められていく「インクルーシブ教育」について考えました。気になる方は過去記事を参照してください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

   簡単にまとめるならば、「インクルーシブ教育」は推し進めていくが、考えないといけないところはあるのではないか、ということになる。考えないといけないことは、「フルインクルージョン」することへの懸念について。デメリットがなるべく生じないようにするにはどうしていくとよいのか、ということである。

 そんな思いを持ち、悶々としていた時に、一冊の本を読んだ。その中に、これから「インクルーシブ教育」を推し進めていく上でヒントになる記述と出会った。

 少々長くなりますが引用します。

 

日本のインクルーシブ教育を象徴するキーワードは2つあります

その1つは、sameness(同じ)です。アメリカではdifferenceが核になると言いましたが、その対

極となる鍵概念です。日本人の場合、生物学的に同じ割合が高いです。日本人は単一民族ではありませんが、アメリカと比べると、肌の色や髪の毛の色が同じ傾向が強く、体格も似ています。文化的に大きな違いはありません。宗教的な対立は少ないですし、食習慣も似ています。

保育・教育の中でも様々な水準で「同じ」が強調されます。もし、子どもが髪の毛を赤くして登校してきたら、大騒ぎになるでしょう。また、授業を抜けて、個別指導を受けることは、障害の有無にかかわらず、多くの子どもが嫌がります。他の子どもと「違う」ことを嫌うからです。ですから、この「同じ」がインクルーシブ教育に影響を及ぼすことは容易に想像できます。実際、「他の子どもと同じように」を求める傾向は強くあります。

日本の場合、多様性とは言いつつも最終的には、「一緒・一斉」という「同じ」を象徴する枠組みの中で保育・教育が行われています。学年も同じ、カリキュラムも同じ、授業内容も同じ、という「一緒・一斉」という強固な枠組みの中で、障害のある子どもも、そうでない子と同じように学ぶことを目指しています。子どもの特性をふまえた上で、様々な工夫が行われることもありますが、そこに通底しているのは、「今、この授業の中で、皆が一緒に学ぶにはどうしたらよいか」という問題意識です。そして、その「同じ」枠から外れた子どもは、「問題」のある子どもとしてとらえられます。

2つ目のキーワードは、relationship(つながり)です。これは、individual(個々)と対極の概念です。

日本では、「障害のある子とない子がともに学ぶ」と言うとき、「ともに」の中に何らかの相互作用を想定します。障害のない子どもと障害のある子どもが、かかわる中でお互いに成長するというのは、多くの実践記録でも報告されています。また、インクルーシブ教育に関係する本の多くが、「つながり」を重視しています。

インクルーシブ教育を考えるうえで「つながり」を重視することは、当然のように思えます。自明のことすぎて、「つながらないインクルーシブなんてない」と思われるかもしれません。

しかし、これまで報告してきたように、〈つながり=インクルーシブ教育の必須条件〉とは言いきれません。少なくとも日本のような「つながり」を前提とする必要はないのです。

Mind your own businessを前提としたうえでの「つながり」と、友達との仲を優先する「つながり」とでは意味が異なります。日本の場合ややもすると、とにかく一緒の場にいるだけではダメで、かかわりあいながらでないと「よい」インクルーシブ教育とは言えないという雰囲気があります。下手をすると「つながり過剰」インクルーシブ教育になります。

(『アメリカの教室に入ってみた』赤木和重・ひとなる書房・2017/01/15・p125-127)

 

  端的に日本の「インクルーシブ教育」についてまとめられているな、と感じた。そして、ここで赤木先生が挙げている二つのキーワード「sameness(同じ)」「relationship(つながり)」も、よく理解できた。

 ここで示された二つのキーワードですが、決して悪いことばかりというわけでもありません。「sameness(同じ)」を志向した文脈の中で、筑波大学附属小学校の桂聖先生らが提唱している「授業のUD」というものが生まれている。「授業のUD」の視点で授業づくりをすると、確かに多くの子どもがよりよく一緒に学ぶことができるようになる。

 「relationship(つながり)」を志向した実践も多く報告されています。そこではノートルダム清心女子大学准教授の青山新吾先生が提案している「集団の中の個」ということが意識されている。簡単に言うと、「個」と「個」をつなげる、「個」と「集団」をつなげるという視点があるということ(青山、2006)。

  しかし、赤木先生が挙げている二つのキーワードのせいで、「インクルーシブ教育」が妨げられている一面もある。この二つのことが強くなると、「one for all」(みんな一緒)を求められるようになる。そこで生まれる同調圧力から派生する「いじめ」等、多くの課題を生じることになる。だからこそ、「インクルーシブ教育」という視点―誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会―から整理し、見直す必要があるだろう。

 見直していく時のキーワードは、やはり「多様性」になるだろう。多様性を生むには、子どもたちに「自己決定の場を与える」ということが必要である、とこれまでに考えてきた。そして、子どもたちが一人ひとり自己決定をしていくことで、「学びが個別化される」ことにつながっていくのではないだろうか。

 ここまでの論をまとめると、教室に多様性が生まれるには―「インクルーシブ教育」を達成するには―「子どもたち一人ひとりが自己決定し、学びを個別化させる」ことが必要、ということになる。

 ここに来て、少し道筋が見えてきたように感じている。「子どもたち一人ひとりが自己決定する場を与える」ということは以前にも話題にした。ですが、「学びの個別化」ということはまだ話題になはしていない。

 そこで、次回からは「学びの個別化」ということを中心に据え、教室に多様性が生まれることについて考えていこう、と思います。

アメリカの教室に入ってみた: 貧困地区の公立学校から超インクルーシブ教育まで

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