今週のお題「寿司」
お寿司おいしいですよね。定期的に食べたくなります。
今週のお題「寿司」
お寿司おいしいですよね。定期的に食べたくなります。
今週のお題「住みたい場所」
住みたいところね…、特に考えたことがない。
「住めば都」という思いがあるので、住んでいるところが住みたいところなのだと思う。
ただこれだともう終わってしまうので、もう少し考えてみる(笑)。
住みたいところは、暑くなく寒くなく、でも四季は感じることができ、食べ物がおいしく、近くに大きな書店と図書館があるところ。
そんなところあるのかな、という疑問はいったん横に置いておく。
自分が望むことを詰め込んでみた。僕てしてのポイントは、やはり最後の大きな書店と図書館である。この二つが揃うなら、後はほどほどでいいかな、とさえ思えるぐらいである。
と、いろいろと希望というか願望を書き綴ったのではあるが、結局今住んでいるところが住みたいところだな、と思っている。
GIGAスクール構想により、一人1台端末が整備されることとなった。しかし、整備はされているがなかなかスムーズに運用まで到達できていないように思っている。
そんな思いを持ちながら二冊の本を手に取ってみた。
一冊目『GIGAスクールはじめて日記』
実際にどのように運用しているのかということを知ることができる。多くの写真が掲載されているので、具体的なイメージを持ちやすくなっている。本書でイメージを持ち、そこから実際に使ってみるというステップを踏めばいいのではないだろうか。
やはり、最後は実際に使ってみて、トライ&エラーを繰り返すしかないのかな、とは思っている。
二冊目『はじめての授業のデジタルトランスフォーメーション』
具体的な使用方法について述べられているので参考になる。それよりもこの一冊は、事例の紹介だけでなく、なぜ一人1台端末を導入するのか、という目的にも言及されている。その部分に割かれているページが多いように思った。
だからこそ、読み応えがある一冊になっている。これから実践していく上で、繰り返し読みたい一冊に間違いない。
一人1台端末を使いこなしていく上でとても参考になる二冊であった。
今週のお題「一気読みした漫画」
一気読みした漫画はいくつかある。それを他の記事で紹介したこともあるので、かぶらないように考えてみる。
飲食系はついつい一気読みしてしまうかな。
一つひとつの話が単純というか明快なのが一気読みに合うのだろう。 伏線を読んでいくとか、登場人物の関係の整理ということはほとんどない。だからこそ、一気読みできる。
そして、それを読みながらスナック菓子なりジュースなりが進みまくる(笑)。 気がついたら一気読みをし、お腹も満たされているという状況になっている。 徹夜ということではないのだけど、ページをめくる手がなかなか止まらないのは確かである。
何冊か一気読みした漫画を紹介しておくので、よければ手に取ってみてください!
自由の相互承認
「自由の相互承認」という原理を教育論の根底に置きたい。「自由の相互承認」とは何か。少し長くかつ迂遠になるが以下で説明する。
人類が、それまでの狩猟採集生活から定住・農耕・蓄財の生活へと徐々に移行していくようになったのは、約一万年前のことと言われています。これは大きな人類の進歩であった。
しかし、蓄財の始まりは、その奪い合いの始まりでもあった。ここから戦争の歴史が始まった。このことを竹田は「普遍闘争原理」と呼んでいる(竹田、2016)。
ホッブズは、この「普遍闘争原理」を制御するには「全員が従う超越権力を創り出してここに実力を集めること」「ルールを設定し、これを犯す者にはペナルティを与え、そのことで利害や相互不信を調停すること」という「原理」を提示した。つまり、「覇権の原理」である。しかし、「覇権の原理」で現れた秩序も長くは続かない。ある者が天下統一を完成させたと思ったら、また新たな者がそれを覆そうとする。それは歴史を見れば明らかである。
そこで、ルソーはホッブズが示した「覇権の原理」に「自由」(の権利)の確保という条件をつけ加えた。そして、「社会の全員の合意による「人民権力」の創出」という原理を示した。つまり、社会の成員すべてが互いを「自由」な存在として認め合い、その上で権限を集めて統治権力を創るということである。
このようにして、人々のそれぞれが「自由」を達成するための「原理」は深まっていった。そして、ヘーゲルによって集大成が示されることとなる。
人々が「自由」になりたいのであれば、「自分は自由だ!」と、ただナイーヴに主張するのではなく、あるいはそれを力ずくで人に認めさせようとするのでもなく、まずはお互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う。そしてその上で、相互の納得が得られるように、互いの「自由」のあり方を調整する。これを「自由の相互承認」の原理と言う(苫野、2011)。
自己承認・他者承認・他者からの承認
前節で「自由の相互承認」の原理の説明を行った。教育哲学者の苫野一徳は、この原理を、学校・社会の土台とすることを主張している。そのため、公教育が育成を保障すべき「教養=力能」は「学力」と「相互承認の感度」である、とも主張している。また、この「相互承認の感度」は、自己承認・他者承認・他者からの承認という、三つの条件がそろってようやく十全に育まれるものである、と述べている(苫野、2013)。
