小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

ネガティブリストから始めよう

魔法の杖

 子どもや若者が関わっている事件が起きると、決まって「今の教育(教師)はどうなっているんだ」という教育バッシングが始まる。ここでは、「教育(教師)がおかしくなっているから、○○という問題が起きる」という問題の立て方・見方が成されている。このような発想の裏にあるのは、「教育(教師)さえしっかりしていれば、○○という問題は起きないはずだ」という教育への期待である。

 そして、「教育(教師)の失敗」を原因と見立て、様々な事件や、子ども・若者の好ましくないと思われる変化を結果と見る。そういう、原因と結果の結びつきを暗黙の前提に、教育を問題視するようになった。仮に、教育に責任の一端があったとしても、身の丈以上のことが、教育(教師)には期待されているだけなのかもしれない。まるで、教育(教師)が様々な問題を解決できる「魔法の杖」かのように見なされている。

 教育社会学者の苅谷剛彦は著書の中で、「過剰なまでの教育(教師)への期待」について、以上のように述べた(苅谷剛彦増田ユリヤ、2006)。

 教育現場にいる僕にとっては、このような苅谷の論述には大いに肯ける。これは2006年の論述であり、約20年を経過している。しかし、一つも色褪せていない論述であるように思う。いや、むしろ現在の方が、苅谷が述べているようなことが色濃くなってきているようにも思う。教育(教師)が、ますます「魔法の杖」、あるいは万能薬かのように見なされてきている。

 

着ぶくれする教育

 しかし、どうして過剰なまでの教育(教師)への期待が湧き上がってくるのだろうか? この問いに対して、苅谷は「不安の裏返し」と答えている。

 親は、どんな子どもにも、少なくとも最初のうちは、何にでもなれる「可能性」を読み取りたいと願う。この「可能性(できるかも・なれるかもしれないという見方)」が、期待の源泉であり、こうした期待を持つからこそ、その裏返しとして子育ての不安が生じるのである。

 また、現代は「相対主義」の時代。つまり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。決まった答えが見つけにくい時代とも言い換えることができる。よって、より子育てや教育の「答え」が細分化され、一つに定まりにくくなっている。

 そこで、教育(教師)に期待し、「こんなふうにできたらいいな、こうなったらいいな」ということを次々に挙げていき、リストに書き連ねていった。「確かな学力」「健やかな体」「個性の尊重」「英語教育」「道徳性の涵養」「総合的な学習の時間」「インクルーシブ教育」…。挙げると切りがない程、多くのことが書き連ねられた。このように、全てのことができると完璧な人間が育つ、のような考え方を「ポジティブリスト」の考え方と言う。

 だけど、これだけのものを増やし続けているにも関わらず、今まで行ってきたものを減らそうとは考えられていない。どんどん「ポジティブリスト」を長くしていき、それに囚われ、身動きがとれなくなっているのは、当事者である子どもであり、教師なのである。

 

本質に迫る

 「ポジティブリスト」の考え方で考えられた教育は、着ぶくれし、身動きがとり辛くなってきている。そして、多くのものを取り込んだ教育は、各自の「理想」が持ち込まれてしまっている。そこでの「教育語り」の正解は、まさに「神々の争い」そのものの世界なのである。

 だからこそ、今一度「ネガティブリスト」の考え方で、教育を発想する必要があるのではないかと考える。「ネガティブリスト」の考え方とは、「最低限こんなことをしておいて、後は放っておこう」という考え方である。「何を守るのかを考える」と言い換えることもできる。

 前節でも述べたように、現代は、「相対主義」の時代である。確かにもちろん、この世に絶対に正しいことなんてない。それは、教育でもそうである。でも、だからと言って、何につけても「共通了解」に辿り着けないことを意味するわけではない。お互いに話を続けていくうちに、「なるほど! それって確かに本質的だ!」と納得し合えることがある。だから、「教育」って何なのか、といったテーマについても、対話を通して、その「本質」を深く了解し合える可能性がある。

 

参考・引用文献