小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

追いかけて秋

 お買い物したときのちょいとイイ話を思い返してみる・・・。

 一つ思い出すエピソードがあった。それは買い物ではなく、飲食店での話である。

 もしかするとお題から少しそれているようにも思うが、せっかくなので書いてみることにしよう。

 ある秋のとき、僕は友人と居酒屋へ行った。

 割と何度も言ったことのある店であるが、常連とは言えない程度の頻度で行く店であった。もちろん、店員の方と気安く話をする間柄ではない。

 そんな居酒屋で友人と楽しく飲み食いをしていた。そして、〆としてお茶漬けか何かを注文した。しかし、なかなか商品が届かない。

 次の予定(ハシゴ)があったので、数百円だしまあいいかというふうに思い、会計を済ませ店を出た。

 夜道を歩きながら目的地を目指していると誰かが追いかけてくる物音が聞こえてきた。

 少しビクビクしながら歩いていると、僕たちの前に人が出てきた。それは先ほどの居酒屋の店員の方であった。

 〆の商品を提供できなかった分の金額を返却するために追いかけてきてくれたことがわかる。数百円だからいいのだけど、ここまでしていただいて受け取らない選択肢はなく受け取った。

 後からゆっくり考えると、商品は提供はされていないけど作り始めていたのなら、受け取るのは申し訳なかったのではないか、と思った。

 その恩に? 報いるには、これからもお店に通うことだろうと勝手に思っている。コロナ禍で足が遠のいているが、また行きたい店の筆頭である。

第73回『算数授業研究』公開講座

 先日、第73回『算数授業研究』公開講座に参加した。

 『算数授業研究』とは、筑波大学附属小学校算数部が出版している雑誌である。教育系の雑誌を何冊か定期購読しているが、『算数授業研究』はけっこう前から定期購読していた。

 講座のメインは田中英海先生の「単位量あたりの大きさ(速さ)」の授業公開。授業公開ではあるが、事前に行われた授業映像を見ながら協議をするというものである。協議会のパネラーとして、夏坂哲志先生と盛山隆雄先生が参加されていた。

 田中先生の授業では、改札の切符切りの速さを提示することで速さの概念をつくりあげていくという提案であったように思う。

 昔の切符切りや現代のICチップでの通過の動画を通して、子どもたちは自然と速さについて考えていた。

 日常生活から算数問題を見出していくというのは学習指導要領改訂から言われていることではある。しかし、なかなかイメージがわかず教科書問題を使うことが当たり前のようになっている。日常生活から題材を持ってくるという面白さを感じることが出来る授業であった。

 もちろん、何でも持ってきたらいいわけではない。そこに授業者としての意図が必要である。そして、意図がきちんと意図通りに働いていたのかは客観的な視線も交えながらチェックする必要がある。

 そんなことを協議会での夏坂先生と盛山先生の言葉から考えた。お二方の鋭い意見というか視線から、授業を考える深さについて自戒をこめつつ考えた。

 算数授業についていつもより真剣に考える時間となった。とても刺激を受けた講座であった。『算数授業研究』を定期購読していてよかったなと思う時間にもなった。

 算数授業について考えたい方にとっては必読の雑誌である。是非とも定期購読をおすすめしたい。

動物に乗ります・・・?

今週のお題「乗ったことがある動物」

 

 動物に乗った記憶はない。あったとすればせいぜい馬だろうか。いや、馬も触ったことはあれど乗ったことはないはずだ。
 お題になるぐらいなのでそれなりに一般的なことを想定されているような気がするのだが、そんなに動物に乗ることは一般的なのですか?
 乗ったことのない僕が少数派なのだろうか?
 別に心配になっているわけではなく、疑問を抱いたのである。そんなにみなさん動物に乗るのだろうか、そんなに動物に乗りたいのだろうか、と。
 動物に乗ることはあまり考えたいことがないので、乗ることのできる動物は馬や象ぐらいしか思いつかない。
 そこで、人が乗ることのできる動物についてググってみる。
 ラクダ、イルカ、ロバ、ゾウガメ等といくつかの動物が挙げられている。みなさん乗ったことがあるというか、乗りたくなる動物はけっこういるのだな、と思った。
 だからと言って、乗りたいと思わない自分がいるのだけど(笑)。動物を信頼していないというか恐怖が勝っているように思う。
 先にもあとにもこんなに動物に乗ることに時間を取って考えることはないように思う。そう考えると貴重な経験だったのだろうか?笑