自己承認は、この連載でも論じた「自尊感情」とつながるものがある。そこでも述べたように、日本の若者の自尊感情は低い。だけど、低いからよくないというわけではない。また、高すぎるのもよいというわけではない。適度な自尊感情を持つことが必要なのだ、と思う。
さらに、現代は「相対主義」の時代であり、世界には絶対に正しいことなんてなく、人それぞれの見方があるだけだという考えが、広く行き渡っている時代である。だから、なかなか「自分には能力がある」とは思えない。そのため、身近な人々の承認を絶えず気にかけ、身近でない人々の価値を貶めようとする、底なしの「空虚な承認ゲーム」にはまってしまいがちである。
このような状況では、なかなか自己承認することができない。だから、自己承認には他者からの承認が必要になる。つまり、心の「安全基地」という存在が必要になる。
「安全基地」が確保されていると、次第に「安全基地」から遠く離れていようと、あまり不安を感じることもなく、探索活動、つまり仕事や社会的な活動に打ち込めるようになる。
この「安全基地」は、親―とりわけ母親が多い―が担うことが望ましい。しかし、誰もが「安全基地」を持てる―親が担うことができる―のかというと、そうでもない。そこで、教師が子どもたちにとっての、心の「安全基地」となり、どの子も安心できる場をつくる。そうすることで、徐々にでも自己承認を育むことができるであろう。
そして、他者承認。繰り返しになるが、「自由の相互承認」という原理は、お互いがお互いに、相手が「自由」な存在であることを認め合う、ということが肝である。だからこそ、この他者承認を育むことが重要になる。他者承認を育むためには、トートロジー的になるが、他者を承認する経験をするしかない。では、他者承認を育むにはどうしたらよいだろうか? ここでは、「アドラー心理学」の「共同体感覚」を下敷きにし、論じる。
昨今人間関係の希薄化が進む中で、家庭や地域社会において社会性を身に付ける機会が減少し、望ましい人間関係を築く力等の社会性が身に付けにくくなっていると指摘されている。
それは、子どもたちも例外ではない。子どもたちは、同じ学級に在籍していても「全員が仲間」と感じるわけではなく「何となく知っているけど別に仲は良くないよ」と言った感じである。例えるなら「群れ」でいるだけである。
そのため、「群れ」でいる一人ひとりを意図的・計画的に繋げる必要がある。具体的には、協働する(せざるを得ない)機会を保証し、どの子にも協働体験を得られるようにする。そこでは、なるべく子どもたちに任せる。そうすると、子どもたちは、時に揉め、葛藤し、未熟な姿を露わにする。そこを乗り越えさせ、繋がりを形成し、自分と他者との相互依存を認め合えるようにしていくのである。つまり、協働させることで、子どもたちの「共同体感覚を育む」と言うより、「共同体感覚を掘り起こす」のである。
「情けは人の為ならず」という言葉があるように、人に情けを掛けておくと、巡り巡って結局は自分のためになることがある。だから、まずは他者を承認する。そうすると、巡り巡って他者からの承認が得られるのだろう。
参考・引用文献
今週のお題「そうめん」
今週のお題「わたしのプレイリスト」
プレイリストというかYouTubeのミックスリストを見てみた。そこから上にあった三曲を紹介する。
①「listen to the radio」マカロニえんぴつ
②「猫」北村匠海(DISH//)
③「白日」King Gnu
①のマカロニえんぴつの曲は、ラジオでたまたま耳にしてメロディーが離れなくなった一曲。ラジオのキャンペーンソングなので、何度も流れていた。でも、ラジオなのでタイミングが合わないこともあり、あまり聴けていなかった。そこでYouTubeで探し回っていたという一曲。すぐに聴けるのはいいのだけど、何となくラジオで聴きたい一曲である。
②③はちょっと変な出会いをした。初めて耳にしたのはクセスゴの大村晴空(大村親子)の替え歌。替え歌なのでメロディーを聴いたというのが正しいかもしれない。そこでメロディーを聴き、ちゃんと原曲を聴きたい、と思い何度も再生してみた。
このたまたま出会った三曲が、僕のプレイリストである。
プロレスとはこういうものだと決めない。自由である。それがプロレスの魅力だと思うんです。(by三沢光晴)
プロレスとは何でもありである。クラシックなプロレスがあれば、ルチャリブレがある。デスマッチがあれば、コミカルなものもある。
振り幅が大きい、と言える。もっと言えばプロレスは「自由」なものである。それぞれがこんなプロレスが一番という「理想」のようなものは持っている。もちろん、それがぶつかり合いイデオロギー闘争がないわけではない。
しかし、そんなイデオロギー闘争を経て、やはりどれもよさがある、ということをプロレスでは共有しているのではないだろうか、と思う。三沢光晴の言葉を借りると、それこそがプロレスの魅力ということになるだろうか。
これを教育にも当てはめることができる。当てはめることができるというか、当てはまっているというのが適当かもしれない。
