子どもに寄り添いながら指導・支援することの大切さを、
特別支援教育は考え方
「特別支援教育」は、現在学校現場で広く浸透してきている、と感じている。「特別支援教育なんて必要ない」と、正面切って言う人はほぼいないだろう。しかし、広く浸透した弊害なのかもしれないが、「これをやれば特別支援教育」なんていう誤解も広く浸透してきている、と感じている。
そんなことを丁寧に「違うんです、こう考えてみませんか」と、本書では語りかけてくれる。
一部になるが引用する。
自分を含めて、特別支援教育サイドの人間は、とかく従来の障害児教育の手法を当てはめようとしてしまうことがある。もちろん、整理整頓された教室環境が重要なのはいうまでもないけれど、子どもの支援ニーズに適しているかという検討がなされなければ「形骸化」するだけだと思う。
教育現場が今、本当に向き合わなければならないのは「合理的配慮の申請にどう対応するか」といった目先の問題解決ではなく、差別や偏見のない社会をどのようにつくっていくかを本気で考えることではないだろうか。
差別や偏見は、無理解と誤解によって生じる。合理的配慮を「甘え」や「易きに流れる」と考える発想は、間違いなく無理解と誤解による産物であるといえる。
このような記述に出会うことができる。もちろん、多くの子どもに有効な手法というか手立てはある。それを理解しつつ、目の前の子どものニーズを見極めて、手立てを打ちたい。
目の前にいる子どものニーズを見極め、そこに手立てを打ち、指導・支援していくことこそが「特別支援教育」ではないだろうか。そんなことを考えさせられた一冊であった。
特別支援教育を一から学びたい者から特別支援教育を深めたい者まで網羅される内容となっている。だから、是非とも一読をおすすめしたい。
クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。
クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。(by高木三四郎)
この言葉にはもう少し続きがある。せっかくなので全体を引用する。
クリエイター気質って、すごく大事なんですよ。プロレスって、クリエイティブのセンスがないと絶対にできないものだと思います。試合って、一つの作品なんです。プロレスラーは、クリエイターでありアーティストでなくちゃいけない。ただ単に、フィジカルがすごくても、お客さんを面白がらせるプロレスはクリエイトできないんです。その試合を、世間とお客さんに伝えていくための要素を持っていないと成立しないと僕は思っています。
この二つの要素を持ち合わせるのはなかなか難しいことだろう。どちらかに振れてしまっているというのもよくあることだろう。それは得手・不得手があるので仕方のないことではある。しかし、なるべくバランスよく考えることのできるよう努めていくことが大切なのだろう。
この高木三四郎の言葉は、教師にも当てはまる言葉である。
授業や学級を創るというのは、かなりクリエイティブなことである。アーティスト的に自分が身を粉にして創っていくというのが必要ではある。でも、いつもいつも自分が前面に出てしまっているのもよくはない。要はバランスということ。
でも、このバランス感覚を持てていないのか意識できていないのかわからないが、一方に振れてしまっている様子をよく見る。これは自戒を込めてということでもあるが。
だからこそ、この高木三四郎の言葉を頭に入れておきたい。現場にいるとどうしてもアーティスト的な者が称賛され、アーティスト的を目指そうとしてしまう。それだけじゃないのだよ、と。いや、むしろそれだけでは弊害があるのだよ、と。
このようなことを高木三四郎の言葉から考えさせられた。
晩酌をしつつ
今週のお題「おうち時間2021」
昨年にも似たようなお題で記事を書いた。
なってみてわかることがある
僕の勤務校は新年度の早いうちに「不審者対応避難訓練」を行う。不審者対応では、教職員しかわからないように合図を出す等、けっこう細かな打ち合わせみたいなものがある。だから、新年度の早いうちに実施している。
そこでは、もちろん不審者役の教員が必要となる。だいたいは担任外の教員が抜擢? されることとなる。
それが僕のところにやってきた…。担任をしていないのでまわってくるかな、とびくびくしていたのだが、現実となってしまった…。いや~、向いていないのだけどな、と思いながら断れなかった。