子どもの安心を探して 川上康則×松本俊彦

 先日、子どもの安心を探して 川上康則×松本俊彦 『不適切な関わりを予防する 教室「安全基地」化計画』『「助けて」が言えない 子ども編』W刊行記念イベントに参加した。

 お二人の著者の言葉を直接聞きたい、お二人がコラボすることで新たな何かが生まれることを楽しみにして参加した。

 川上先生が『「助けて」が言えない 子ども編』の内容を確かめながら松本先生がお話しするというような流れで話は進んでいた。

 教育現場と医療現場は機能やスタンスのようなものがけっこう違うように思ったが、根っこの部分はずいぶんと似通っているように思った。

 松本先生が、数校の学校教育目標を聞きながら、こんなの大人でもできないことが並べられているようなことを話されていた。そして、指導することはダメ出しすることになっているようなお話もされていた。

 確かにそうだなと思いながらお話を聞いていた。しかし、学校教育や学びには子どもの不備を指摘し(ダメ出し)、そこを指導して伸ばしていくという構造がある。これは学校教育が手放してはいけないことだとも思う。だからと言って、このことに無頓着で学校教育や教師の持つ権力性を振りかざすだけではいけないようにも思っている。

 そんなことをまとめつつ質問を行った。

 川上先生から現在の学校教育目標やそれぞれの学級目標に、ありのままでいいんだよ多様な人がいてもいいんだよということが入ってくるといいですよね、というようなお答えをいただいた。

 学校教育の構造や教師の特権性はありながらも、これからなら無理なく始められるように思った。二枚舌のように思われるかもしれないが、これは両立できるように思うし両立させないといけないように思う。

 では、言葉だけでなく行動できるような環境やシステム、文化といったものをどのように学校や教室でつくりだしていくのかを考える必要がありそうだ。

 参加してよかったと大いに思えるイベントであった。また、著書にも目を通して記事にしたい。

日々を忘れないために・・・

特別お題「わたしがブログを書く理由

 

 忘れたいような失敗はたくさんしている。考えてみるといくつも思い浮かべることができるぐらいに。割といろいろなことを覚えている方だと思うので、けっこうな頻度で失敗したことを思い出す。そして、思わず舌打ちをしていることもある。

 だけど、失敗したことをきれいさっぱり忘れ去りたいのか、と聞かれると、「そうではない」というのが答え。忘れたいのだけど、忘れ去ってまた同じような失敗をしたくない。また、事が終わって何も考えずに過ぎ去っていくというのも嫌だ。

 だから、忘れたい思いはあるが、忘れないように記録に残そうとしている。

 例えば、学校の一大行事である運動会。コロナ禍前を想定すると、運動会の日に打ち上げがある。そこで「大変だったけど、よかったね」と労を労う。

 しかし、ここで何か忘れていないか、と僕は考えます。練習から運動会当日までの間にいろいろなことがあります。それを忘れ去り、「とりあえずよかった」と思ってしまっていないか、と。

 まあ、例えではあるのですが、学校現場ではありがちな姿かな、と思う。それではもったいないというか、ダメだろうと思っている。だからこそ、日々のことを忘れないように書いているのである。

 ブログだけでなく手帳等にも書いているのは僕にとっては備忘録のためである。日々のことを忘れ去ってしまわないために。

パイナップルは凶器である

今週のお題「パイナップル」

 

 パイナップルと言えば、タイトルにあるように凶器として使われることが思い浮かぶ。そのこで記事にしてみよう。

 かなり前の話になるが、水曜日のダウンタウンで「松本人志がメキシコからきた謎のマスクマンとしてプロレス会場に登場してもバレない説」というものがあったことを覚えているだろうか?

