小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

技術としての行為

 若手の教室で授業をした。授業が終わった後、若手から「どうしてあんなことをしたのですか?」とお尋ねがあった。僕なりの意図をぺらぺら、と話す。そうすると、「そんなことできてないな、(私にも)できますかね?」という言葉が返ってきた。

 僕は即答で「できるよ!」と言った。続けて「だって、技術だから。技術としてやってるつもり」とも言った。
 そう、授業で行っていることには意図がある。意図がない指導は悪とまでは言わないが、心許ないものである。このような趣旨の話は過去記事にあるので、よければ参照ください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

  話を戻す。指導に意図があるから、その意図が実現するようにする。それは適当にしていても実現しない。ある程度、確実性を見込んで行われないといけない。だからこそ、「技術」ということになる。

 「技術」として提示できないのなら、それは指導できている、とは言えないのではないだろうか。僕はそう思っている。
 もちろん、授業をしていると「技術」ではない、その教師の考えや人となりが出ることはある。それが授業に大きく影響することだってある。でも、それは一旦脇に置いて考えないといけない。
 指導していることを「技術」に分けてみる。それを分けられれば分けられる程、指導できている、と言っていいだろう。気をつけておきたいのは、あくまでも指導できているであって、その指導が効果的であるということを表していないということ。指導の効果は、子どもたちを通さないといけない。そして、「技術」として分けられないものは考え直すか捨てるかしないといけない。
 そんな視点で自分の授業での指導を見直してみませんか。