小さな教室からの挑戦

小さな教室でのささやかな挑戦を書き綴ります。

熊谷晋一郎『「共に生きる」覚悟』

 先日、そらともプロジェクトオンライン連続講座 第5期「共に生きる社会へ〜インクルーシブを『自分ごと』として考える」という、熊谷晋一郎先生の講座に参加した。そこで考えたことや感想を書いてみる。

 一つ目は、障害の社会モデルについて。

 医学モデルから社会モデルへの移行ということは何度も耳にしたことがある。本人ができていないところや足りていないところをできるようにするのではなく、現在の本人ができることを活かすため環境を変えていくということ。この社会モデルが基本的な考え方になる。

 しかし、教育現場では本人ができていないところや足りていないところを伸ばしていくことに力を傾けがちである。それは学校教育の特性上なくすことはできないように思っている。だからと言って、それだけでなく社会モデルを意識し、環境を変えるということも考えないといけない。要はバランスが大切ということだろうか。

 二つ目は、当事者研究と外在化について。

 熊谷先生の専門の一つが当事者研究になると思っている。当事者研究は、本人がどのような感じ方や考え方をしているかを丁寧に読み取ることができるような形にしていくこと、と理解した。そこではジャッジをしないことが大切な態度になることがわかった。どうしても話を聞いていると「それは○○だよ」等とジャッジをし、ときには指導までしてしまう。そうなると本人の感じ方や考え方を引き出すことができなくなってしまうのだろう。

 当事者研究を進めていく中でどうしても本人にとって大きな課題が出てくる。それをはっきりさせるために当事者研究をしているのだろう。そこで、大切になるのが外在化。本人に課題があるというのではなく、本人と課題を切り離して考えてみるということ。反省ではなく省察がキーワードになる。

 三つ目は自立と依存について。このお話が聞きたくて参加した。

 自立を大きな目標として、学校現場で奮闘している。しかし、自立とは独力で何事もできるということではない。もちろん、自分のできることは自分でしたらよい。それでも自分ではできないことはある。それをできるようになるというよりは、できる人や物に頼れるようになることが必要になる。つまり、積極的に依存していきましょうというススメである。これは何も障害のあるなしに関係のない視点だろう、と思った。

 以上が僕なりの学びになる。長くて読みづらいところは多々あるだろうが、どちらかと言うと備忘録のようなものなのでご容赦ください。

日々を忘れ去らないように

今週のお題「日記の書き方」

 

 僕は日記を書いているという意識はない。日々のことを忘れ去らないように書き残しているという意識である。僕はそれを手帳に書き記している。

 このことについては過去にもいくつか記事にしているので、よければ参照してください。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 では、なぜ日々のことを手帳に書き記しているか、ということ。

 例えば、学校の一大行事である運動会。コロナ禍前を想定すると、運動会の日に打ち上げがある。そこで「大変だったけど、よかったね」と労を労う。

 しかし、ここで何か忘れていないか、と僕は考えます。練習から運動会当日までの間にいろいろなことがあります。それを忘れ去り、「とりあえずよかった」と思ってしまっていないか、と。

 まあ、例えではあるのですが、学校現場ではありがちな姿かな、と思う。それではもったいないというか、ダメだろうと思っている。だからこそ、日々のことを手帳に書いているのである。

 そして、たまに時間のあるときにパラパラと手帳をめくりながら、そのときに書いたことを読み返している。たまにではあるが、そこから新たな気づきのようなものも生まれる。

 以上が僕の日々を忘れ去らないための方法です。

複式授業から学ぶ

 以前、特別支援学級の授業は複式学級の授業に似ているのではないか、という記事を書いた。

kyousituchallenge.hatenablog.jp

 特別支援学級は、複数学年が在籍することが多い。1~6年生が勢ぞろいしているということもないわけではない。しかし、教師の体はもちろん一つである。時間割によっては付きっ切りで指導できる時もあるが、全員がそろっている時や複数名いると付きっ切りで指導することはできない。そうなると、自ずと子どもが自分自身で学びを進めていく時間が発生する。子どもが自分自身で学びを進められるようにするには、教師の意図的な指導が必要になる。