 覚えていない方や番組を見ていない方もいるので簡単に内容を説明する。

 松本人志さんがマスクマンに扮してプロレス会場で観客にばれないようにレスラーとしてセコンド業務をするというものであった。ちなみに、潜り込んだプロレス団体は「DRAGONGATE(ドラゴンゲート)」であった。

 そんなセコンド業務の中で凶器を取るように指示される。芸人らしくメガホンやハリセンというプロレスの凶器にはなり得ないものをチョイスする。

 そして、次にパイナップルを手に取り手渡す。それが採用されパイナップルで攻撃を繰り出していた。番組のテロップでは「採用されてしまった・・・」という、ボケだったのにも関わらずのようなニュアンスであった。

 しかし、DRAGONGATEではパイナップルを凶器にするレスラーがいるので、ボケでも何でもなく大正解である(笑)。それを水曜日のダウンタウンで説明し出すと意味分からないので、仕方のないことである(笑)。

 DRAGONGATEを長年見てきた僕にとっては、かなり印象的なシーンであり、未だにパイナップルを見ると思い出してしまっている。そんなことを記事にする日が来るなんて思いも寄らなかった。

嫌な思い出がくっついて・・・

今週のお題「苦手だったもの」

 

 苦手なものはちくわの磯辺揚げだった。過去形ではある。

 ちなみに、現在は大好物とは言わないが、割と進んで食べている。アルコールのお供には持ってこいだとも思っている(笑)。
 そんなちくわの磯辺揚げが苦手になったのは小学生の頃だった。
 小学生で歯がはえかわる時期というのがある。ちょうど乳歯がぐらついてきて気になっていた時期に、給食のメニューとしてちくわの磯辺揚げがだされた。
 何気なくちくわの磯辺揚げにかじりつくとぐらついていた乳歯で噛んでしまったようで痛みを感じた。
 食べた後も痛みを感じていたので、その日か次の日辺りに歯医者へ行った。どうしてだったかはわからないが、乳歯を抜いてもらいさらにドリル? か何かで治療をしてもらった。それが痛かったというか怖かったというか。
 そんな嫌な思い出がちくわの磯辺揚げにくっついてしまったということだ。
 そんな僕の思い出なんて知るわけもないので、給食ではちくわの磯辺揚げと相対することになる。
 給食だけでなく出されたものはなるべく食べないといけないと思っているので、何とか食べていたようには思う。
 現在はそんな思いよりもアルコールとのマリアージュが優先され、苦手ということはない(笑)。
 記事を書くことで苦手なものというのは、きっとさまざまな原因があるのだろうなと思う機会となった。

鍋の〆

今週のお題「これって私の地元だけですか」

 

 地元よりもさらにローカルな話にして、自分の家の話を書いてみる。
 冬によく家族で食べるものと言えば何でしょうか?
 異論はあると思いますが、僕の家では鍋であった。週末になれば必ずと言っていい程、食卓には鍋が並んでいた。
 いろいろな味を楽しむことができるし、野菜もけっこう食べるのでよいメニューだと思います。
 そして、鍋と言えば〆が欠かせない。もちろん、家でも鍋の〆を楽しみに食べ進めていた。まあ、たいてい雑炊かスープになるのだが。
 さて、家を出て外で鍋を食べることもある。そこで、鍋奉行とまではいかないが甲斐甲斐しく鍋の世話をかって出ることがある。
 そこで、僕は何のためらいもなく麺類を注文して途中で鍋に投入する。
 そうすると、突如どこからともなく「待った」の声がかかる。「麺は〆だから最後でしょう」と。
 僕の家では麺は途中で投入して食べることが普通であった。何なら麺のおかわりもしていた。さらに、〆は雑炊とかを食べていた。
 「いやいや麺は途中で食べつつ〆もすればいいじゃないですか」と反論するも、なかなか受け入れられることはない。まあ、受け入れてほしいとも思っていないのですが(笑)。
 これって僕の家だけなのでしょうか?
 いや、きっとなかなか声をあげられていないだけでけっこうな方がそうしていることでしょう!