「教育」というのもこれが唯一のものというのがない。ないわけではないが、それは部分であって全体ではない。
だからこそ、何でもありの様相を呈している。このことはネガティブな側面でもある。しかし、ポジティブな側面から捉えたい。ある程度の注意を払うことで、いろいろなものを取り込むことができる。だから、自分なりにアレンジできる余地があるし、自分が大切にしているものを反映することができる。
だからか、教育において「豊かな人間性」が必要、と言われる。これは品行方正という意味ではない(もちろん、品行方正であることは悪くないが)。自分が経験したことや考えていることが豊かという意味である。
それは、「教育」というものが「自由」なものであるからこそである。これが「教育」の魅力でもあり、難しさでもあるのではないだろうか。
このようなことを三沢光晴の言葉から考えさせられた。
2013年の刊行ということで、少し古くなってきているが、それを感じさせない一冊である。
筆者の東京大学での講義を基にしているので、特別支援教育の基本的なところから歴史や事例まで網羅されている。だから、特別支援教育を学び始めた者にとっては必読の一冊である。
最後の辺りでは、今までの特別支援教育の取り組みを総括し、未来の展望に言及されている。ここでのメッセージがとても熱いものであった。その部分を引用する。
この日本という国を、「どの国よりも障害者に優しい国」「世界で一番、障害者に優しい国」にしていこうではないか。そのようなチャレンジは、「障害者だけに優しい国」ではなく、結局、「どの人も、大切にされ、学びやすくて暮らしやすい国、豊かに幸せに生きていける国」ということになるのだと思う。
この引用した部分は特別支援教育に携わる者には、是非とも知っておいてもらいたい。この部分を読むだけでも十分に価値のある一冊である。そして、ここから感じたことや考えたことを是非とも交流したい。きっと熱い気持ちでいっぱいになるだろう。
特別支援教育という挑戦に是非とも取り組んでみませんか。
今週のお題「雨の日の過ごし方」
早くも梅雨の季節がやって来ている。雨というとやっぱり面倒という方が勝ってしまう。全く雨が降らないと水不足になってしまうので、ある程度雨は降ってもらわないといけないが。
そんな雨の日は、外に出ないといけない用事がない限り、ほぼ家にいて引きこもっている。やっぱり、わざわざ外出しようという思いにはならない。
だけど、これは雨の日に限ったことではないような気がする(苦笑)。雨が降っていなくても引きこもっている。だから、特に変わりはないな、と思ってしまう。
こんなことをいつも言っているような気がする。でも、これが偽りない真実なので。それに、別に引きこもってしまっていることについて何も思っていないし(笑)。
前回まで、ゆとり世代である僕が見て、感じた社会について論じたつもりである。
そして、前回の記事の最後に以下のように書いた。
ここまでである程度、ゆとり世代である僕たちが生きてきた時代について描写できた。では、こんな時代にはどのような教育を行っていくとよいだろうか、と問いを進めていきたい。
ということで、僕なりに「理想の教育像」なるものを描き出してみよう、と思う。かなり大きなことを言っているということは肝に銘じている(笑)。しかし、自分なりに描き出すという作業を経ないといけない、と思っている。
ということで、僕が考える「理想の教育像」を以下に書き出してみる。
規律があり、その中で主体性を持ち、協働でき、多様性を認め合うことができる
しなやかな教育
~自由の相互承認(自己承認・他者承認・他者からの承認)をベースとして~
と、考えた。
これに基づいて、また連載を続けてみることにする。
いつも楽しみにしている「授業づくりネットワーク」の新刊。今回のテーマは「若手教員とどう歩んでいくか」ということ。
「若手教員をどう歩ませるか」ではなく、「若手教員がどう歩んでいくか」でもない。細かい所ではあるが、「若手教員と」という所がミソである。
若手教員は、導かないといけない存在ではなく、また放っておいていい存在でもない。そういう思いのようなものが、今回のテーマに込められている、と感じられた。
読んでみると、それぞれの現場で工夫されていることや意識されていることを幅広く知ることができる。
若手教員を育てる、サポートするということは、自分がしてきてもらったことを恩送りすることのように思う。また、自分がしてほしかったことを送ることのように思う。
そして、その送った者がきっと未来の誰かにも送られることになるはずだ。そう考えると、若手教員とどう歩んでいくか、ということは未来の教育を創っていくことにつながることがわかる。
もっと言うと、若手教員と共に未来の教育を創っていくことを通し、自分自身も成長することになるのではないだろうか。きっと若手教員の姿から、自分の今までの教師生活を自然と振り返ることになるだろう。そこでの気づきというか学びのようなものは自分にとっても有益なものになるだろう。
若手教員と共に歩む存在でありたい、と強く思えるきっかけとなった。
今週のお題「やる気が出ない」
やる気がでない、そんなのしょっちゅうである。