 以上が、過去記事の簡単な紹介であり、僕の課題意識である。そして、複式教育を参考にすればよりよいのではないか、という仮説を持っている。

 そこで、複式教育について調べた。ググって頭に出てきたものに目を通してみた。 それは、長崎県教育センターが作成した「子どもの学びを支える複式授業」である。

www.edu-c.news.ed.jp

 読んでみると、複式授業のキーワードとして「直接指導と間接指導」、「異学年集団」というのがあった。それは特別支援学級にも重なることだろう。

 直接指導を行うときに、学習の見通しを持てるようにし確認し間接指導に入る。そして、学び方を身につけられるよう指導していく。これは特別支援学級でも意識したいことだと思った。また、このように指導していくために学習過程を各学年でずらす(ずらし)ということも考える必要がある。このような学習過程は、特別支援学級でも日々考えていることである。大いに参考になる。

 異学年集団では、上学年が下学年に温かい眼差しを向け、下学年は上学年に憧れの眼差しを向ける。そのような集団になればよりよくなる。異学年であるが同じ学級に在籍しているのなら関わり合い、磨き合う集団にしていきたい。なかなか関わり合いは難しいところがあるのだが(笑)。難しいからこそ取り組んでいかないといけないように思っている。

 やはり複式授業(複式教育)から学べることがあった。また、僕が考えて意識していることは間違った方向には行っていないように思えた。

買ってよかったものを三つ

今週のお題「買ってよかった2022」

 

 買ってよかったものについて、一年を振り返りながら書いてみる。いくつか思いついたが三つにまとめてみる。
 
①ノートパソコン
 ノートパソコンが重くなってきてストレスを感じていた。しかし、まだ使えるには使えるしと思いながら使っていた。だが、ブログを書いたりする等がなかなか進まなくなってきたので一念発起して購入した。
 やはり快適である(笑)。早く買い換えておけばよかったな、と強く感じた。しかし、使い慣れるまでは少し時間がかかるだろうな、とも思っている。
 これが今年一番印象的な買い物である。
 
大正製薬 VICKS

 季節の変わり目は体調を崩しやすい。僕も多分に漏れず体調を崩した。喉の痛みがあることがよくあった。いろいろとのど飴を使ってみたが、気休め程度のものばかりであった。

 いろいろと試しているうちに、このVICKSを使ってみた。そうすると、すぐによくなった。まあ、たまたまかもしれないが、僕にとっては買ってよかったものである。

 

③純度100%! 有田哲平のプロレス哲学

 この本はプロレスファンでおなじみである、くりぃむしちゅー有田哲平の一冊である。同じプロレスファンとして、これは読まなくてはと思い、すぐ手に取った。

 ここで書評のようなものを書くのは違うので簡単に言うと、とても面白い内容であった。プロレスファンは必読の一冊と言って過言ではない。

 また改めて記事にしたいと思う。

気づきから拓かれる

 例えば、「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」と、指導します。しかし、子どもたちにとっては他の選択肢もあります。「騒いで話を聴かない」「授業は面倒だから、参加しない」等。だが、そういう道は無いかのように、「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」ということを価値づけ、子どもたちをそちらに向かって進ませます。

 いや、決して「授業では教師や友達の話を聴き、学ぶ」と、指導することは間違っていないとは思います。教師としては当然の指導だとも思っています。だけど、残念ながら「洗脳」という側面を全面的に否定できないとも思っています。

 このようなことを考えていると、年々素で楽しめないというか喜べなくなってきている自分がいる、と感じています。何だかいろいろと考えてしまう。考えられるからこそ、考えてしまうのであって、これが悪いことだとは思っていない。だけど、現場にいる以上、いろいろなことは止まって待ってくれない。だから、結局悩みながらも答えは出ないけども進んで行くしかないのです。