国連に正対する③

障害の社会モデル(人権モデル)という考え方

 国連から要請されている(b)の内容を改めて確認する。

 

  (d) 通常教育の教員及び教員以外の教職員に、障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に関する研修を確保し、障害の人権モデルに関する意識を向上させること。

 

 インクルーシブ教育についての研修は十分とは言えないかもしれないが、現場レベルや教育委員会レベルでも行われている。きっとその質を問われているようには思う。それでも研修の確保はそれなりにできているだろう。

 それよりもこの要請では、最後の障害の人権モデルに関する意識を向上させることの方が重要なのだと思う。

「障害の人権モデル」という言葉はあまり聞いたことがなかった。理解不足は否めないのだが、障害の人権モデルは障害の社会モデルのことのようである。

孫引きになり恐縮であるが、1993年に国連総会で採択された「障害者の機会均等に関する基準規則」では既に社会モデルが採用されており、「障害者権利条約」制定に向けた動きのなかでは、社会モデルを「人権モデル」と呼ぶ提案が行われている(松波、2013)。

 このような経緯により、障害の社会モデルではなく障害の人権モデルと呼んでいるようである。しかし、僕としては障害の人権モデルよりも障害の社会モデルの方が、耳なじみがあるので、ここからは障害の社会モデルを使っていくことにする。

 簡単に「障害の社会モデル」について説明する。

 障害のある人は障害があるからさまざまな困難さを抱えることになる。このように考えるのが「障害の医学モデル」である。これは最もらしさがある考えではある。しかし、このように考えると障害のある人が努力すればその困難さを克服できるだろう、ということになってしまう。

 そこで、社会が定型発達を前提としたものになっており障害等の多様な人たちのニーズを置き去りにしてしまったことこそが困難さを抱えることになる原因である、と考える「障害の社会モデル」が基本的な考えとなった。障害者権利条約のベースになっている考え方でもある。

 さて、この「障害の社会モデル」はあまり学校現場では浸透していないように思う。その原因として、教員の勉強不足もあるが、学校教育の構造も影響しているように思う。

 学校教育では、理想状態から子どもたちの姿を見て「不備・非力」な点があればそれが「指導対象」となる。学校教育では、子どもたちの「不備・非力」を「ありのままで」と容認するわけにはいかないのだ。つまり、障害によるさまざまな困難さは指導対象となる。そして、どちらかと言うと「障害の医学モデル」に立脚して考えがちになってしまうというわけだ。

 そんな学校教育の構造を理解しつつも、「障害の社会モデル」に立脚して意識的に考える必要がある。学校という場が定型発達を前提として考えられていることを自覚し、より一人ひとりが異なっているということを前提とした場づくりを意識的に行っていく必要があるだろう。

 

終わりに

 国連の障害者権利委員会から日本政府へ勧告(総括所見)について理解し整理しておきたいと思い、久しぶりに重い腰を上げた形になった。書いているとさまざまな側面を書き入れたくなり、なかなか分量が多くなってしまったように思っている。また、国連の勧告や文部科学省の見解を整理することが中心となり、そこに対しての自分の考えはあまり書けていない。書いているといよいよ終わらないように思ったので、今回は泣く泣く割愛した。それについても文章としてまとめたい、と思ってはいる。

 

引用・参考文献

松波めぐみ「『障害者問題を扱う人権啓発』再考―『個人-社会モデル』『障害者役割』を手がかりとして―」部落解放研究、151号、2003

野口晃菜、喜多一馬編著(2022)『差別のない社会をつくるインクルーシブ教育』学事出版

 

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国連に正対する②

フルインクルージョンを目指して

 国連から要請されている(b)の内容を改めて確認する。

 

  (b) 全ての障害のある児童に対して通常の学校を利用する機会を確保すること。また、通常の学校が障害のある生徒に対しての通学拒否が認められないことを確保するための「非拒否」条項及び政策を策定すること、及び特別学級に関する政府の通知を撤回すること。

 

 ここでは二つの項目が指摘されている。一つが障害のある子どもが地域の学校へ通う機会を保障すること。もう一つが特別支援学級に関する通知についてのこと。この節では、障害のある子どもが地域の学校へ通う機会を保障することについての考えを以下にまとめてみる。

 2012年に中央教育審議会から出された「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進」で、「インクルーシブ教育」という言葉が使われるようになった。ここで、障害のある子どももない子どもも「同じ場で共に学ぶことを追求する」という原理が打ち出された。また、これまでに存在してある多様な場―特別支援学校、特別支援学級、通常学級、通級による指導―も、今までのように整備する原理も打ち出された。

