離れてる気がしないね 君と僕との距離 目をつぶっていても 君の声でわかる表情/僕らはいつも 以心伝心 二人の距離つなぐテレパシー 離れてたって 以心伝心 黙ってたって わかる気持ち
(作詞:ORANGE RANGE、作曲:ORANGE RANGE)
これはORANGE RANGEの「以心電信」の歌詞の一部である。僕たちゆとり世代としては共感できる度合いは違えども、理解できる内容だと思う。
では、こちらはどうだろうか?
これはYUIの「CHE.R.RY」の歌詞の一部である。僕たちとしては、やはり理解はできることだと思う。
どちらもコミュニケーションの形態が変わるエポックを端的に表した言葉だと思う。だからこそ、両者とも人々―特に若者―の心を掴めたのだと思う。
さて、この歌詞はすんなり理解できるだろうか? この二曲の歌詞をすんなり理解できるのなら、それは「デジタルネイティブ」だからかもしれない。
「デジタルネイティブ」とは、デジタル技術に青少年期から本格的に接した世代のことで、およそ1980年前後生まれ以降を指す(木村、2012)。
そうだ、僕たちは「デジタルネイティブ」として我が物顔で、この情報化社会を生きている。
情報化社会の光と影
情報化社会のことを、コピーライターの糸井重里は、「インターネット的」という言葉で表現した。
〝人とつながれる〟〝乱反射的につながる〟〝ソフトや距離を無限に圧縮できる〟〝考えたことを熟成させずに出せる〟などなど、人の思いが楽々と自由に無限に解放されてゆく空間。こういった「情報社会」に生きているぼくたちの身体や考え方、生き方は、どんどん、このようなインターネット的なものになっていると思います。
僕たちデジタルネイティブは、そうでない世代が理解できないぐらいに、容易に人とつながることができるようになった、そしてつながるようになった。もちろん、デジタルネイティブ全員がそうしているわけではない。むしろ、僕たち以降の世代の方がよりそのような傾向は強いかもしれない。そんな彼らを「ネオ・デジタルネイティブ」と呼ぶ論者もいる。
差はありながらも、僕たちデジタルネイティブは、糸井が論じるインターネット的な考え方を内面化している。
だけど、「情報化社会」では、多くの問題も起こっている。ネットいじめやネットを介した異常なバッシングの報道を目にすることは今や日常となっている。
また、2013年に大きく取り上げられた「バカッター問題」もある。投稿する者は、あくまでも悪ふざけであり、内輪のネタとして投稿するが、そのあまりにも酷い内容に炎上が起こる。炎上後に事の重大性に気づいた時には、既に手遅れであり、取り返しのつかない事態となる。
年長者が「失敗も経験のうち」と考えたのに対し、僕たちゆとり世代はリスクを恐れ、失敗を回避しようとする。それにはSNSの普及が大きな原因となっていると思う。「失敗を通じて成長する、むしろ器が大きくなる」という説が間違いだとは思わない。しかし、昔なら「みんな馬鹿なことをやって大人になるんだ、それも人生の経験だよ」と許された、SNSで拡散されることもなく。したがって、警察沙汰にもならなかった。
だが、今はそんな悠長なことを言っていられない。ネットいじめやネットでの異常なバッシングやバカッターは「人生を一瞬で終わらせる力」を持っている。僕たちゆとり世代はそんな時代を生きてきているのだ。
明るいオタク化
「オタク」という言葉からどんなイメージを思い浮かべるだろうか? 今でも良いイメージを抱かない人もいるだろう。だけど、昔ほど忌避される存在でもなくなったように思う。それも情報化社会が大きく影響している。
ネットインフラの整備によって手軽に情報が取れ、評価の高い人気作を簡単に視聴できるようになった。また、付け焼刃、一夜漬けのネットサーフィン程度で、お金や時間を使わず、だれでも「(エセ)オタク」を名乗ることができるようになった。つまり、「オタク」を、自分を特徴づけるキャラとして利用するようになったのだ。だから、若者たちにとって「オタク」という言葉は忌避されるようなものではなくなってきている。むしろ、「オタク」ということを公言し、対人コミュニケーションツールとして活用している。これが「明るいオタク化」の様相だ。
もちろん、上記したような状況を喜ばしいものとして思っていない「オタク」たちもたくさんいる。「オタク」をキャラとして考えている者と「オタク」として生きていると自負する者の間には大きな溝ができてきている。だけど、この問題も情報化社会がある程度解決してくれる。
ネットを使えば、自分の趣味・嗜好と似たような者に出会うことも簡単になった。だから、自分の趣味・嗜好についての周りのリアルな人間関係でコミュニケーションを取る必要を無くさせた。趣味・嗜好の思いを昇華する場を得るのに、なかなか理解してもらえずに「我慢する」とか、同じ趣味・嗜好をもつ人間を見つけるために「努力する」とかいった必要性を無効化した。趣味・嗜好を同じくする仲間を見つけることに社会が努力を強いなくなったわけだ。その自分が心地よい場だけで留まることも容易になったのだ。
しかし、そんな閉ざされた場にいるとどうしても「島宇宙化」してしまう。これ自体は悪くないのだけど、どんどん排他的になってしまう。そうなってくると、前節で述べたような情報化社会の影の部分が色濃くなってしまう。
デジタルネイチャーの時代へ
今まで述べてきたような情報化社会を、僕たちは生きている。僕たちがこれから生きていくのは「デジタルネイティブの時代」というより、「デジタルネイチャーの時代」と言っても差支えがないと思う。
僕たちゆとり世代は当たり前のようにデジタルと共に生きている、どこでも誰とでも繋がってしまえる、デジタルを空気のように当たり前の存在として捉えている、たぶん初めての人類だ。それと同時に、情報化という自然を生きている。そこにある自然は、美しいものもあれば醜いものも混在する、まさに密林といった様相である。だからこそ、「情報リテラシー」という言葉がやかましく叫ばれるのだろう。
糸井重里は、インターネットの光と影をこう表現した。
人間の思いには、善いとされるもの、悪いとされるもの、取るに足らないもの、変わったもの、と、さまざまあります。こういうものが、ぜんぶ集まってくるのもインターネットなわけです。ふつうに生活していく中では目にしなかったものがありますし、存在さえも信じられないというような仰天の情報もあります。ありとあらゆるものが、インターネットの世界にどんどん蓄積されていて、呼び出したとたんに噴き出してきます。
いままで差別されたり押し隠されてきたようなマイノリティの情報発信も、ここでは簡単にできます。グロテスクもエロティックも、人間の社会に存在するイメージは、すべてここに集まっていくでしょうし、受信することもできます。言葉にできることと画像にできること、のすべてが噴き出したときに、いままでの「ないことになっていたもの」までもが見えてきてしまいます。
人類は、ついにパンドラの箱を開けてしまったのかもしれません。これは何だか怖いことですが、無数の欲望の総体が出てくる代わりに、英知の総体も出てくる可能性もあるわけです。
もちろん、デジタルは万能のものではなく、光と影が存在する。僕たちデジタルネイティブは、そんなのすでに承知している。
年長者や識者の「デジタル機器を持つからいけないのだ、そんなの持てなくしてしまえ。無くしてしまえ」という、いささか感情論的な言説も聞こえてくる。だけど、もうデジタル機器を持ってしまったのだよね。もう手放せない。
だから、デジタルの酸いも甘いも噛み分けながら、この自然をこれからも歩いていくしかないのだろう。デジタルネイチャーとして。
引用・参考文献