 悩んでしまうのなら、このような気づきはかえって良くない、と思われるかもしれない。だが、僕はそう思わない。そう考える理由を、再び学校の例を挙げながら説明したい。

 授業を構想する時に教材研究を行う。教材研究を通して、今まで知らなかったことや考えたことないことまで視野に入れることとなる。しかし、教材研究を通して獲得したもの全てを授業の中に組み込むことはしない。してしまいたくなるが、してしまうとだいたい容量オーバーとなってしまう。それに、子どもたちを置いてけぼりの授業になってしまう。

 では、教材研究は不必要なのか、というとそういうわけではない。教材研究を通して、今まで知らなかったことや考えたことのないことを考えることで、確実に指導の幅が広がる。三を分かっているという状況で三を投げかけることと十を分かっているという状況で三を投げかけるのは違う。きっと、指導する際の言葉は違ってくるだろう。だから、教材研究を行うということは必要なのである。

 つまり、気づきがあるからこそ、実践の幅が広がるのではないだろうか、ということである。

 一つの気づきが、自分の考えや認識を拓いてくれる。だからこそ、こうやってブログに細々とでも記事にすることを続けているのだろう。

教師としてのエポック

今週のお題「人生変わった瞬間」

 

 人生が変わった瞬間と言われてもピンとくることはない。しかし、教師人生が変わった瞬間というか、大きな転機になったときはある。それについて記事にしてみようと思う。

 教師人生の大きな転機になったのは、どうしても上手くいかないというか、歯車が噛み合わないときのことである。学級崩壊のように周囲からは見えていたかもしれない。そんなときがあった。それは僕の指導力の低さやキャラに合っていないような指導をしていたこと等が原因であった、と現在は思っている。それについて詳しく話すのは今回のテーマではないように思うのでこの辺で。

 そんなときに、「この仕事を続けていけるかな」と思うことが何度もあった。それぐらいしんどい思いをしていた。まあ、そんなときを何とかかんとか乗り越えたというかやり過ごせたので今があるのだけども。
 

どうしても、足元は気になってしまう。だけど、そこに拘ってしまうと、身動きが取れなくなってしまう。そこで、少し遠くを眺めてみる。そうすることで、足元が気にしていたことを、少し忘れることができる。

 学級が荒れることはしんどいことだ。しかし、何年かするとそれもよい経験となることが多い。「あの時、学級が上手くいかなかった経験が、現在の学級経営につながっている」等と。

 僕はこの苦しい時期を経験したからか、今は特に苦しい、と思わずに過ごすことができている。もちろん、いろいろとはあるのだけど。それも、あと何年かするとよい経験であった、と思える時が来るようになる、と確信している。そう思えるのは、しんどい時期を経験したからだろう。
 これは決してしんどくても頑張って! というエールを送っているわけではない。しんどかったら少し遠くを眺めてやり過ごしましょう、という諦め? のすすめである。それに、どうしてもしんどいければ誰かに助けてもらってもいいし、小休止を取ってもいい。
 使い古された言葉ではあるが、やまない雨はないということだ。繰り返しになるが、雨をやり過ごしたり、雨宿りするのもいいはずだ。

ジャッジをさせない

 子どもたちは教室で関り合いながら日々の学校生活を過ごしている。この関り合いは、一つの教室に同地域の同年齢の子どもを集めていることの大きな意義であろう。新型コロナウイルスの影響で、それを制限することをしないといけないところもあるが、気をつけながらも関り合いは行われている。
 その関り合いを見ていると、おしゃべり、励まし、慰めや注意することが見られる。それらが行き過ぎて指導しなければ、と思うこともある。しかし、それは関わり合っているからこそだと思うし、そう思いたい。
 それでも注意して見ているのが、子どもたちが誰かをジャッジしていないか、ということ。例えば、教室で誰かがルールを守らない、ルールから逸脱をする。その言動を見て注意する。そうしていると互いにヒートアップして言葉が荒くなる。最後には「○○はいつもルールを守らないから悪いんだ!」等の言葉が聞こえてくる。このような言葉が出てしまうなら、僕は気づけばすぐに介入する。そこで僕は互いの言い分を聞きつつ、「ルールを守らないから悪いと決めたりすることはしなくていい、それは先生の仕事だよ、もちろん注意することは悪いことではないけどもね」のように指導する。
 子どもたちにジャッジをさせないようにするということについて説明したのだが、これで伝わっただろうか。ジャッジをするということは、相手に先入観を持つことにつながる。相手に先入観を持ち、決めつけてしまうことはネガティブな方向に作用することが多い。それが教室中に蔓延すると、間違いなく雰囲気は悪くなっていく。そして、最悪の場合いじめ等につながるかもしれない。
 このようなことを考えながら、子どもたちにジャッジをさせないよう気をつけている。このジャッジをしないということは、教師が子どもたちに対しても意識しないといけないことではないか、ということを記事を書きながら思った。