 そして、2013年に学校教育法施行令が一部改正された。従来は、就学基準に該当する子どもについては特別支援学校に原則就学するべき、とされていた。しかし本改正により、障害の状態、本人の教育的ニーズ、本人・保護者の意見、教育学、医学、心理学等専門的見地からの意見、学校や地域の状況等を踏まえた総合的な観点から就学先を決定する仕組みに改められた。最終的な判断は教育委員会が行うものとなっているが、留意事項として「保護者の意見については、可能な限りその意向を尊重しなければならないこと」とされている。

 就学に関して本人・保護者の意向を最大限尊重するように変更されたが、学校教育法施行令第 22 条の 3 に規定する障害の程度の子どもが地域の学校に在籍する人数は多くはないように思う。これはあくまでも和僕の感覚ではあるが。

 また、就学指導の現場に居合わせたことはないが、「地域の学校に通いたいなら保護者の付き添いが必要」「地域の学校に通うと思うような支援が受けられないこともあります」等と言われるケースもあるだろう、と想像している。

 インクルーシブ教育を推進するために、学校現場が障害のある子どもに対応していけるようになっていかないといけないのはもちろんである。だからと言って、これは学校現場だけの課題ではない。地域の学校で障害のある子どもが当たり前に通える環境を整えるための具体的な目標、予算、スケジュールを検討する必要がある。これは、国や地方自治体としての教育施策全体の課題だろう。

 

強気な文科省

 さて、もう一つの指摘である「特別支援学級に関する通知の撤回」とは、2022年4月27日「特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について(通知)」(以下、通知)のことを指している。

 通知では特別支援学級に在籍している児童生徒については、原則として週の授業時数の半分以上を目安として特別支援学級において児童生徒の一人一人の障害の状態や特性及び心身の発達の段階等に応じた授業を行うこと。」と示されており、「原則として週の授業時数の半分以上を目安」ということが大きな話題となった。

 このような目安を示すことになった理由を文部科学省は以下のような指摘をしている。

 

 文部科学省が令和3年度に一部の自治体を対象に実施した調査において、特別支援学級に在籍する児童生徒が、大半の時間を交流及び共同学習として通常の学級で学び、特別支援学級において障害の状態や特性及び心身の発達の段階等に応じた指導を十分に受けていない事例があることが明らかとなりました。冒頭で述べたとおり、インクルーシブ教育システムの理念の構築においては、障害のある子供と障害のない子供が可能な限り同じ場でともに学ぶことを追求するとともに、一人一人の教育的ニーズに最も的確に応える指導を提供できるよう、多様で柔軟な仕組みを整備することが重要であり、「交流」の側面のみに重点を置いて交流及び共同学習を実施することは適切ではありません。

加えて、同調査においては、一部の自治体において、

特別支援学級において特別の教育課程を編成しているにもかかわらず、自立活動の時間が設けられていない

・個々の児童生徒の状況を踏まえずに、特別支援学級では自立活動に加えて算数(数学)や国語の指導のみを行い、それ以外は通常の学級で学ぶといった、機械的かつ画一的な教育課程の編成が行われている

・「自校通級」、「他校通級」、「巡回指導」といった実施形態がある中で、通級による指導が十分に活用できていない といった事例も散見されました。

 

 つまり、文部科学省特別支援学級において障害の状態や特性及び心身の発達の段階等に応じた指導を十分に受けていないということを危惧したということである。また、文部科学省が示している、就学先決定の具体的なプロセス等について徹底を図るという意味合いもあるだろう。

 この通知が出され各地では戸惑いの声や否定的な声が上がるようになる。そこでの声を大雑把にまとめると「交流及び共同学習の時間を制限することは、インクルーシブの理念に逆行し、障害のある子供の排除につながるのではないか」ということになる。

 そんな声に対して、文部科学省「本通知は特別支援学級で半分以上学ぶ必要のない児童生徒については、通常の学級に在籍を変更することを促すとともに、特別支援学級在籍者の範囲を、そこでの授業が半分以上必要な子供に限ること等を目的としたもので、むしろインクルーシブを推進するものです。」と答えている。