そこは覚悟を決めて臨むこととする。勤務校であるので教室配置や廊下がどこにつながっているかは熟知している。だから、不審者としてはかなり有利な条件となる。自分なりにシミレーションを行った。
そして、不審者対応訓練を不審者役として終える。
やってみて思ったことは、頭が真っ白になってしまうことってあるのだな、ということ。僕は予定した中でかなりシミレーションを行い、当日を迎えた。それでも、緊張からか思っていた通りにはできなかったし、やっている最中は無我夢中といった状態であった。
「事件当時のことを覚えていない」「頭が真っ白になり何をしたのかわからない」というような供述を犯人がしているという報道をたまに見聞きする。それを身をもって実感した。そういうことだってあるのだな、と。
なってみてわかることがあるのだ、ということを改めて考えた。よいきっかけというのは違うようにも思うが、考えることの多い体験であった。
日本酒事始め
お酒を呑むことができるようになった時、割りと早い時期に日本酒を口にしたように記憶している。それ以来、日本酒は好きなアルコールの一つである。そんな日本酒のことを、ちゃんと知っておきたい、と今さら思い手に取ってみた。
日本酒の基本のキから丁寧に教えてくれる良書である。また、日本酒の素晴らしさを改めて感じられる一冊である。
読みながら、今まで適当に日本酒を呑んできてしまっていたのだな、と少し反省した。これからは、もう少ししっかりと考えて日本酒を呑むことができるかな、と思う。まあ、日本酒を呑むのにちゃんともしっかりもないような気がするが(笑)。
まあ、これからは自分なりに知識を持ってこれから呑むことができそうである。でも、だからと言っていちいちその知識を引き出しながら呑むというのは無粋なことであろう。
ということで、とりあえず呑んでみて自分が「おいしい」と思える日本酒を探していきたい。それが見つかった時には、この本から得た知識を活用することになるだろう。
日本酒好きは押さえておきたい一冊に間違いない。是非とも手に取ってもらいたい。
いっちょやってやるか!
別にやる気がないわけではない。
晴れの日のもの
今週のお題「お弁当」
子どもの頃、お弁当というものは特別なものであった。
教育格差を見つめる
膨大なデータを基にし、教育格差があるということを暴いた一冊。
現場にいる者としては、同じ学年・学級であったとしても、決して一律ではなくまだら模様になっていることは肌感覚として理解していた。そこにデータが提示され、その感覚を確かにした。
そして、この格差を縮めるには並大抵の努力では達成されないということもわかった。しかし、現場にいる者としてはそこで「はい、そうですか」と簡単に受け入れるわけにはいかない。だからこそ、考えないといけない。
著者の松岡亮二は以下のように語っている。
SESによる教育格差は、学問的とは言えない表現をするのならば「愛」――高SESの親が「子に最善の機会を与えたい」という気持ち――に立脚するのだろう。子の社会的成功を自分の達成と捉える自己「愛」も入り混じった感情だ。自分の子供のために良かれと思って多くの機会を与えようとし、自らの教育経験に基づき意識的・無意識的に資本を駆使して教育達成に繫がるような子育てを行う。それは当然の行為ともいえ、これからも高SESの親が続けるのは間違いない。教育制度による介入をしないのであれば、格差は不可避である。
それで何がいけないのか? と思う人もいるかもしれない。自分は比較的高SESだから、現状のままでいい、と。それはとても正直な感想である。ただ、低SESの子供たちの可能性に投資しないことで、わたしたちは潜在的な損失を受けているかもしれない。想像してみよう。一人ひとりに教育機会がもっと与えられていれば、あなたが癌になったとき、担当医は現在の平均的な医者よりも優秀かもしれないし、新しい抗癌剤を創薬する研究者も増えるかもしれない。ありとあらゆるモノ・サービスの質はもっと上がるだろう。環境保全に対する行動も全体として改善し、短期的な利己心を押し通す人が減って社会そのものがより生きやすくなるかもしれない。
だから、格差を縮めようとすることが、社会全体の底上げにつながる、という望みを忘れないでいたい。格差を縮めるというのは、格差で苦しむ当事者だけでなく、社会全体のものなのである。
つまり、教育格差は私たちの課題なのである。そして、教師こそがその教育格差にアプローチできる現場の最前線にいるのである。
間取りを妄想してみる
今週のお題「間取り」
間取りなんて、ちゃんと考えたことがない。
大社長かく語りき