逆説的な防寒

今週のお題「防寒」

 

 防寒が今回のお題。確かに急に寒くなってきた。暑いかと思っていたら寒くなったから、そう思うのだろう。多くの方が言っているように季節の間が年々縮まっているように感じている。
 さて、寒くなってきたからこそ防寒である。しかし、特に何も防寒をしていないというのが正直なところである。せいぜい着る服が長袖になり、羽織るものが増えたぐらいだろうか。
 まだ寒さ本場と言ったところではないからでもある。まあ、さらに寒くなっても着ているものの厚みが変わるぐらいなのだが。
 このように最低限の防寒しかしない。むしろ、防寒をしていないぐらいである。気の持ちようだと思うが、寒がるから寒いのではないだろうか。ええ、気の持ちようですよね(笑)。だから、防寒をそんなにしっかりしないのである。
 このようなことが、逆説的に防寒になっているのではないだろうか。異論は認めます(笑)。

体験することを考える

 少し古い記事にはなるのですが、僕が目にしたのが最近なのでそこはご容赦ください。

 読んだ記事は、野口晃菜さんの個人ニュースのもの。簡単にニュースの内容を説明する。日本人は差別はよくないと思っているが、自身の周囲に障害者施設ができるのは反対する割合が大きい。差別をなくしていくためには、障害理解や障害について啓発だけでなく、日常的に関わり合う機会を設け、感情的に理解する場面を多くすることが必要。これはあくまでも、僕が簡単に説明しただけなので、詳しくは一読していただけると幸です。

news.yahoo.co.jp

 この記事で述べられているように、日常的に関わり合う機会を設け、感情的に理解する場面を多くすることが必要ということは大いに賛成である。体験を通し、自分の持っている差別や偏見の芽のようなものを自覚し、それを改めていく営みが必要だろう。それは自分の経験を振り返ってみてもそうだと思う。

 障害者理解となると、一般の小中学校では交流及び共同学習が行われる。よって、少なくとも学校という場で関わり合うという体験をすることになる。しかし、上記の記事にもあるように、その体験が良い方向へと作用していないように思う。ここで考えるのは、体験するだけではなく、その体験からどのようなことを学ぶというか教訓を得るというプロセスが必要なのではないか。つまり、より良い体験にするにはどうしたらいいか、ということ。

 さて、体験することが大切であるということは大切だと思っているが、一端横に置いておく。体験することは大切であるが、しかしすべてのことを体験することは不可能である。もう少し言うとすべてのことを直接体験することは難しいだろう。そこで、間接体験や疑似体験も行うことになる。むしろ、直接体験より多くなっているのではないだろうか。例えば、記事にもあるパラリンピック等。しかし、それがより良い方向へと作用していない。

 このように考えると、より良い方向へと作用するためにはどのようなことが必要になるだろうか。僕の今の考えでは他者への想像力が重要なのではないか、と思っている。しかし、まとまった考えではない。であるが、何となく確信を持っていることでもある。

 ここで浮かび上がってきた問いを確認する。①体験することは大切であるので、より良い体験にするにはどうしたらいいか。②他者への想像力を育むにはどうしたらいいか、またその想像力とはどのようなものなのか。