 文部科学省の見解と否定的な声を上げている者の見解は相容れないものがある。それでもどちらもどちらの立場から考えると正しいことを述べているように思う。しかし、国連から通知の撤回を勧告されており、通知に対して否定的な声が大きくなっているように思う。それに対して文部科学省「本通知は、むしろインクルーシブを推進するものであるため、撤回の予定はございません。」と一歩も譲る気配はない。

 

予算削減への思惑

 ここまで通知やそれに対しての否定的な声、またそれに対して文部科学省の答えについてまとめてきた。通知で示されている「特別支援学級に在籍している児童生徒については、原則として週の授業時数の半分以上を目安とする」というものは、僕も特別支援学級担任をするときに知った。

 これは前々からあったものなので、今回の通知で僕の周りに混乱はあまりないように思った。よって、この通知に戸惑いを抱いているのは、もっと極端な授業時数で運営している学校・地域なのでであろう。どこの学校・地域がと示すことはできないが、少なくとも大阪府は当てはまっているのではないだろうか。

 大阪府は地域差があるだろうが、「原学級保障」という取組を行っている。原学級保障について原田ら(2020)は以下のように説明している。

 

 原学級保障は、端的に言えば,障害のある子どもが通常学級で他の児童生徒と共に学ぶことを保  障しようとする実践である。それは、現在、大阪の人権・同和教育で一つの理念として重視される「ともに学び、ともに育つ」教育を具体化する取り組みだと言えよう。「共生・共学」を目指す実践は大阪だけではなく、関東など他地域でも見られたが、「原学級保障」は大阪以外の他府県ではほぼ聞かれない用語であり、大阪独自の実践としての性格が強い。

 

 このような原学級保障の取組を行っている学校では、いわゆる特別支援学級担任が通常学級に入り込んで指導を行っているようだ。また、通常学級内で特別支援学級在籍児童を支援するだけでなく、特別支援学級在籍ではない気になる児童も支援を行う。学校によっては特別支援学級担任が通常学級の教科を受け持つケースもあるようだ。

 原学級保障の取組を行っている地域では、医療機関等での診断がなくとも特別支援学級に入級することのできる所もあるようだ。さらに、年度初めの入級だけでなく、ニーズが認められれば年度途中で入級することのできる場合もあるようだ。

 これだけ見ると、一人ひとりのニーズに応えることのできる制度のように思う。

 しかし、医療機関等での診断を不問にし、一人ひとりのニーズを柔軟に応えることにより疑念が生まれる。その疑念とは特別支援学級に在籍しなくてもよいと思われる子どもも入級している可能性である。他の都道府県や地域では、通級による指導で対応している子どもや入級できない子どもが大阪府では特別支援学級に在籍しているのかもしれない。

 もちろん、医療機関等での診断がないからと言って、特別支援学級に在籍しなくてもよいということではない。原学級保障の取組で行われているように、一人ひとりのニーズや困り感に寄り添うのが理想的である。

 しかしながら、原学級保障の取組を行うことで人件費はかさむことになる。特別支援学級だと児童8名に対し教師が1名ということになる。在籍児童が増えれば教師の数も増えることになる。また、特別支援学級数が増えれば教師の数も増えることになる。

 文部科学省は通知の履行を求めている裏に予算削減への思惑も抱いているのではないだろうか。そんなことを考える通知内容である。

 

野口晃菜(2022) “国連が日本政府に勧告「障害のある子どもにインクルーシブ教育の権利を」”

https://news.yahoo.co.jp/byline/noguchiakina/20220910-00314466

文部科学省(2022)“特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について (通知)”

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.mext.go.jp/content/20220428-mxt_tokubetu01-100002908_1.pdf

文部科学省(2022)“特別支援学級及び通級による指導の適切な運用について(通知)Q&A”

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.mext.go.jp/content/20221102-mxt_tokubetu02-100002908_1.pdf

原田琢也・濱元伸彦・堀家由妃代・竹内慶至・新谷龍太朗(2020)「日本型インクルーシブ教育への挑戦-大阪の「原学級保障」と特別支援教育の間で生じる葛藤とその超克-」金城学院大学論集 社会科学編、第16号2巻、24-48