DDTの試合をあまり見たことはない。でも、プロレスファンとしては当然知っているし、興味を持っていた。そして、かなり考えてプロレスをしているな、と思っていた。だから、その一端を大社長の高木三四郎の口から語られていて、とても興味深い内容であった。
僕は常々、プロレスは教育と通ずることがある、と考えている。だから、教師=プロレスラーなのだ、とも考えている(笑)。これはけっこう真面目に考えていることでもある。真面目にというのは、何だかおかしいような気もするが。
ということで、再読しながら高木三四郎が語ることを、教育を考える時にも援用できるのではないか、と考えた。僕としては「そうだよな」「これは使えそう」等と思いながら読むことができ満足できた。
そう思えた箇所をいくつか引用する。
プロレスのなかで一番大事なのは、常に冷静に対応できるかどうか。戦ってヒートアップしても、頭に血が上っていてはダメ。かといって、まったく冷静というか、無表情に戦ってしまうのもダメで、そこのバランスが難しいんです。お客さんの視線を確認しながら。そのバランスをどう取っていくかを考えて行動するということですね。
いいレスラーは、自分の体の見せるべきところを知っているんです。さらに、きめポーズ、決めゼリフ、そして決め入場曲の3本が揃えば間違いないんです。アントニオ猪木さんで言えば、「1、2、3、ダーッ」とか「炎のファイター」、決めゼリフなんか山ほどある。プロレスラーはキャラクタービジネスなんで、この3つが認知されればやっていけるんです。
これだけを見せられても何もわからないかもしれない(笑)。詳しくは「プレレス教育論」の記事で書きますので、よければチェックしてみてください。
経営視点から読めば参考になることがあるし、プロレス視点から読めば楽しむことができる、そんな一冊となっている。だから、どなたも楽しめる一冊である。だから、プロレスが好きでない者やプロレスには興味ない者も是非とも一度手に取ってみてほしい。
こんな先生になっているか?
物語に登場する女の子トリシャ。そのトリシャが5歳になった時、ある儀式を行った。おじいちゃんが本の表紙にはちみつをたらし、それをトリシャが舐めるというもの。そして、家族みんなで「そう、ハチミツはあまーい。本もあまーい。よめばよむほどあまくなる!」と歌う。
この儀式は家族にとって大切なものであり、家族の誰もが通ってきた道なのであろう。こんな儀式を終え、トリシャは自分もたくさんの本を読みたい、という希望を抱く。
だけど、トリシャはいっこうに本が読めない。本という以前に、字を読めない。小学校に入学しても読めない。全然読めない。トリシャは焦りながらも、得意な絵を描いて、焦りを紛らわしていた。しかし、年を重ねてもいっこうに読めない。そうしていると、クラスメイトからからかわれるようになってきた。トリシャは自分で自分を責めるようになる。そして、休憩時間には人目につかない所でひっそりと過ごすようになる。
そんな時に出会ったのがフォルカー先生である。フォルカー先生は、トリシャをクラスメイトから守り、トリシャの美術的センスを賞賛し、字を読めるように丁寧に指導してくれた。そのかいあってか、徐々にトリシャは字を読めるようになる。
ここまで読んだ方は察しているかもしれないが、このトリシャはLDである。この物語はLDの少女に寄り添う教師の在り方を示唆している作品である。
「僕は彼ら彼女らにとってのフォルカー先生になっただろうか?」と、この節目の時期に自分自身に問いかけたい。そんな思いを持ちながら、彼ら彼女らにしっとりと読み聞かせたい作品である。
攻めるための必需品
4月になり、学校現場では新年度を迎えます。この時期は学校現場で一番忙しい時期ではないか、と思う。本当にバタバタする。バタバタしていると、多くのことに圧迫される。そして、抜け落ちてしまうことも多くなる。つまり、後手に回ってしまうことが多くなる。
そうならないよう仕事を攻めるという意識を持ちたい。そのためには、多くのことに圧迫されないよう一つひとつのことを確実に片づけていくことが必要になる。しかし、バタバタしているうちに忘れてしまうこともある。
だから、手帳を用い、バタバタしてるうちに忘れ去ってしまうということをなるべくなくせるようにしている。手帳には「To Doリスト」を書いたり、一日の終わりに、その日に思い出せる象徴的なことに対しての気づきや思いを書くことにしている。
仕事を攻めるという意識を持つために、手帳は必需品となっている。手帳の活用法みたいなものを以前に記事にしていたので、よければ参照してください。