 記事を読んで考え、自分の中にぐるぐる渦巻いているものを言語化してみた。もし、何か思うことありましたら、是非とも教えてほしいです。

ぽくないけど

今週のお題「わたし○○部でした」

 

 わたしは学生の頃、野球部でした。あまりぽくないというか、いつも伝えると意外だと反応をいただく。まあ、自分でも少しそう感じているところはある。

 野球部は学校の中ではわりと中心的な存在ではなかったでしょうか。何となく野球部が一番と思っていなかったでしょうか。そこまで全面的に一番だ、と主張しているわけでなく、自然と一番だと振る舞っていなかったでしょうか。

 まあ、このイメージはあくまで僕が感じていたものではある。簡単に言うと、学校や学級の中で中心的な存在だったということです。しかし、僕はそこに当てはまらないような存在でした。イケていないグループに属していました。

 でも、野球部だったので、中心的なグループのノリに否応なく巻き込まれることがありました。しかし、そこには馴染めず、しらけさせていたように思います・・・。しらけさせていただけでなく、それに意識的にのろうともしていませんでした。

 そこで、自分らしさというか安易にノリに付いていかなかったのは、今ではよかったなと思います。その当時は、複雑な感情を抱くことは多くありましたが。

 このような理由で、ぽくはないと思っている。それでも、今の僕の数%はそのときの経験でできているようにも思っている。

やる気がなくてもそれなりに

今週のお題「やる気が出ないときの◯◯」

 

 やる気のないときは、気だるく特に何をするわけでもなく過ごしている。一人で暇なときはザッピングをしたり、YouTubeを見たりしながらゴロゴロしている。

 やる気がないのだから、だらだらしているしかないだろう、と諦めている。たまに「これでいいのか」という葛藤というか自己嫌悪のようなものがわき上がってはくるが。「まあ仕方のないことか」と諦めの方が大きい。
 やる気がないからと言って、仕事のパフォーマンスが著しく低下することはない、と自己評価している。あくまでも自己評価なので、もしかすると著しく低下しているかもしれないが(笑)。
 そのように言える理由は、やる気がなくてもそれはそれというわけではない。元々の仕事のパフォーマンスが高いわけではないから。もう少し説明すると、仕事の力の入れ具合がいつも70%程度だということ。つまり、常に全力投球ではないということ。これは決してサボっているわけではなく、余裕というか遊びがあるということ。
 70%程度でしているので、やる気がなくてもそれぐらいならできるよ、ということ。これが80%、90%ならやる気がないときは出せないだろうな、と思う。もちろん、調子がよく80%、90%を出しているときや出さざるを得ないときもある。しかし、そんな時間は長くは続かない。よって、70%程度である。
 やる気がなくてもそれなりにアベレージは残せるようにという工夫である。また、そのことが無理なく日々を過ごすための知恵にもなっている気がしている。

ゆっくり時間をかけて

お題「大失恋をしたときどう立ち直りましたか?」

 

 お題に参加してみませんか? と誘われたので、お題に答えてみる。しかし、どこの誰に僕の失恋したときの話に需要があるのだろうか・・・。自分自身大いに疑問を抱いているが、気にしたら書けないので気にしないようにしよう(笑)。

 大失恋という程のいいものではないが、ちゃんと失恋したことがあります。その時のことを振り返ってみる。

 失恋したときはそら落ち込みましたよね。残念という思いや恥ずかしい思いや悔しい思い等でぐちゃぐちゃになっていた。そのときに特に何をしたというわけではない。何となく今までのように過ごしながらゆっくりと時間をかけ消化していったように思う。いつもより不意に大きな声を出しやすくなっていたようにも思うが(苦笑)。

 失恋もそうだがどうしても足下のぬかるみが気になってしまう。気になり一歩を踏み出せなくなりがちでもある。しかし、明日や明後日の方を見ると、今よりは少しはよい展開になるかもしれない。そう考えると、明日や明後日に意識的に目を向けつつ、ゆっくりやり過ごすようなことが有効ではないだろうか。