 

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国連に正対する①

日本への勧告内容

 2022年9月9日、国連の障害者権利委員会から日本政府へ勧告(総括所見)が出された。総括所見の内容は懸念93項目、勧告92項目、留意1項目、奨励1項目となっているようだ。

 その中でも強調されているのが、第19条「自立した生活及び地域社会への包容」と第24条「教育」となっている。簡単に言うと地域生活とインクルーシブ教育のことである。

 第19条の内容も気になるところではある。しかし、分量としても多くなってしまう。そこで今回は、「第1回政府報告に関する障害者権利委員会の総括所見・和文仮訳」の第24条についての内容のみを引用する。

 

教育(第24条)

   51.委員会は、以下を懸念する。

(a) 医療に基づく評価を通じて、障害のある児童への分離された特別教育が永続していること。障害のある児童、特に知的障害、精神障害、又はより多くの支援を必要とする児童を、通常環境での教育を利用しにくくしていること。また、通常の学校に特別支援学級があること。

(b) 障害のある児童を受け入れるには準備不足であるとの認識や実際に準備不足であることを理由に、障害のある児童が通常の学校への入学を拒否されること。また、特別学級の児童が授業時間の半分以上を通常の学級で過ごしてはならないとした、2022年に発出された政府の通知。

(c) 障害のある生徒に対する合理的配慮の提供が不十分であること。

(d) 通常教育の教員の障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に関する技術の欠如及び否定的な態度。

(e) 聾(ろう)児童に対する手話教育、盲聾(ろう)児童に対する障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)を含め、通常の学校における、代替的及び補助的な意思疎通の様式及び手段の欠如。

(f) 大学入学試験及び学習過程を含めた、高等教育における障害のある学生の障壁を扱った、国の包括的政策の欠如。

52.障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に対する権利に関する一般的意見第4号(2016年)及び持続可能な開発目標のターゲット4.5及び4(a)を想起して、委員会は以下を締約国に要請する。

(a) 国の教育政策、法律及び行政上の取り決めの中で、分離特別教育を終わらせることを目的として、障害のある児童が障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)を受ける権利があることを認識すること。また、特定の目標、期間及び十分な予算を伴い、全ての障害のある生徒にあらゆる教育段階において必要とされる合理的配慮及び個別の支援が提供されることを確保するために、質の高い障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に関する国家の行動計画を採択すること。

(b) 全ての障害のある児童に対して通常の学校を利用する機会を確保すること。また、通常の学校が障害のある生徒に対しての通学拒否が認められないことを確保するための「非拒否」条項及び政策を策定すること、及び特別学級に関する政府の通知を撤回すること。

(c) 全ての障害のある児童に対して、個別の教育要件を満たし、障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)を確保するために合理的配慮を保障すること。

(d) 通常教育の教員及び教員以外の教職員に、障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)に関する研修を確保し、障害の人権モデルに関する意識を向上させること。

(e) 点字、「イージーリード」、聾(ろう)児童のための手話教育等、通常の教育環境における補助的及び代替的な意思疎通様式及び手段の利用を保障し、障害者を包容する教育(インクルーシブ教育)環境における聾(ろう)文化を推進し、盲聾(ろう)児童が、かかる教育を利用する機会を確保すること。

(f) 大学入学試験及び学習過程を含め、高等教育における障害のある学生の障壁を扱った国の包括的政策を策定すること。

 

 仮訳であるので、少し読みづらい箇所もあるように思う。それでも障害者権利委員会の言わんとしていることは伝わる内容となっているように思う。

 さて、勧告の内容は多岐にわたっている。その中の要請されている(b) (d)に焦点を当てて考えていきたい。

 

引用・参考文献

障害者権利委員会(2022)“第1回政府報告に関する障害者権利委員会の総括所見”

chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100448721.pdf

ピーピー

今週のお題「最近壊した・壊れたもの」

 

 夏だからか歳だからかお腹を壊すことが増えているように思う。どちらかと言うと、後者が大きな原因のように思っている・・・。

 昔は好きなものを好きなときに好きなだけ食べても特に何もなかった。しかし、最近ではさまざまなことを考えていないと、数時間後または次の日に痛い目にあうことになる。

 とは書いているが、いちいち食べるときにさまざまなことを考えていない。だから、痛い目にあってしまうのだが、なかなか昔の感覚が抜けない。

 油っぽいものがよくないときもあれば、量が多すぎたことがよくないときもあれば、賞味期限をきちんと守っていないことがよくないこと等と、原因はさまざまである。

 どれが原因かはいまいちわかっていないが、とにかく言えることはもう若くないということ。まあ、これは事実である。

 まだ大きく体調を崩すということは、最近はないので用心しながら楽しみたいとは思っている。とか言いながら、きっと羽目を外してしまうのだろうな、と思っている(苦笑)。

頭の上から・・・

今週のお題「ゾッとした話」

 

 あれはもう5・6年前の話になる。あまり思い出したくないのだが、せっかくなので記事にしてみる。

 当時住んでいた場所は、窓にシャッターが付いていた。雨風を防ぐ、不審者の侵入を防ぐというような意味合いで備え付けられていたのだろう。

 しかし、当時の僕にとっては無用の長物であったので、シャッターを下ろすということはしていなかった。

 ふとしたときにそのシャッターの付いている窓の下のフレーム? の所がひどく汚れていることに気づいた。こまめに掃除なんてする習慣はなかったので、汚れていて当然だろう、と思っただけであった。

 そして、確か秋の始まりの頃に台風の影響か天気が荒れる予報となった。そこで、いつもは見向きもしないシャッターを思い出した。こういう時にこそシャッターを下ろすのだ、と。

 意気揚々とシャッターを下ろすと同時に、頭の上に何かが落ちてきた。驚きながら手で振り払いながら頭上を見ると、そこにコウモリが数匹飛んでいた・・・。

 そこからはパニックを極める。とりあえず部屋の扉を閉めて、他の部屋に退散した。しかし、それでコウモリがどこかに飛んでいくわけではないので、業者を呼ぶことにした。

 業者の方に任せ、事件発覚から1時間半後には何事もなかった状態になった。そこで、窓のフレームが汚れていたのはコウモリの糞であったことを教えてもらった。

 コウモリにとってはシャッターの裏というのは雨風を防ぐことができ、また天敵に攻撃される心配もないので、よい場所のようだ。

 そこからは何もなくともシャッターを毎日のように下ろすようになった。そこからはコウモリと遭遇することはない。できればもう自宅では会いたくはない。

好きなフレーバー

今週のお題「ベストアイス2023」

 

 暑い日が続きます。まさにアイス日和と言える日が続いています。
 僕のアイスの遍歴? は相変わらずと言ったところである。
 しかし、例年と少し違うのはサーティワンアイスクリームをたまに食べていること。それでも「たまに」なので、詳しくはありません。
 そして、サーティワンに行ったとしても十中八九「クッキーアンドクリーム」を選んでしまう。
 だって、おいしんですもん。他のはわかったようなわからないようなものもあり、なかなか手が伸びない。
 サーティワンに行っておいてそれはもったいないだろう、ということはちゃんとわかっています(苦笑)。
 それでも安牌を選んでしまうのは共感していただけるところだろう、と信じています。
 おすすめのフレーバーがあれば是非とも教えてください!

日々自由研究

今週のお題「自由研究」

 

 自由研究は学生の頃にした記憶がない。やろうと思ったこともある。図書館かどこかで本を手に入れてやってみようとしたことはあるように記憶している。しかし、最終的に形にはなっていないように思う。

 そんな僕は現在毎日のように学校現場に身を置いている。よって、毎日が自由研究のように思っている。

 毎日自由研究を行っていると失敗する、上手くいかないことはたくさんある。それを、失敗と思わず実験だと思うようにしている。そして、自分自身のすることなすことを「実験過程」として捉える。

 こう考えることで、失敗にまとわりつくマイナスイメージも払拭されるだろう。そして、今までより多くのことを失敗から学べることになる。もちろん、それでも失敗することは避けたいという思いはある。

 それでも、失敗するということは成功に近づいている証だと思い。日々自由研究にいそしんでいる。