 失恋のことを振り返ることで、このような考えを整理することができた。陳腐な言い回しになってしまうが、「やまない雨はない」ということだろうか。もし、失恋で悩んでいる方にはそんなことを意識し、やり過ごしてみてはいかがでしょうか。

 書き終わっても思うのだが、こんな話に誰が興味あるんだろうか(笑)。

松村『教育書の生かし方』

 出版前から楽しみにしていた一冊。僕も教育書マニア? のように読書をしてきているので、どんな本がどのように紹介されているのか、とても気になっていた。

 松村先生が読んできたもので重なっているものがいくつもあった。また、読んだことはないものもあり、読んでみたい、と思わされるものがいくつもあった。ということで、次に手に取ってみることにしたい。

 教育書を生かすためには、教育書を自分事として読み進める必要がある、と思った。そのためには読者である教師が課題意識を持っている必要があるだろう。それがないと教育書から学ぶことはできない。もちろん、課題意識は意識的に持っているものだけでなく、教育書を読んでいるうちに意識されるものも含まれる。そして、本書で松村先生がしているように、意味づけを行うことも必要だろう。

 教育書から学んだことを生かしどのように自身の教育実践を変えていったか、自身の教育実践にどう影響があったのか等を。自分でも選書して教育書の生かし方を是非とも書いてみたくなった。

 自分の教育実践を振り返り、改めて意味づけるという意味を込め、松村先生のように書いてみようかしら。もし、形になったとしたらこのブログでも披露したい。

ぼくはマイナー

今週のお題「わたしは○○ナー」

 

 ぼくはマイナーである。あまり知られていないものを好きになるし、愛する。メジャーなものは何だか好きでもないのに乗ってしまう感じがして、あまり好きになれない。だいいち、あまりみんなで一緒に行動するということが好きではない。まあ、要するに天邪鬼ということだ(笑)。

 プロレスが好きというのもそうだ。格闘技全盛の時代でも、格闘技には目もくれずプロレスを観ていた。「プロレスなんて・・・」と言われつつも、プロレスを好きでいた。

 とにかくマイナーを志向してしまう質らしい。メジャーに憧れのようなものを持ちつつも、マイナーで位置することに心地よさを感じている。そして、マイナーな位置にいる自分を悪くない、と思っている(笑)。

 

乱雑な中にこだわりを

今週のお題「カバンの中身」

 

 カバンの中身ですか・・・。別に見せるわけではないのでしたら、いいですよ。見せられるような中身とはなっていませんので。

 どちらかと言うと、整理整頓は得意ではないし、嫌いである。簡単に言うと面倒くさい・・・。人の目に触れる場所はそれなりに整理整頓しています。しかし、カバンの中身って見せませんよね。芸能人でもあるまいし(笑)。

 だから、かなり乱雑になっています。特に使わないものを日々せっせと運んでいる状態です。言い訳をすると、カバンの中身を出したとしたら、それをまた家かどこかに整理整頓しないといけなくなるじゃありませんか。それはかなりの重労働ですよね!?

 そんな乱雑な中身ではあるが、それなりにこだわりというかマストアイテムがある。

 一つは手帳。これは過去にも記事にしているので割愛。 

 もう一つは論文(紙)。CiNiiやGoogle Scholarで時間のあるときは気になるワードで検索をしている。そこでリンクのある論文だけになるが、印刷していつでも読めるようにしている。電子機器で読むということもできるが、まだまだ読むのはもっぱら紙派である。論文検索をしていると、自分が思いついたことや自分が考えていることは、どこかですでに研究されているように思う。また、参考引用文献が豊富に掲載されているので、学びの数珠つなぎには打ってつけなのである。

 とは言いつつも、そんなに論文を読む時間があるわけでもなく、カバンの中で眠りがちではあるが。しかし、あればいつか読むのではないか、と自分自身に少しばかり期待している。それは手帳にも言えることだ。乱雑の中にもこだわりあり、と良いようにまとめておく(笑)。